あなたへ



 桃色で空をにぎわしていた桜ももうすでに葉桜となり、寒さと暖かさが交互に来ていた日々も、穏やかな雨音とともに通り過ぎようとしています。出会いの季節と呼ばれながら、いつのまにか過ぎ去っていく今日を、あなたが僕の気持ちを読むことで過ごしてくれることを嬉しく思います。
あなたが明日何をするのかを分からないことだけが僕の気がかりなところです。

 けれど、仕方が無いのです。もう、僕は疲れてしまいました。毎日を生きることに。
などと言うとよくある遺書のようになってしまいますが、これまだの日々がつまらなかったわけではありません。毎日はとても楽しかった。あなたをみつめ、あなたの一日を追い続けることは。

 そうです。僕はあなたをずっと見ていました。昨日あなたが何時に起きたのかも知っています。あの、夜遅くまで起きていた日に何をしていたのかも。歯ブラシはそろそろ買い替え時ではないですか? トイレに入っているとき、いつもどこを見ているのかも僕はちゃんと知っているのです。

 あなたは僕のすべてです。そう言われてあなたが気持ちよく思わないことも知っています。ですがどうか聞いて欲しいのです。これが最初で最後の僕からあなたへの想いなのですから。
そう。これは本当は手紙なのです。僕からあなたへ。あなただけへの。






 僕があなたのことを始めて見たのはよく晴れた日でした。二千一年の三月二十八日。あなたはその日どこにいたのか覚えていますか? 僕はしっかりとあなたを見ていたのです。あなたを一目見、そして恋に落ちたのです。

いえ、恋と呼ぶには僕の気持ちはあまりにも強すぎました。僕はこれほどの気持ちになったことがこれまでありません。それは妄執に近いものでした。あなたの傍にいて、あなたの声を聞きたい。あなたの指先に触れ、爪の硬さを確かめながら徐々に手を包み込むように這っていきたい。あなたの足元にひざまずき、汚れきったこの世界に浸かっている両足を舌を使って浄化したい。

僕はまるではめ込み忘れたジグソーパズルのピースが、あるべき場所へと運ばれるように一心にあなたを追っていきました。あなたの後ろを近づき過ぎないように、離れないように。そして、あなたが家に入るのを見、あなたがまた家から出てくるのをその日中ずっと待っていたのです。

 愚かな欲求。あなたが気味悪く思うことは分かっています。だからこそ僕はあの日からずっと、遠くからあなたを見ていることしか出来なかったのです。

 決して叶わぬ願望。分かっています。僕が、「僕」という一人称を使うのに適していない人間であるのと同じほどに、あなたが僕の気持ちを受け入れることが無いことも。出来ることは見ているだけ。心の中に溢れる感情を必死に押し込めてあなたを。

 四月の雨の中、あなたが歩いていたその足跡をたどろうとしていた日もありました。五月の晴れ渡った空の下、あなたが話す声を追って、駆け出しそうになったこともありました。あなたはいつだって僕には気づかず、一日一日を生きていた。僕の中で徐々に膨らんでいくあなたとは違って、あなたの中に僕がまったくいないことを辛く思ったこともありました。時には僕が風邪を引いてしまい、痛む頭よりもあなたに会えない辛さで縮んでしまった心の痛みにうずくまったときも。

 あなたが一度も外に出てこない日は、待っている僕の体が不安と猜疑とに引かれ千々に引き裂かれてしまいそうになりました。辛くって、そんな自身が情けなくて道にうずくまったままに僕は待っていました。あなたを。

 あなたを見ているだけで僕は幸せでした。あなたを見れないことが僕の悲しみでした。触れられなくてもいい。話すことが出来なくてもよかったのです。

 ああ、でもそれは嘘でした。
 あなたに触れたかった。その思いを抑えることなんて僕には到底出来なかった。

 僕はあなたに触れました。ただ、一度だけ。
覚えていますか? あの雨の日を。十月になってから思い出したように振り出した突然の雨の日を。十七日のことを。






 あなたは足早に街の中を歩いていました。通り過ぎる人にぶつかりそうになったのは一度や二度ではありませんでしたね。僕はそんなあなたの後ろをただゆっくりと歩いていられればよかったのです。だけど無理だった。交差点で信号待ちをしているあなたの後ろ姿は、まるで僕を今すぐにでも受け入れてくれるような気がしたのです。体の脇に降りたあなたの両手は、僕の手が差し込まれるのを待っているように見えたのです。

 僕はいつもの距離から少しだけあなたに近づきました。あなたの後ろに四十代くらいのおばさんがいました。あなたの身体を隠すようにおばさんは一歩横にずれました。あなたを見たくて僕はおばさんの横を通り過ぎました。その途端に信号が青に変わったのです。

 一瞬でした。

 僕は逃げ遅れた人のように後ろから突き飛ばされつんのめり、軽く両手を前に出しました。あなたに触れようとしたのではないのです。ただ転ぶことを予想しただけなのです。けれど、手は道路につくことはなく、硬いアスファルトの感触の代わりに僕の右手が感じたのはあなたの背中でした。
そして、あなたは振り返りました。

 あなたは僕を見たのです。僕はあなたに言いました。「すいません」あなたは何も言わずにまた前を向いて歩き出してしまいました。僕があなたに触れた手を大事に抱きしめていたことまでは、あなたは見ることはなかったと思います。それでも。

 あなたは僕を見た。

 否定してはいけません。僕はしっかりとあなたの目を見たのです。そしてあなたは僕の眼を見て、僕はあなたの輪郭を瞳に焼き、そして、あなたの記憶のどこかに僕の姿は記憶されたのです。

 そうです。あなたは僕を見たのだ。僕をあなたは見たのです。
 人は決して自分の記憶を無くす事は無いそうです。あれから調べた本に書いてありました。忘れるだけなのです。忘れたことは、何かのきっかけで思い出すことが出来るのです。

 僕がその事実を知ったときの感動をどうか知ってください。僕は飛び上がりました。こぶしを振り回しながら部屋中を走り回りました。畳んであった布団を掴んで振り回して隅に投げつけ、その上に思い切り倒れこみました。散々暴れたあとに見上げた僕の部屋の天井は、見慣れたものであるはずなのに今までに見たことが無いほど薄暗く見えました。ここにあなたがいないことを、僕は瞳への痛みと共に思い知りました。

 そして、愚かにも思ってしまったのです。あなたにもっと近づきたいと。






 本当はこれ以上のことはあなたには知られないままでいたい。あなたに知られないままに、僕はいなくなってしまいたい。海の中に重りを持ったまま飛び込んで魚の餌になってしまいたい。そしていつかその海から立ち上った雲があなたのうえに僕を降らせればいい。あなたは僕のことをまるで知らないままに、その瞳に、口に、服の中へと僕を滑り込ませればいい。

 馬鹿なことを夢想することはもう止めようと思ったのに、結局僕は止めることが出来ないようです。これを読むあなたの中で、すでに僕は嫌な存在になっているはずなのに、これ以上僕を嫌って欲しくはないという気持ちさえあるのです。僕は卑怯です。卑怯でなければあんなことは出来ないはずなのです。

 僕はあなたを知りたいと思う気持ちを抑え切れなかった。何日も気持ちを抑えようと思うたびに、あなたに触れた右手は、だんだんと汚れていきました。そして、僕はあなたのすべてを知ろうと思ったのです。






 12月になっていました。あの二十三日の日にあなたが留守だったのは一体なぜなのでしょう? 僕は未だにその日のことを知りたいという願望を捨てられないのです。あなたに会った日からずっとあなたが外で何をしているのかは見ていました。僕がどうしても入れない場所にあなたが入ってしまう時以外はずっと。けれどあの日だけは僕はあなたを見ていたい気持ちを押さえ、あなたの家に忍び込んでいたのです。

 あなたの他には誰もいないことはわかっていました。部屋の中には思っていたほどあなたの匂いは無くて、がっかりしたのを覚えています。部屋のいたるところに私は卑怯な道具を取り付けました。あの時から僕は転落したのです。堕落しきった人間に成り下がったのです。あなたを想っているだなんて奇麗事を言いながら、僕は結局あなたのことをすべて知っておきたかっただけなのです。あなたを知ること。それが僕の中のすべてなのです。あなたが完全に一人になっていたい場所にまで小さな黒い箱を取り付けたとき、僕は興奮しながらずっと爆発しそうな自分を抑えていました。最低な人間なのです。僕は。

僕はあなたを知りました。
あなたの寝息を聞きながら僕は寝ました。あなたが咀嚼する音を聞きながら僕は一人食事を取りました。あなたが歌う鼻歌を、僕は必死で探し当てました。今、これを書いているときに後ろで流れています。

あなたがいつも誰に電話をかけているのか、一体誰から電話がかかってくるのかも僕は知りました。
あなたがいつも食べるものも、あなたが着る服のブランドも、あなたのお気に入りも、すべて僕は知りました。

僕はあなたを見ていたかったのです。だからあなたのすべてを知りたかったのです。
あなたを知ることが僕の生きている理由。あなたを見続けることが僕の使命。綺麗な言葉で彩った重みの無い言葉で、僕は自分の毎日を過ごしました。あなたと共に。あなたには決して知られないように。

 あなたを知りたい。
 あなたを見たい。
 その気持ちは今も変わりません。いえ、前よりも強いほどなのです。


 だから。
 死にます。


 あなたを見ていないことが耐えられないのです。あなたのことを少しでも知らないことが僕の心を苦しめるのです。そして、知っていることが多くなればなるほどに、僕には分からないことばかりが増えていくのです。

 あなたはどんなことに笑うのですか?

 あなたはどんなことに怒るのですか?

 あなたはなんと言われたら悲しいのですか?

 あなたはだれの言葉に一番安心するのですか?

 僕はあなたを知りたい。僕はあなたを見ていたい。だけど、僕にはあなたが分からないのです。あなたのことは何でも知っているはずなのに。見ていたのに。あなたのことが分からないのです。

 けれど僕はあなたに声をかけることは出来ません。それだけの勇気を出すよりは、僕は無言のままに死ぬ道を選びます。そして無言では死にきれないで、結局こんな形の手紙を、あなたに送ることにしました。

 僕は卑怯です。僕は最低な人間です。
 だけどあなたを愛しています。

 この手紙を読めば、あなたには僕からの手紙だと分かるはずです。だって僕らは会ったのだから。あの一瞬の中で出会った僕の顔を、どうか思い出してください。

 今あなたはどんな顔をしていますか。困っていますか。怒っていますか。嬉しいですか? それだけは無いと思っています。本当です。それほど、僕はうぬぼれてはいません。でも、もし、あなたに知られぬままにいなくなる僕のことを哀しんでくれたら、僕はそれだけであなたの元に帰って来れそうな気がします。

 最後に一つだけ約束してください。
 雨の日は、少しの間だけでいいですから、傘を差さずに空を見てください。
 それでは。お元気で。


PS

もしもあなたが僕を思い出すのにてこずった時のために書いておきます。僕はあの日、ジーンズに青いシャツを着ていました。忘れたなんて言わないですよね?

あとがき
これは小説なんだろうか?
そう何度も思いながらも、私は私の中に生まれてしまったこの作品の主人公の気持ちを抑えられなかった。
キーを打つたびに、すぐ傍で聞こえてきそうな手紙の主の心音。吐息。そして、流れ込んでくる思考。
手紙という形式で終えれたことを、心から感謝せずにはいられない。
そして、発表という名で私は彼を浄化したい。