少女 楽静

 放課後の教室に、どことなく寂しい日の光が差し込んでいる。冬が終りかけているとはいえ、日はまだ低い。
気がついたときには、すでに暗くなっている事も少なくは無い。教室は、ちょうどそんな明るさと、暗闇の中間にあった。

 瞬きするたびに教室の暗さに慣れていくのを感じながら、良太は足音を立てないように教室の中へ入っていく。
教室の隅にはまるで置き忘れられた人形のようにぽつんと、一人の少女が座っている。
良太の入ってきたのにも気付いていないのか、その視線はどこか危なげに窓の外を見ている。

 金森真奈美。

 良太は声に出さずに少女の名を呼ぶ。少女は動かない。まるで在りもしない幻想に心奪われたかのように、
じっと黒い瞳は外を見つめている。肩までかかる黒髪が、開いた窓から流れる風に凪ぐのにも気に止めず。

 彼女と同じ物を見てみたい。
 強烈なまでに感じる欲望に突き動かされて、良太は少女の領域へ一歩足を踏み込んだ。途端、
足音一つしなかったにもかかわらず少女の顔ははっと外から離れ、良太のほうへ向く。

「志藤くん」

 良太は少女の顔に現れている明らかな暗さの原因を瞬時に悟る事が出来た。少女の目には生気はなく、
自分の事を呼んだ声は、少しかすれている。
 少女に溢れている感情。それは嘆き。自分の空間を侵されたことへの嘆きなのか、それとも……

「金森さん」

 名を呼んで、良太はまた一歩近づく。机一個分しかない二人の距離。しかし、どこか遠いものを良太は感じてしまう。
それも強く。

「どうしたの? こんな時間に」

 少女の声はどことなくよそよそしい気がした。
いつもの彼女――良太の中に明るいイメージを残す――はまるで幻であったかのように。冷たく、そして強い。

「いや、あの」

 言葉が思うように出てこない。黒と白から構成されるはずの彼女の目に、なぜかまったく異質なもの、
暗き闇の海を連想する。彼女の瞳は冷たく良太の体を縛っていく。たっぷり水を染み込ませた麻のように。
捕らわれては身動きは出来ない。言葉は心の中に閉じられて、瞳は、拒否する事を否定されて、彼女に釘つけになる。

 少女は、明らかに疑問の表情で首をかしげる。

「どうしたの?」

 その顔にいつもの彼女の表情が重なる。クラスの中心にいて、華やかな笑みを浮かべる彼女。
校庭で体操着を熱そうに仰ぎながら飛んでくるボールを楽しそうに追いかける彼女。
明るさしかない彼女の表情が、今はまるで全てをはぎ落としたかのように目の前にある。

 締め付けるような沈黙。

 濡れた麻の紐は体に食い込み、精神までその粗い縄目で締め付けてくる。
逃れようとする身動きさえも、縄を心に食い込ます助けをするだけ。あえぐように、良太は言葉を紡ぐ。

「……金森さんこそ、どうしたのさ?」

 教室の中に、一過ぎ冷たい風が吹く。

 少女の髪を凪ぎ、良太の頬をすり抜けていく風。言葉一つ吐くだけでわいてしまった汗が、
風に乗って教室の外へと運ばれていく。良太は、自分が一歩歩みを彼女へと進めていることに気付いた。
それが自分が許されている証なのか分からぬままに、良太は目の前の少女を見る。

 彼女は小さく微笑んだ。

「疲れちゃったのよ、私」

 微笑んだままで、自分の髪を抑えるようになでる。風に弄ばれていた髪が、その一なでで、
彼女の目元に流れ落ちる。そうして良太を見る彼女の瞳は、どこか懺悔をする罪びとのように、潤んでいた。

 体を締め付けていたはずの感触を、良太はいつの間にか忘れていた。一歩、また足が少女のもとへつ進む。
いまや、その距離は机一つ分も無い。

「疲れちゃったって、何に?」

 少女は、「ちょっと寒いわね」といいながら、窓を閉じた。眉をかしげたままでいる良太に少しまた微笑むと、
立ち上がり、隣りの机の上に腰を下ろす。二人の距離がまた縮まる。

「色々な事にね。疲れちゃったの。元気に笑うこととか、勉強とか、遊ぶ事とか、怒る事とか。
そんなの全部に、疲れちゃったのよ」

 言って少女は目を伏せる。
 まるで操るものがいなくなった人形のように肩を落として。教室の中にたった二人しかいないという事実を、
思わず良太は忘れそうになる。自分しか存在していないかのように、彼女の気配は遠くになる。
息遣いだけが存在の証。しかし、その息遣いさえも、自分のものよりは弱く、小さい。

 それはまるで使い古された「物」のよう。
 魂さえもすり減らした、年老いた「人間」のよう。
 まだ何度も春を迎えるはずの、まだ何度も喜びや苦しみに出会うはずの、
そんな同年代の少女にはとても見えない。一瞬、現実かさえも疑いたくなるほどの、弱い存在。

 良太は自分が震えていることに気づいた。
 目の前の少女を救いたい。そんな使命にも似た感情が、心を揺り動かす。しかし、その恐ろしさに、
自身の胸がおののくのも事実。それでも、良太は口を開く。

「分かるよ、その気持ち」

 少女が、はっと良太を見る。見開かれた目の中に、自分の姿が見える。弱々しく、
少しおどおどする自分の姿。目に映る小さな肖像を否定しながら、良太は言葉を続ける。

「誰だって疲れるよ。こんな同じような毎日なんだから。笑う事だって、怒ることだって、虚しさを覚えるよ。
 皆心の中では相手を信用しなくて、表面だけで話をしている。意味の無い会話の羅列。
 教師達は本当に大切な事を教えずに、薄い本の中にかかれた手垢にまみれた昔話を語るだけ。
 真実なんて、とうに見つからないことが分かっているのに、それを探すフリをしている。
 ……そんな世の中だもの。疲れるのは分かるよ」

 じっと、少女は良太の目を見つめる。彼女を小さく感じながらも、その瞳に胸を揺らされる。
彼女の上唇は、下の唇を押さえつける。そのくせ視線だけが、閉じ込められた舌に変わって、
良太の顔中を見つめる。体が火照る。衝動を隠すように、良太は言葉を続ける。

「だけど、疲れたなんて言って、全てを投げ出したって、何も変わらないよ。
 金森さんを大切に思う人だっていっぱいいるんだから。そんな事を言ったら皆も悲しむよ。
 僕だって、心配するし。何か悩み事があるんだったら相談してくれればいいしさ。元気出してよ」

 ピタリと、彼女の瞳が再び良太の瞳の前で静止する。
 少女の顔が真白になる。そう思うほどに、その顔には何の表情も浮かばない。
 ゆっくりと、結ばれていた口がほころびた。

「私が、分かるの?」

 それはあまりにもゆっくりとした言葉。そのまま、少女は机から軽く弾みをつけており、良太の脇をすり抜ける。

「あ、金森さん?」

 振り返る良太に、しかし少女は立ち止まらずに、教室のドアへ向けて歩いていく。

「金森さん」

 良太の呼びかけに答えずに、金森は教室のドアをゆっくりと開いた。足を一歩外へと出してから、ゆっくりと振り向く。
 その顔にある表情を、良太は分からない。
 良太が何か言おうと再び口を開いた時、すでに金森は見えなくなっていた。

『私が、分かるの?』

 声が心に蘇る。
 初めゆっくりと流れるようだった言葉は、繰り返されるたびに鋭さを増し、良太の心に刃を突き立てる。

「僕は」

 答えを求める聖者のように呟きながら、良太は胸を押さえつけた。
 カタカタと、外から拭く風が窓ガラスを鳴らす。
 もう、教室には良太しかいない。




 金森真奈美は次の日から学校にこなくなった。
 良太は、授業中でも、休み時間であっても、自分が知らずに窓際の空席――金森真奈美の席――を見ていることに気づいた。

『私が、分かるの?』

 あの日に彼女が呟いた言葉は、時々夢の中に現れては良太のやわな精神を切り刻んでいく。
また時には幻覚として目の前に、鋭い瞳を持った少女の姿と共に現れる。少女の表情は、
決まって憎しみや、悲しみ、そして侮蔑の色をもって現れる。

 そして気付かされる。『自分は彼女の、なにを知っていたのだろう』と。
 級友と楽しく話をしながらも、体育で汗を流しながらも、良太はもう、心から笑うことも、
怒ることも、悲しむ事も、できなくなっている自分を思い知る。

「なんか、疲れたな」

 休み時間に呟けば、誰かが必ず気遣った目を向けてくる。それでも、その目の中にある真意を、
良太は疑いたくなる。「大丈夫?」の言葉に余計自分の精神が疲れてくるのを感じる。




 新しく春が始まる頃、放課後に教室の隅に座ったままでいる良太の姿があった。
 良太は呟く。窓から外を見たままで、

「僕は、分かるよ」

あとがき
人間関係が嫌になったとき書いた作品です。
かなりシリアスですな。自分で言うのもなんですが。
そして

ひねくれてるってのがよくわかる(苦笑)

書いた後でいうのもなんですが、

「わかるよ」
って言われると

「嘘つけよ」
って言いたくなりません?

なるとしたらあなたはこっち側です。

ここまで読んでくれてありがとうございました。