記憶 作楽静

 罪。

 決して過去が消えぬように、行われた罪は消えはしない。それならばいっそ、忘れてしまえばいい。

 そう、思っていた。

 忘れたいと思うことは、覚えていると同じだと知りながら。

 俺はずっと、贖罪の方法を探していたんだろう。許されることのない罪から逃れるために。


 風が運んでくる匂いに、日野陽助は一人、眉間にしわを寄せた。

 夕方の生暖かい風に、秋に染まった木々から香りが運ばれる。庭先に柿の木がある家からは、熟れた柿の香りが漂う。
そして、同時に聞こえる秋の音。カサリと、小さな音を立てて、木の葉が地面に落ち、秋の虫が、小さな羽音を振るわせる。

(また、この季節がやってきた)

 叫びだしたくなるのをようやく押さえて、陽助は足早に道を通り抜ける。
少しでも、少しでも早くその場所から離れたくて。そのためには、その場所を通らなければならない事を知りながら。

 柿木に目を向けないようにその角を右に曲がり、古びた昔ながらの家々の横を通り過ぎる。
小さな子供と、その母親が楽しそうに歩くその横を苦痛に歪ませた顔で通り抜けると、後は、また、角を曲がるだけだった。

 一気にその場所を通り抜けようとして、陽助は躊躇した。角の向こう、その場所に、今まで見たことのない景色があった。

 一人の女性が、風に髪をなびかせたっている。女性というほど年をとってはいなくて、でも、少女には見えない。
自分と同じぐらいだと、見た目で判断する。古びた塀と、彼女に、夕日は今日の終わりをその真っ赤な光で告げている。

 どこにでもあるような風景なのに、なぜかとてもなつかしてくて、つい、走り抜けようとしたその足を、ゆっくり踏み出してしまう。
一歩、二歩、その足が彼女のそばに近づくに連れ、頭の中に、不思議な警戒音が鳴り響く。

(知っている。自分は彼女を知っている)

 腰までありそうな黒い髪。かつて、一人の少年が、少女に上げた赤いリボンは、彼女の髪にも似合いそうだった。
否、それよりも、彼女が髪を結んでいないことに違和感を覚える。

 違和感を残したままで、そのまま通り抜けようとした陽助に、何かを捕らえようとするかのように周りを凝視していた彼女が気づく。

 ゆっくりと、その口が開く。紡がれる言葉は、聞き取れないほどに小さい。しかし、その口ははっきりと『ようすけ』と自分の名を呼んでいるように思えた。

「だれだ?」

 知らぬ間に、陽助はそう問いかけていた。妙な胸騒ぎを、気のせいだと押さえながら、目の前に立つ彼女を見る。
疑問符を浮かべた顔で、彼女は首を傾けてみせる。そして、その顔に少し笑みが浮かんだ。

「覚えてない?」

 覚えてない?

 言葉は、刃となって陽助を貫いた。瞬間、固まったまま陽助は動けなくなる。

 カサカサと乾いた音を立てて、木の葉は風に転がされていく。もうしばらくしたら、どの家々からも、おいしそうな匂いが漂い始めるのだろう。
そう、周りは何もかも日常そのままで、なのに陽助と彼女だけは、時が止まったかのように見つめ合う。

 声に、その瞳に、その表情に、その、全てに見覚えが合った。久しぶりに会った人物に対して、これほどの旋律を覚えたことが、陽助にはなかった。

 恐怖?

 それを、この場で使うのが正しいか、陽助には分からない。
ただ、できることは、目の前で微笑む彼女に対して、精一杯懐かしそうな顔をして答えることだけ。引きつる顔を無理やり笑顔にして。

「覚えてるさ、仁美、だろ?」

 にこりと、彼女は嬉しそうに笑みを浮かべた。その微笑みが、ますます陽助を苦しめることも知らずに。

「そう、正解。よく覚えていたね」
「当たり前じゃねえか。久しぶりだな」

 忘れるはずがない。いや、忘れられるはずがないのだから。

「久しぶりって……そうだね、十年ぶりかな。私が七歳で陽助は確か」

 言ったきり、腕を組んで悩む仁美に、陽助は少しだけ余裕を取り戻した。

「俺も七歳だったぜ」

 その言葉に、仁美が不思議そうな顔をする。

「あれ? そうだっけ? もう少し、年上だったような気がしてたんだけど。……じゃあ、私達、同い年だったんだ」
「何言ってんだ、学校だって一緒に行ったじゃねえか」

 しょうがねえ奴だなと後に続けようとした陽助の口は、仁美の真顔によって、それ以上開くことはなかった。

「私、陽助と一緒に学校行ったっけ?」

 記憶の欠如。

 自分という存在が不自然に思われる。その理由はよく分かっていた。痛いほどに。自分の罪を再確認させられる。

「ま、そ、そんなことどうでもいいんじゃねえか? 覚えてないなんてさ」

 わざとなんでもないように言ってのける。そうだねと言いたげにうなづくと、仁美はふとその目を陽助以外の景色に移した。

「でも私、ここの事ほとんど覚えてないんだ。ここで暮らしたことも、陽助の事も」

 仁美は、あたりを見渡しながら、懐かしそうに、でも、違和感がある表情で呟く。
それは、久しぶりに戻ってきたもの、誰もが体験することなのだろう。しかし、その表情すら、今の陽助には辛い。

『覚えていない』

 忘れられてしまったことが辛いのではない。何が忘れられたのかが、そう考えてしまうことが、陽助にとっては辛かった。
その、忘れられたことの中に、自分の罪がある事を、少しでも願う自分に、ますますいやな気分になる。

「んで、何しに来たんだよ?」

 いやな気分を無理やり心の中に押し込んで、何気なさを装って聞く。そう、おかしくないはずだ。
久しぶりに合った者に対して、当然の事を聞いただけなのだから。しかし、仁美は途端暗い表情になった。思わずぎくりとさせられる。

(まさか)

 罪。
 瞬間的に浮かんだ言葉に、背筋が凍りつく。

 罪を暴きに。

 その言葉が、口から出るかもしれないという思いに、手が自然に組まれる。両手に力が入る。
そして、その目が仁美を見る。少し言うのを悩むように、仁美は手を交差させた。近くに転がっていた石を、軽く蹴飛ばす。
恥ずかしそうに、その目が俯くまで、そう時間はかからなかった。

「ん、ちょっと、昔の事を思い出せるかな、って思って」

 昔。罪の時。自分が、十字架を背負ってしまった時間。陽助にとって、昔はそれしか浮かばない。

「昔の事って、何か忘れたってのか?」
「うん」

 俯いたままで、仁美は悲しそうに肯定する。それが何か聞きたい欲望と、聞きたくない危機感に悩まされながら、陽助は次の言葉を紡いでいた。

「何を、忘れたんだ?」

 聞いてはいけないことのはず。それを、陽助は一番よく知っていた。忘れたのが自分の罪でないのなら、自分は罪を償わなければならないのだから。
きっと、自らの命によって、贖罪をしなければならない。

「何を忘れたって言うより、ほとんど覚えてないのよ。十年前の、ちょうど一年間ぐらい。
 ……陽助と合ってから、引っ越すまでの間に起こったこと。特に、陽助と一緒にいた時の時間」

 ピシリと、脳に音が響くのを、陽助は感じた。空洞だった空間に、突如生まれた音のように、やけにそれは響いて、今までで一番の警告を与える。

 自分といる時の事を忘れたということは、それはそのまま、自分を忘れたということ。そして、その理由は……

「でね、もう一つ覚えていないことがあるの」

 無言になる陽助に、仁美は気づかずに続ける。言いにくそうに少し言葉を区切って。
それでも、言わなければならないという決死の表情が、その口から言葉を吐かせる。

「私ね、小さい時にできたらしい傷があるの。お腹に、結構大きい傷なんだけどね。
 絶対、盲腸だとか、内臓に異変があったとか、そういうんじゃなくて、なんていうのかな、切られたところを、縫合した跡って言うのかな。
 でも、全然そういうことされた記憶がないの」

 滝のように、言葉は強烈な音となって陽助の耳に次々と流れ込んでくる。もうやめてくれと、何度も陽助は膝をつき、耳を閉じてしまいたいと思った。
しかし、自らの罪に対する言葉の前に、ただ立ち尽くす。そして、思う。仁美は幸せなのだろう、と。

「別に、忘れたなら、忘れたままでいいんじゃないか?」

 自分は、忘れられたくても忘れられないのに。忘れてしまった仁美に対して羨望の感情が浮かんでくる。
しかし、陽助の言葉に、仁美は、本当に辛そうに顔を歪ませた。片手をそっと腹部に当てて、ある個所をなでる。

「ダメよ。忘れてしまってはいても、その忘れた事を、私はおぼえているんだもん。
 忘れた事を忘れた人は、思い出すこともできないけど、私は思い出すことができるんだから、思い出さなくちゃ」

 それに、と俯いていた顔を上げて、夏美は少し陽気に陽助を見る。
その目の端に光るものを見つけて、陽助はすぐさまここから逃げ出したい思いにかられた。
でも、それはできない。すぐさま、仁美の言葉が耳に届く。

「ヤッパリ気になるんだ。この傷の事もそうだけど、陽助の事を忘れていた理由も。
 だって、ここに来てみて、周りの景色見てたら、すぐに思い出せたんだよ、陽助の事。なのになんで他の事覚えてないか気になるじゃない」

 そう言って恥ずかしそうに俯く理由も、ちらりと自分の顔を見て、あわてて顔をそらす理由も、陽助にはわからなかった。
ただ、次の言葉を予測し、その言葉が出ないことだけを心の中で強く願う。叶うことなど、ないと知りながら。

「だから、さ。陽助、私の記憶を探すの手伝ってくれない?」

 突然の言葉。それなのに、心のどこかでは、その言葉が出る事を予測していた。そして、自分がどう答えるかも。

 罪からは、逃れられない。

 いつでも、俺は、あなたの裁きを受けよう。

「いいよ。手伝ってやる」
「本当!?」

 パァッと、仁美の顔が明るくなる。その顔が、自分を憎むものに変わると想像するのは、あまりにも辛すぎた。だから、わざとらしく背を向ける。

「俺を見ただけで、俺の事思い出したんだ。町のあちこち歩いていれば、そのうち記憶全部よみがえるんじゃねえか?」
「あ、そうだね」

 明るい声で言い、仁美は、陽助の隣にぴたりと並んだ。ちらりと見上げるように陽助を見た後で、その顔がほころぶ。

「なんだ?」

 わけがわからず、そう聞き返していた。

「ううん。変わってないなって思い出したの。一緒に帰るとき、いつも陽助って真っ先に私に背を向けて歩き出したでしょ? 
 私のことなんて考えもしないでさ」

 そうだったろうか? 遠い記憶の中の自分を、それほど陽助は思い出すことはできなかった。
それが、自分の事だからなのか、あの時にばかりに記憶が集中しているのかは分からなくて、ただ、首を振る。

「昔の自分なんて、あんまり覚えてないよ」
「そう? でも、結構かっこよかったよ。陽助って」

 踏み出そうと思っていた足が止まる。仁美の言葉が、足にくいを打ち込む。

「どうしたの?」

 いぶかしげに聞く彼女の、その無邪気な顔に、とてつもなく苛立ちがあふれてくる。ぶっきらぼうに、ただ吐き捨てる。

「かっこよくなんかねえよ。昔も、今も」
「え、そんなことないよ」
「そうなんだよ!」

 叫んでいた。びくりと、仁美が肩を震わす。いらだった心まま、荒れた言葉を吐いたことが途端後悔となって襲ってくる。

「……ゴメン」
「な、何で謝るの。私は別に」
「行こうぜ、早くいろいろと見て回らないと、日がくれちまうよ」

 呟く言葉を聞き流して、さっさと道を歩いていく。

「う、うん」

 小さく頷いた声。その弱々しさに、ますます陽助の心は苛立たされた。

 夕日の道を二人で歩いていく。

 それは、まるであの時のままで。

 だからこそ、彼女は思い出すだろう。

 そして、自分に罪を与えるのだろう。




「……ねぇ、陽助」

 何度となくためらったといった様子で、仁美が言葉をかけてくる。

「なに?」

 無言でいるのも気が引けて、陽助はただそれだけを呟いた。ぐっと、その袖が引かれる。

「どうしたんだよ?」
「あそこ、よっていかない?」

 そう言って、仁美が指差した先には、小さな公園があった。もう夜が近いからだろう。
人っ子一人いないその公園は、懐かしさと同時に、寂しい空気を与えてくれる。

「いいぜ」

 別に断る理由などない。

 ゆっくりと、二人は何かに導かれデモしたように、公園に足を踏み入れた。
そのまま、何も言わず、無言のままで、二人同時に公園隅の鉄棒の上に、ひょいと飛び乗る。

「やっぱり、変わらないね」

 仁美の笑顔に、思わず陽助は苦笑した。

 公園隅の鉄棒の上。それは、二人がいつも遊んでいた時の、休憩場所だった。
公園の一番の人気者はブランコで、次は滑り台、それから砂場と、昼はいつもにぎわっていて、少し疲れた時に座れる場所は、人気のない鉄棒の上ぐらいだった。
だから二人していつも、さび付いた鉄棒の上に据わっては、その手が鉄くさくなるまで、いろいろな話をしていた。

「私、いろいろ思い出したよ」

 ぽそりと、なんでもないように仁美は言った。その言葉にギョッとしながらも、動揺を隠して笑みを向ける。

「そうか、よかったな」

 でも仁美はその笑みには答えずに、ぶらぶらと足を振った。体制悪く体を前後に揺らし、思い出にふけるように目を閉じる。そして、嬉しそうに口を開く。

「私と陽助、よくここで遊んだね。かくれんぼ、缶蹴り、いろいろやって。そして、そして、いっぱい話したね。
 いっぱい、いっぱい。笑って、泣いて、喧嘩もして……そんな大切なこと、私は忘れてたんだね」

 最後は、もう瞳は笑っていなかった。小さな水の塊が、静にその頬を伝って、地面に落ちていく。

 陽助は、何も言わず、仁美を見ていた。

「思い出せたんだよ、ほとんど。でも、ヤッパリ、一つだけ思い出せないの。私、何で、こんな傷。どこでつけられたんだろう?」

 涙目のままで、その顔が自分を向く。絶えられるはずがなかった。陽助には、ただ、最後に抗うことしか、許されるはずがなかった。

「記憶なんて呼び起こしてどうするんだよ。忘れているままなら、いいじゃんかよ。つらい事なんて、思い出すことないだろ」
「分からないよ、私馬鹿だからさ。ただ、忘れてたって言うのが本当に辛いんだよ。
 思い出してみて、忘れていたこと全部が、大切な事だって気づいて、だからこそ全部思い出した行って、ただそれだけなの」

 じっと見つめる仁美の目には、迷いなど見つけられなかった。それでも、陽助はまだ抗ってみた。
逃れられぬ自分の運命から。答えのわかっている問いかけだと知りながら。

「思い出したら、忘れていたほうがよかったって思うかもしれないぜ」

 それは、喉の奥から搾り出したといってもいいほどの、ざらりとした言葉。
 本当に本気になった時しか出ない声。
 はっと仁美は息を飲んだ。しかし、一度宿った決心の炎は、その目から揺るぎもしない。

「それでもいいよ」

 もう、審判は行われた。

 陽助は、ポンと鉄棒から飛び降りた。

 判決を受けた被告人のような神妙な顔で、仁美に手を伸ばす。

「分かった。教えてやるよ。何があったのか」

 仁美が目を見開くのがよく分かった。きっと、自分が何故知っているのかと驚いているのだろうということも。

「本当に?」
「ああ」

 俺はもう、うそはつかない。

 足をぶらぶらさせたまま、仁美はしばらくの間、何かを考え込むかのようにじっとその顔を俯かせていた。
と、その足が軽く振られて、ひらりと、仁美の体が地に降りる。

「じゃあ、教えて」

 真実を望む純粋な両の目。そらしたいのを必死にとどめておいて、陽助は頷く。

「わかった。着いてこいよ」

 そして二人は向かう。全ての始まりの場所へ。全てを終わらせるために。





「ここだよ」

 気持ちを落ち着かせるように深呼吸をにサンドしてから、陽助は足を止めた。振り返ったその先で、仁美の当惑げな顔が見ている。

「ここって、さっきの」
「そう。俺達がさっきあった場所だよ。ここが始まりだったんだ」

 もうすでに、日は傾き、家々の台所からは、暖かい音が聞こえ始める。それとは逆に外は秋。容赦ない冷たい風が、二人の頬を、耳を冷やす。

「ここで、何があったの?」

 陽助の作り出した沈黙に絶えられず、仁美が呟く。小さい、弱々しい笑みを、陽助はようやく浮かべるのに成功した。
もし、笑みを浮かべていなかったなら、自分は、この罪に押しつぶされてしまう。

「十年前、一人の少女が、ここで男に襲われたんだ。今日みたいな秋の、まだ、生暖かい風が吹いているときだった。そう、さっきまでの夕方の風さ……」

 陽助は、まだほんの七歳だった。しかし、今まで年によって、その罪が消せると思ったことはない。

 いつものように二人して帰って、いつものように仲良くさよならを言い合うはずだった。
柿木の家を曲がった後の、小さな塀の家々を横にまっすぐ行って、曲がったところで互いに手を振って分かれる。それが二人の『いつも』のはずだった。

 少年と少女は、互いに手をつなぎ合って仲良く道を歩いていた。そして、もうすぐ曲がり角というところで、一人の男が、二人の前に現れた。

『やあ、お嬢ちゃんに、お坊ちゃん。面白いものを見せてあげるよ』

 男は、初めにそう言ったはずだった。人のいい笑顔を浮かべて。でも、少女は不気味がり、早く帰ろうと少年に呼びかけた。
そして、少年も、それに賛成し、男の脇を通り抜けた。と、その時、日の光に何かが反射した。

 それは、銀色のナイフだった。

 少年と少女は、危機感を感じて、必死に逃げた。でも、大人に勝てるはずがなかった。

『陽ちゃん危ない!』

 必死に走っていた少年が、小石にけ躓いて、そして、その後聞いた言葉が、その一言だった。
思わず目をつぶって、でも、何も起こらなくて、そっと振り返ってみたのは、お腹を真っ赤にぬらした少女の姿だった。

『大丈夫?』

 悲しそうに、それでも嬉しそうに微笑む少女の向こうには、走り逃げる男の後姿が見えた。
少女を見た少年は、ただ手を差し伸べることも、温かい言葉もかけることもできず、その地にぬれた赤い手を前に、

『うわああああああ』

 泣き叫ぶことしかできなかった。

「……そして、君は目を閉じた。救急車が来たのは、それから十分くらいたってからだそうだ。俺は、ただ呆然と立っていたから。本当に何もできず、にね」

 秋の虫の羽音が響く。冷たく、悲しげに。断続的に響く音は、遠くに聞こえる笑い声も、人の存在を示す車の排気音も、全て、過去のことにしてしまう。
ただ、体を締め付けるように、音は耳に響いていく。

「これが、俺の知っている過去だ。俺は、君の優しさを裏切った。ただ、立っていたんだ。あの時の俺は、君が怖かった。
 血にぬれた、君が、それでも笑える君が、生暖かく、それまでにかいだことのないにおいを放つ君が、その全てが、怖かったんだ」

 懺悔。許されることのない罪の告白は、自らの過ちを、自らに負わせる。そして、陽助は顔を上げた。
自然と見ていたあの場所から、今、自分の前に立つ彼女のもとへ。

「そう、だったんだ」

 仁美の顔には、ただ、悲しそうな、それでいて嬉しそうな、泣き笑いのような笑みが浮かんでいた。
今にも涙が浮かびそうなその表情なままで、口元に手を当てそっと、呟く。

「よかった」

 小さな言葉。でも、聞き逃すはずがなかった。飛んでくるはずの罵声の変わりに聞かされた喜びの声に、陽助はただ聞き返すことしかできない。

「え?」

 仁美は、ただにっこりと微笑んで見せた。前よりも嬉しそうに、今にも、あの頃の二人に戻れるような、そんな笑みで。

「私、きっとあの時、陽助……陽ちゃんに嫌われたんだっておもった。陽ちゃんが、自分の事を嫌いになっちゃったんだって。
 それで、すごくそれが辛いから、自分の記憶を、消したんだ。……と思う」

 それはさっぱりとした笑顔だった。そして、まだ当惑したままの陽助に、笑顔のままで続ける。

「あのね。私、陽ちゃんの事全然うらんでないよ。だって、嬉しかったもの。陽ちゃんを助けることができて。
 ずっと、ずっと好きだったから。子供みたいな恋心だったけど、ずっと好きだったから」

 かあっと赤くなって、そのまま、その体が陽助による。一瞬、おびえた目でよけそうになる洋介を、その手がぎゅっとつかむ。

「だって、俺は、仁美の事を、見捨てて」
「見捨ててなんかいないよ。私のために泣いて、私のことずっと覚えていてくれたんだから。覚えているって言うのは、忘れることよりすごいはずでしょ」
「いや、忘れようと思ったから、覚えていただけだ」
「それでも、覚えていてくれたんだから。嬉しかったよ」

 畳み込まれるように言われる感謝の言葉に、陽助は意味も分からず、ただコクリと、首を縦に振る。

 そんな陽助に、仁美は嬉しそうに笑みを見せる。そして、その手を大げさに開くと、空を仰いだ。

「よかった。これで、私思い残すことないな」
「え?」

 突然の言葉に、意味がわからず、陽助はまじまじと仁美を見た。

「だって、私はもう死んでるんだから」

 パチパチっと、壊れかけた音を一つ立てて、電灯に明かりがともる。
それは、スポットライトのように仁美の体を上から照らし、陽助と、彼女の世界を分ける。闇と光り、この世と、天国。

「うそだろ?」

 やっと搾り出した言葉に、仁美はただ首を振る。

「陽ちゃん。陽ちゃんいろいろ覚えていたけど、一つだけ忘れてるよ。ほら、私、赤の髪結びしていないでしょう? 
 長い髪が動くのに邪魔だからって、陽ちゃんが買ってくれたんじゃない。忘れた?」

 出会った時の違和感に、初めて気づく。

 誕生日にあげた赤いリボンを、仁美はとても大切にしていた。
死んでしまった時、それだけはそばに置いておいて欲しいと、棺に入れずに、自分の机に飾ってあることを。

「あ」

 時は、確かに止まっていた。

 動いていた時間の中で、自分だけが、自分ひとりが取り残されて、いもしない少女をどこかにいると思いつづけていた。

「私、馬鹿だからさ。死んで、陽ちゃんの事忘れて、そのショックで、死んだことまで今まで忘れてたんだ。
 でも、思い出せたよ、今日やっと。陽ちゃんと会って、話せたおかげで」

 ふっと、その姿が一瞬闇に溶け込むのを陽助は見逃さなかった。悲しそうに、仁美は微笑む。
儚げに、現世に思いのなくなったものは、消える事を知っていながら、目の前の自分に向かって笑みを向ける。それが、辛かった。

「俺の、せいで、死んだんだろ」
「陽ちゃんは何もしてないよ。私が勝手にどじっただけだから」
「でも、俺の、俺のせいだろ。俺を恨まないのかよ。俺を裁かないのか」

 つばを飛ばしながら、必死に言う。後悔という二文字と、罪によって今まで苦しんできた自分を、ただ、彼女は笑って許すという。それが信じられない。

「いいんだよ。陽ちゃんのこと好きだから」

 ふっと、その体がまたすける。

「もう、帰らなきゃ」

 悲しげに呟く仁美に、できることはなんだろうか? 犯した罪の重さを減らすだけの言葉を、陽助はいえるかどうか自信がなかった。
謝ることすら思い罪に匹敵する。そんな気がした。

「さよなら、陽ちゃん」

 仁美が呟く。

 結局、陽助は、一言だけしか伝えられなかった。十年も覚えつづけていた、本当の理由。罪だとか、贖罪の前に、自分が少女に伝えたかったこと。

「……俺も、好きだ」

 電灯の光の前で、十年前に命を失った少女は、再び現世から姿を消した。

 仁美の立っていた場所にはただ、水滴の跡だけが残っている。それが、悲しみのためではないことを、陽助は、今なら気づくことができた。

「仁美……」

 そっと空を見上げる。

 闇の中、一つ二つしか光らぬ星の中に、彼女もいるのだろうか?

 陽助は、十年を思って、涙を流した。

 静かに、これからのときを、彼女の思い出と共に生きるために。
                 

あとがき
この作品は

久しぶりに会った友達に

私が覚えてもいないことに対して、

「あの時はごめん」



て言われたことから生まれました。

人間いやな事も忘れられるので、

覚えているだけ損
ってことも世の中には多いものです。


ここまで読んでいただきありがとうございました。