あなたにKISSを

 額から沸いた汗はゆっくりと頬を通って、首筋を流れていった。目の前には微笑むあなたがいる。そして《彼女》が。

 あなたが現れたのが何時からだったのか、私はもう覚えていない。もしかしたら、収集マニアの友人――友人はいつも『何か』を探していた――にもらった無機質な存在、この日本では何の意味を持たない、ただ重いばかりで暗い孔を持つ《彼》を手にしたときからだったのかもしれない。


 あなたは何時でも私の傍で、そして私から離れたところにいた。絹のような柔らかさをもった赤い布を羽織ったままじっとあなたは立っている。

 手を伸ばしては届かない。それでも、息を感じられる距離。机の中に《彼》の存在を感じながら、私は幻でしかないあなたに現の夢を託した。誰にも認められない存在でありながら、それでも確かにいると思える温もり。その暖かさを感じることは決してなかったけれど。

 そして《彼》。たった一丁の、ただそれだけで幾重も骸を重ねられる黒い無機物。まったくの無反応で、冷徹で、そして《彼》は喰う。

 なにを? そんなのは分かりきっていることだ。私を、あなたを、そして魂、命。およそ、炭水化物と、たんぱく質で構成されたものをすべて。それでも、《彼》は嫌われることなく私の手の中にあった。

 私は《彼》に、《彼》が食べれるように同じ無機質である貫く物達を与えた。

 そう、始めはそれだけだった。


 五月といえども時折寝苦しい夜がやってくることに、妻は不平を言いながらさっき布団に入った。読みかけていた新聞から顔をあげぬままに返事を返す私に一体妻はどんな顔をして部屋に入っていくのだろう。いや、その顔を見たくないからこそ私は新聞から目を放しはしない。たとえ目の前の『赤地町町内記事欄』に書かれていることが、年々過疎化していく町を悲壮感たっぷりに書いたものであったとしても。毎夜の行為が終わったことを互いに確かめ合うだけの一瞬よりはよっぽどましだ。

 町内新聞では、先日高島さんの家でぼや騒ぎが合ったが、それは高嶋さん本人がタバコを消し忘れていたためというような記事が乗っていた。高嶋さんは、もう今年で七十二歳になる。ちょっと忘れる事が良くあるのも当たり前だ。
赤地町には若者による強盗や、殺人の記事は一切ない。若者がいないからだ。

 自分の言葉に思わずにやりとしながら、私は新聞をたたんで立ち上がった。一瞬ひざに感じる小さな痛みにギクリとその場に立ちすくむ。が、心配したほどの痛みは襲っては来なかった。思わず息を吐き出して寝室へと向かう。

 すでに、妻は床に入っていた。しわがよった顔の中で、目の上に肉がかぶさっている。体中のたるみはもうどうしようもないのだろう。

 布団に入るとき、もう一度ひざにあの痛みがやってくる。それでも、顔に出るほどの痛みではない。少し冷たい感触の布団の中で、じっと天井を睨みつける。

 赤地町。私はこの町が好きだ……と思う。夕方の町が好きだ。夕日が照らす町が。

「ほんとうに、そうかしら?」

 あなたには分からないのだ。なぜならあなたはこの街に来て日が浅い。私は思う。あなたは頷く。
 あなたはいつも、唐突に私の前にやってくる。前触れなどはない。自分が寝てしまったのかもしれないと自覚するほどの時間すらありはしない。そして、あなたは何時も私の心の中をかき回す。

「あなたに会ったのは何時からだろう?」

 暗闇で私は問い掛ける。あなたは笑う。無言の微笑み。年甲斐もなく、その笑みを美しいと思う私がいる。すでに私の下半身は使い物にならなくなっているというのに、あなたのためにそれを使いたいという欲望。言葉にできない気持ちをこらえて私はあなたに手を伸ばす。その瞬間にあなたは消えて、私は妻の寝顔に手を伸ばしている自分に気づき途方にくれる。おとなしすぎる妻の寝息に罪悪感を覚えながら、それでも私はあなたに焦がれる。きっと、いつまでも。


 朝、いつも必ずそれはやってくる。いつのまにか寝ていて、夢を見ることなく起きる日は、一体何時頃から習慣化したのだろうか? 起き上がるとき、一瞬昨日の痛みを思い出して体が躊躇した。しかし、今日は痛みはない。それが言葉どおり『今日は』だけだとしても、ほっとした気持ちが体中に流れるのを止めることはできなかった。

 寝室を出て、居間に行く前に寝室で着替えをすます。寝室を出る前に、ふと足が止まった。振り向いた先にある机の中で《彼》が私を見ている気がした。そしてあなたが。伸ばしかけた手が空中で止まる。何秒かの躊躇のあと、私は《彼》の姿を覗いた。まるで、なにか見知らぬ人の着替えを除くような罪悪感を伴って。

 今日も《彼》はそこにいた。黒く輝く無機質な塊に日があたり、淡く反射する。しかしその光は、私の目を一瞬射抜いたような気がした。光を遮るように手をかざし、そしてそのままその手を《彼》に伸ばした。


「それじゃあ行って来る」

 朝になれば私は歩いて20分ほどの会社へ出かけることになっている。想像だけの、会社。本当に勤めていた会社は、すでに三ヶ月前に首を切られた。妻には話してはいない。しかし、給料が入っていないのだ、妻はすでに気づいているだろう。それでも妻はいつも無言の会釈をして私を送り出す。

 そして私は歩き出す。今日はいつもより重いカバンを持って。


 青を塗りたくった空の下では、家々で雛鳥が見張られているとも知らずに人口の巣の中で生活を営んでいる。満足を知らぬように泣き続ける雛鳥に、親は、一体どんな気持ちで餌を運ぶのだろうか。親になれば分かるのかもしれないが、私はすでに子供を持つことをあきらめなければいけない年をとうにすぎている。それは妻も同じことだ。家に帰れば毎日のように同じ景色、同じ食卓。私は想像だけで作った会社の話。妻は近所の噂話。私は疲れた顔でいもしない部下の悪口をいい、妻はあきらめたため息とともに、年老いた主婦たちの不平をまとめる。

 変化などは必要ない。そう自分に言い聞かせながらも、あの時受け取ってしまったものは、《彼》は、返せないまま机の引き出しに入っている。それも、時々はひそやかな興奮と供にカバンに忍ばせて。

 道を歩いている時ずっとカバンを抱きしめていた。カバンの中で、小さく貫く者達がせめぎあう音が聞こえる。今日だけはひったくりに会うわけにはいかない。こんな日をあれから何度過ごしただろうか。少し肩がぶつかっただけでギョッとしてしまうような一日。会社に着けば終わってしまうその緊張が、力の弱い心臓の動機を上げてくれるような気がする。

 たとえ、人が数えるほどしかいない道を歩くだけだとしても、想像の中で私は多くの人を通り越し、通り越されている。
そして想像の中で私は走らない電車に乗って会社へと向かう。電車で二時間もしてつく都会の町並みは、どこも人で押しつぶされているような圧迫感を感じる。ぜいぜいと肺からやっと息を吐く私の様子を汚らしそうなものを見るような目で見る若い者たち。彼らと一緒に町並みに押し出され、一定の速度を崩さぬように会社へと歩いていく。

 この不景気の中では道を歩くどの人間の顔も明るいとはいえない。駅の前で座り込んだままなにやら熱心に話している若者だけが、楽しそうに笑っている。

「もう、だめらしい」

 会社に着いた早々部長に呼ばれ、そんなことを言われる。

「ダメですか」

 私は苦渋の顔で下を向く。

「だめだなぁ」

 会社の売上は徐々に下向している。どこでも今は同じようなもんだと、まるで他社の人間にでも話すように部長がこぼす。相槌を打ちながら、同期でもない年下の人間に対して私は敬語を使う。息子がいなくて良かったと、こんなときにこそ思ってしまう。俯いたままの私に、部長は何の関係もない話のように切り出す。

「君、いつまで会社に勤めるつもり?」

 私は意味が一瞬わからず首をかしげる。部長は口の端を持ち上げた笑みを見せる。暖かな光の中でそこには陰ができて薄気味悪い表情に見える。悲鳴を出しそうになる私の肩をやさしく部長は叩く。

「モウ、キミハコナクテイイヨ」

 私は悲鳴を上げる。肩に置かれた手を振り払おうと片手を動かす。しかし、手は空を切るだけ。
 そして私は目を覚ます。

 気がつけば町。駅近くの公園で座り込んでいる私がいる。砂場ではまだ子供たちは遊んではいない。座り込んだまま動かない何人かの男が瞳に映るだけ。何人もの私。見ていられなくて目を閉じる。

「もう、だめらしい」

 部長の声。払いたくなくても声は響く。そしてまた声が、腕が肩に、私は悲鳴を……
いつまで、私はこんな日を続けるのだろうか。

「いえ、もういい」

 疲れたようにあなたは言った。心地よく言葉は耳の中に染み渡っていく。一瞬の意識の乖離。あなたが、目の前にいる。手を伸ばしたら触れられそうな距離。自然にあなたへと上がる手を必死に押さえつける。あなたに触れてしまえば、きっとあなたは消えるだろう。額から小さな汗が浮かぶ。

「モウ ダメラシイ」

 部長の声は、どこか遠い空の下の出来事にすぎなかった。目の前にはあなたがいる。それでいい。いつでも、あなたは私を見てきた。そうだったろう?

「そう」

 あなたは笑みを浮かべる。そして、もう一度言う「もういい」と。

「そうか」

 私はその言葉で満足した。本当は言葉など待ってはいなかったのだから。ただ、あったのはこれですべてが終わるという確信だけ。

「じゃあ、いいんだな」

 あなたは頷く。

 私は笑う。頬を、何かが伝っていく。私は立ち上がり。歩く。家へと。そこへは妻が私を待っている。私の嘘を抱きしめたまま、静かに妻は家を守っていることだろう。
私が抱きしめたままなのはカバンだけ。手をゆっくりとカバンへと差し込んだ。


 瞳 私を見る。
 瞳孔が開く。ゆっくりと開いた口は声にならない声をあげる

 ゆっくりと私は腕を上げる。
 黒い《彼》は舌なめずりをする。早く喰わせろと催促する。

 そして私は、ほんの少し指に力を。

 妻はただ微笑んだ。
 硝煙が立ち昇る中、私は見た。


 あきらめを
 嘆きを

 そして 許しを

 ゆっくりとその体は地へと倒れていく
 私は見下ろす

 笑みが浮かんだ
 
 ほら赤い花が咲く
 私の体を赤く染めようか

 赤はすべてを力ずけ
 赤はすべてを終わらせる
 
 私は赤となる
 そう 赤……


 赤地町の日はすでに傾いていた。灰色がかった空では太陽は良く見えない。ただ白い腕につかまれたように淡い光が漏れるだけ。私はそんな太陽が今の私を象徴しているような気がする。何かにつかまれて生きている自分。抗えば抗うほどにつかむ力は強くなる。逃げることは終わらせることしかない。そして私は引き金をもう引いたのだ。

 背後から生暖かい風が通り抜けていった。もうじきこの街は町の名前のとおりに赤くなる。そう、今の私の服のように。
 倒れそうになるのを必死に抑えながら道を行く。どうしようもないほど、今の私は疲れている。何せ終わらせてきたのだ。《彼》に食べさせるだけ食べさせたのだから。

 赤地町の駅前ではその日は、八百屋が一番に店じまいをはじめていた。亭主と、その妻とのたわいのない言葉の投げあい。「あんたがもうちょっとしっかりしていたら、客がもっと入るのにねぇ」「今度おめぇが店先に並べば、大根よりは高く売れるだろうぜ」どこか無理した陽気な声。ひっそりとした商店街に空々しく響く。

 死んでいる。
 私はふとそんなことを考える。そう、赤地町は死んでいる。たぶん、もとからローカル線だった東赤線が、列車の老朽化を理由に廃止されてしまったときからずっと。別に電車を使って人が来ていたわけではない。事実、東赤線だとて、一日に、一本か二本。それでも、都会と呼ばれる場所から息子や娘が親を訪ねに行くための理由にはなっていたのだ。若い存在がないというのは、それだけでどこか寂しい感じがしてしまう。たとえ、その若い存在が、現在の住民をさらに老いさせるための行動しかしていなかったとしても。

 商店街に、赤ん坊の泣き声が響く。河山さんちの、銀河ちゃんだとすぐに分かる。一才二ヶ月になるふっくらした顔の男の子。赤地町には、今その子しか赤ん坊はいない。銀河なんていう広大なわりに、なんと彼の世界は小さいことだろうか。じきに気づくだろう、同年代の子が一人もいないという事実に。その悲しみを先取りするかのように、泣き声は悲痛で、重い。

 ぼおっと見ているうちに、慌てて河山さん一家は商店街から去っていた。泣き止まない子を背中に乗せ、まるで大罪を犯してしまったかのように。一瞬の喧騒を、誰もが嫌がっていると、あの家族は思っているのだろうか。声に向けられた老人たちの瞳は、何かを懐かしく思うようで、その中には羨望すら混じっていることを、あの家族は気づいているのだろうか。

「鍋山さん、ご帰宅ですかぁ」

 少し語尾の延びた声に、白痴めいた暗さを感じさせて思わず私は立ち止まる。軽く首を傾けた視線の先に、『武藤の靴屋』の看板。そして、歯の何本か抜けた口をにっと開いて笑う武藤さんの姿がある。右手にくたくたになって、しかも墨で汚れてしまった雑巾、左手にはこれ以上真っ黒にはなりそうもないほどに黒い靴。黒をまとうことこそが男のスタイルなのだと公言する武藤さんは、いつもステテコに、黄色い染みが幾重にも重なったようなシャツだけで店先に座っている。

「ああ、武藤さん。こんばんは」

 私は軽く会釈をする。武藤さんの口が波打って、何かを言おうと口の中で言葉が揺れる。

「なんですか?」

 問い掛ける私の声は少し無作法だっただろうか。武藤さんの顔に少し狼狽が浮かぶ。言葉が浮かばないのだ。思ったことがすぐに口を出てこない。武藤さんは今年で九十になる。それでもまだ現役でいたいという気力が、衰えつつある脳を無理やりに働かそうとする。こめかみに力が入っているのが傍目からもうかがえた。そうでもすれば力が入るとでも言うように。

「きょうはぁ、服。黒じゃないですねぇ」

 今日はといった口がそのままため息のようになり、残りの言葉は、まるで口から出たのではなく、のどからするりと落ちたようにスンと私の耳に落ちた。私は思わず自分の姿を見る。赤いシャツ。赤いズボン。赤い靴。下を向いた瞬間に、つけすぎたオブドー社製のコロン『リュコン』の匂いが鼻腔に滑り込む。細かいバラのトゲを投げつけられたような、痛みを伴った匂い。それでも私は、この赤い服にはこの匂いが一番合っていると思っている。

「なんだか、全身赤、ですなぁ」

「ええ。今日は、そんな気分なんです」

「それで、会社にぃ行ったのですか?」

 武藤さんの顔がナ行を言うときには横にゆがむ。どこか喉の奥を傷めているのか、しかめっ面のままに残りの言葉が垂れ流される。

 彼は知っている。
 ふと、急にそんな確信が頭の中に響いた。彼は知っているのだ。だから、こんなゆがんだ顔のまま私に声をかけた。いや、声をかけたときは笑っていたのかもしれない。それでも、今は。

「いえ、会社には行ってません。もう、ね」

 私の沈黙から察したのだろう――例えそうでなかったとしても私にそれが分かるわけがない――武藤さんの顔からゆがみが一瞬消える。すぐに浮かんだのは、気弱な老人の、それでいて哀れむような笑み。無意識に私は右手を後ろのポケットに伸ばしていた。赤い服の中に隠された黒光りした無機質な《彼》へ。

「あ、あああ、すいましぇん」

 言葉を発しようと下歯へ押し付けた舌が、抜けた歯の隙間から外へともれる。語尾をおかしくしながら、武藤さんは小さく頭を下げた。しかし、見上げた瞳は細くなる。次の言葉を待たないままに、私は彼の額に右手につかんだものを押し付けた。

「ひゃ?」

 武藤さんが不思議そうな顔で私を見る

 《彼》は微笑む。剥き出しの歯で武藤さんの額にぶつかりながら。喰わせてくれと私にせがむ。目の前にいるのはただの老人。もうすでに死んでいる存在。すべてを終わらせるというのなら、この存在を消すことも終わらせることに繋がるだろう?

 ああそうだ。私は頷く。武藤さんの口は筋肉がだらけきってしまったのかのようにだらしなく開いたまま。唾液が細い糸となってその口から滑り落ちる。

「はの? 鍋山しゃん?」
「あなたは、いらない」

 乾いた音が響いた。
 《彼》の口から噴煙が飛び出す。一瞬、《彼》が噛み付いた場所が膨らむ。そして細かい破片が飛び散る。向こう側へと武藤さんの内部は飛び出し、丹精に並べられた靴たちの上に赤と、そして赤にまみれたモノが飛び散る。《彼》の勢いに押されて私は腕を跳ね上げる。額に暗い穴を見る。武藤さんの目がゆっくりと上に上がる。私の瞳を捕らえる。不思議そうに一度瞳はしばたいた。そして、操り人を失った人形のように、ゆっくりと後ろに倒れた。

 街の中に音は響き渡った。いまだ店じまいをはじめていなかった魚屋の西木さんが、時の止まったようにこちらを見ている。軽く照準を合わせて私は引き金を引いた。引きつるような音を一つさせて、《彼》は西木さんの口を正確に捉えた。狙ったのは頭のはずなのに。それでも、西木さんはあまり苦しんだ顔もせず、そのままひざを崩して地に頭をつけた。まるで土下座のようだと私は思う。西木さんの背後に、赤い花が咲いていた。

「け、警察を」

 誰かの叫び声が聞こえる。私はその声に向かって引き金を引く。《彼》が嬉しそうに飛びつく。ガラスの割れる音。苦しそうな叫び声。まるで痛みがあるようじゃないか。死んでいる町の中で行われるくだらない演劇。

 すでに町の道沿いに人の姿はない。赤地町は本当に死んでしまったかのようにひっそりとした。これで終わりだろうか。私はぼんやりと《彼》を見つめた。《彼》はまだ喰い足りなそうな顔で私を見つめる。それでも私はもう、《彼》に誰一人喰わす気はない。いや、たった一人。私を。

 そしてあなたを。
 当然のように私は振り返った。

 あなたがいる。

 あなたは今まで見たどんなときよりも美しかった。絹のような赤い布だけを見にまとった姿。赤は薄く裸体を映す。ほくろ一つない体が、吹いてもいない風に揺れる布からこぼれ出る。豊かな胸。まるで隠しもせずにあなたは私に見せつける。秘所すらも隠しはしない。時折赤き布がはたつくのみ。そしてその顔は、どうして言葉に語れよう。私はゆっくりとあなたに近づく。今ならあなたに触れられる、そんな気がする。

「もう、わたしに触っているでしょう?」

 あなたは微笑む。その笑みに、しかし私は歩を止める。一瞬なにか禍々しいものを見てしまったような気になった。それは、内面に巧妙に隠された狂気。しかし、その狂気があなたを美しく見せるのかもしれない。

「触れている? あなたに?」

 私は問い返す。あなたはゆっくりと私に近づく。その手が伸び、触れるはずがないと思っていた感触を、私は指先に感じた。《彼》のある場所に。その柔らかな指にぼうっとなってしまう私の耳にあなたの声は心地よ染み込む。

「ここに」

 あなたはまた笑う。その笑みの意味がわからず、私は《彼》を見る。遠くでサイレンの音が聞こえた。けたたましくだんだんと大きくなっていく音。私はじっと《彼》を見つめる。

 しかし私は知っていたのではないか? どっしりと重い《彼》。黒塗りの体は男の姿をしているように見える。誰かも言っていたではないか。黒をまとうことこそが男のスタイルなのだと。しかし、《彼》の口は、膨らんだその口は連想させはしないか? 艶かしい唇を。丸く膨らんだその唇は、男を飲み込む女に似ていると。奥になにを潜んでいるか分からず男を飲み込んでいく女に。そして、痛みと快楽のどちらかを与えてくれる女に。

「ちがう、これは」

 私は首を振る。認めたくなくて。あなたはあなたなのだから。想い焦がれる私の前に現れる美の集結。どこにも欠点などありはしない究極の美。もし誰かがその狂気を含んだ瞳を欠点に上げたとしても私は決して欠点だとは思わない。それほどに美しいあなたを、なぜこんな無粋な形をした《彼》と同じに見なくてはいけないのか。

 しかし私は知っていたのではないか?

 思わず一歩私はあなたから遠ざかった。あなたが浮かべている笑みは、いまや耳まで張り裂けそうなほどに大きい。それでもなお美しいと感じながら内に感じる狂気に私はすくむ。ゆっくり腕が上がる。

 しかし私は知っていたのではないか?

 握る銃身を力強く感じながら、その肌に吸い付く感触に女の肌を連想しはしなかったか? 触れるほどに魅力的になっていくやわい肌を。引き金を引くことで《彼》に与える快感を、私は女に与える気持ちで夢想してはいなかったか。乾いた音をなにかを焦がれる女の声に。

「ちがう」

 声がかすれる。次に言いたい言葉も浮かばないまま、私はまた一方後ろへと歩を進める。右手がゆっくりと上へとあがった。腕の中で《彼女》、いや《彼》が私にゆっくりと向く。あなたはただ微笑む。その瞳が大きく広がる。瞳は無機質なほどに黒。その瞳を美しいと思いながら私は恐れる。

 しかし私は知っていたのではないか?

 喰うものは男ではないと。いつでも命を喰うのは、命を喰い、次の命に繋ぐのは女であったと。命を繋ぐものは命を喰わねばならないのだと。男が女を喰うのではない。女を喰ったと思った男自身はいつも女に飲み込まれているではないか。暗い、熱い穴の中へ。そして、獰猛な昆虫がそうするように女は男を喰うのだと。喰うモノたちはいつも始めに愛を語るのだと。愛とは相手を慈しみながら同時のその命を喰らうことであると。私は知っていたのではないか? 知っていて私はこの無機質な存在にあえて《彼》とつけたのではなかったか? 否定したくて。あなたが喰うものだとは否定したくて。だから私は男でありながら喰おうとしたのではないか? 妻を。命を。あなたが喰うものだと知りながら。そして、同時に私は望んでいたのかもしれない。こうなることを。

「愛しているわ。あなたを」

 あなたが腕を広げる。包み込むように開かれたその体で赤い布が揺れる。私は弱々しく笑みを感じながらあなたをただ見つめる。心からこれほど美しいと思える存在を、人は一体死ぬまでにどれほど手に入れられるというのだろうか。あなたは私を愛した。そしてその狂気は私を包み、私はあなたの愛に恐怖しながら甘受する。そう、それでいい。そうだろう?

「ええ。そうよ」

 あなたが頷く。私は笑う。
 ゆっくりと《彼女》は私をむく。はじめて私は《彼女》と、そしてあなたとキスをする。ザラリとした感触と鼻を刺激する死の匂い。それでも、舌先から伝わる感触は熱くほてっている。舌先をあなたに入れてもあなたは返しては来ない。しかしそれでもあなたの口は徐々に私の口の中へと入り込む。唇を熱くなぶるように、舌先であなたの口を出迎えながら、私は舌を動かし続ける。暗い孔は今は見えない。あなたの息を感じた気がした。唾液が《彼女》をだんだんと下っていく。
あなたが目の前で笑っている。

 右の指が、ゆっくりと《彼女》の体をまさぐる。冷たい感触に、唾液の熱が加わる。徐々に冷めていきながらも、滑りよくなった指先は次々と《彼女》の体に触れていく。固いのに、どうしても指先を離してくれない弾力。その感触を楽しみながら徐々に指は一箇所に集まってくる。

 私は快感に目を瞑った。
 指に力が加わった。







あとがき

 だぁぁあ。
 暗い。暗すぎ。
 まぁ、人間死ぬときは死ぬんだし、
 そして狂気はいつでもどこかにあるってことを書きたかったのかな。
 んでも、今回書きたかったことは、
 喰うものは女である
 拳銃は女ではないか?
 愛とは喰うものかもしれない
 ってこと。書きたいことがかけてよかったよかった。
 最後に。この作品に出てくる個人名、および地名、会社名、商品名はすべて嘘っぱちの想像です。
 現実世界からの延長であるものは一つもありません。ので、参考資料もありません。
 空想だけのでっち上げ。拳銃すら、最近見たのはルパン三世の映画の中でだけだし。
 さて、私の空想だけでこの作品はもっともらしくなったのでしょうか? 
 それは読者の判断に任せるってことで。

 ではでは。楽静でした。