氷心
こおれるこころ


 何か目的があったわけじゃなかった。ほんの少しの好奇心が抑えられなかった。ただそれだけだった。
 なんて言い訳をしても、戻れる場所なんて無いってもう分かっている。
 だから今も、

 冷たく凍りついている




 肌寒さを感じて、島田優一は目を覚ました。
 隣では、久野麻衣が静かに寝息を立てている。数時間前まですすり泣くような声を挙げて供に高まりあったのが信じられないほど、優一を向いて眠る麻衣の顔は穏やかだった。十七になったばかりの幼い寝顔は、時折ゾクとするほど大人びて優一を誘う。一つ年下の麻衣に、そんな幼さとのギャップを感じるたび、優一は自分が抑えられなくなる。

 鼻の近くに手をかざして、寝ているのを確かめた。そっと麻衣の髪を梳く。しっとりと手の中を髪が滑っていく。その感触がたまらなくて何度も指を絡めさせた。弱い電灯の中でも目立つ、明るい茶色の髪。
 髪を梳きながら麻衣といられる幸せを噛みしめた。つきあいはじめてからまだ半年しか経っていない。けれど、その半年の間で優一は、麻衣の多くを知ることが出来た。

 優一は黒髪が好きだ。ただ、自分の嗜好をフェチだと言い当てられるのが怖くて、一度も口にしたことはない。麻衣は髪を染めることを一度も優一に相談しなかった。だから、優一は麻衣の髪に気づかない振りをした。まだ、夏が始まる前の話だ。
 布団から出している上半身がやけに寒い。もう、十一月になろうとしているためか、外気は容赦なく二人のいる部屋をさましてくる。
 体に感じた冷たさに震えながら、優一はエアコンの調節をしようとリモコンを探した。

 と、目に映ったものがある。

 麻衣の右手が隠すように覆っている携帯。もちろん、麻衣自身のもの。写メールが使えるからと選んだJフォンの新機種は、時折電波が通じないことがあるらしく、メールが返ってこないときがある。それでも、時々送られてくる麻衣の写メールに、Jフォンの良さを優一は感じていた。優一自身の携帯はau。機種変更をもう一年以上していないために、古いまま。写真を取ることはもちろんできない。

 携帯をじっと見ていると、好奇心が体の中で一回跳ねた。

 別に大したことを期待したわけじゃない。携帯の中に届いているメールを見て、明日にでも麻衣の友人が何人か当ててやろうとか、自分のことを麻衣がなんて友人にメールしているか知りたい。そんな単純な感情だった。
 携帯の機種はどこも似たような操作になっているために、すぐにメールの受信ファイルを発見することが出来た。ためらうことなく、受信ボックスを開く。
 一番上には知らない男からのメールが来ていた。
 メッセージが、無機質に表示された。



『昨日は気持ちよかったよ。またエッチしようね』



「…………うそ…………だろ?………」

 たった一文。
 それだけで、十分。

 頭の先から流れ落ちていく滝が体の熱を一気に奪っていく。冷たく、冷たく体は冷気に包まれる。頭の中が急速に冷めていく。信じられない思いで、優一は携帯をにらんだ。
 文章は変わることなくそこにある。

 指がふるえを覚えながら他のメールを次々に開いていく。同じ男からのメールは他にも何通となくあった。今日だけで何通もメールの交換をしている。優一は一体そのメールがいつ交換されたものなのか分からなかった。二人でデートをしている間、お互い相手がメールをするのに干渉をしたことはない。けれど、これは。

『麻衣ってフェラ上手いよね』

 臆面もなくつづられた文章が、容赦なく優一の心を刺した。それでもまだ、信じたくない心が送信ボックスを開かせる。
 麻衣が最後に送ったメールは、同じ男へのメールだった。

『いいよ♪ 愛してる』

 胸に痛みを覚えるかと思って優一は胸に知らず手を置いていた。けれど、 痛みはもはやあまりにも鋭すぎて肌に感じることはなかった。
 携帯の残りのメッセージを順繰りに開いていった。罪悪感という言葉はもう心の中にはなかった。怒りが沸けばいいのにと思いながら、二人の男女が交わす愛の言葉を交互に見ていく。体は冷たい。隣で寝ている麻衣の熱がやけにうざったく感じるほどに冷え切っている。
 メールをすべて見終わって、優一は静かに携帯を閉じた。自分が送るメールなど、麻衣の携帯の中ではほんの数件しかなかった。それ以上に、違う男からのメールが多い。

 会う約束をしたメール。
 映画を一緒に見た帰りのメール。
 買い物に行こうという約束のメール。
 ホテルに行った後のメール。

 それがメールばかりの関係だと信じられればどんなに楽だろう。けれど、二人が一緒に見たという映画は、麻衣から一昨日話を聞いたばかりだった。

『こないだ、友達と映画見に行ったんだ』

 嬉しそうに語っていた麻衣に、自分はなんと応えたのか。優一は思い出せなかった。友達の名前を聞いた優一に、麻衣はよく聞く友達の名前を挙げた。
 少しも疑ったことなど無かった。
 麻衣を見る。幸せそうに眠っている姿。
 涙をこぼそうとしたけれど、目頭は乾ききっていた。

(ああ、俺は……)

 冷めていく自分とは別に、なぜか一部だけが熱くなる。知らない男と麻衣との関係を想像するだけで、なぜか疲れ切ったはずの自身が膨れ上がってくる。息が熱く口から漏れた。
携帯を元あった場所に戻しながら、麻衣の胸に触れる。

(俺は……麻衣を)
「ん……」

 麻衣が小さく声を挙げる。その唇を、自分の唇で押さえつける。

(麻衣を……)

 自身への問いかけが、心の奥で跳ね返って口から飛び出しそうになる。

「な、に?」

 ぼんやりとした声を無視して、舌を這わす。ねめりとした歯をかいくぐって、熱く膨らんだ舌を包む。言葉はもう紡がせない。

(麻衣を……愛していたんだろうか?)

 冷えていく心のまま優一は麻衣の顔を見た。間近で見れば見るほど、最近できたばかりの麻衣のニキビは醜く、赤い。布団の中に右手を潜り込ませる。麻衣の乳房に触れながら、体全体で覆い被さる。

「なに…………するの?」

 唇を離した途端に、麻衣は眠そうな甘ったるい声を出した。いつもうっとりさせられたその声が、やけに汚く耳に残る。密かに借りたアダルトビデオの女優のようなわざとらしい台詞。
言葉を発することなく、麻衣のうなじに舌を這わしていく。ゆっくりと、肌の滑らかさを味わうように。けれど何の味も感じない。

「ん……」

 麻衣の口から漏れる声にも、全く感慨はわかない。頭を徐々に下げ、麻衣の体を下へ下へとなぞっていく。乳房に触れていた右手が堅くなった乳首を軽くおし曲げる。親指で何度かいじった後、人差し指とで軽く押さえつけるように揉む。
 下半身で自身が熱く、熱くなる。鼓動が上がる。
 それでも心の氷は溶け出さない。

「やだ……もう、エッチなんだから」

 まだ眠気に支配されているのか麻衣の反応は鈍い。
布団の中に潜り込みながら手でもてあそんでいない方の乳房を口に含める。麻衣の胸は小さい。ぴくりと麻衣の体が跳ねる。

「んっ……」
 口の中で堅くなっている乳首を舌で軽く触れた。「あふ……」麻衣の口から甘い鳴き声が漏れる。歯で乳房をなぞる。胸にあった右手は、脇をなぞりながら下へと降りていく。麻衣が体をねじらす。けれど、優一の手から逃れるほど強くはない。

「だめ……」

 そこはすでに濡れていた。わざと毛の生えたあたりをなぞる。

「ふぅあ……」

なかなか割れ目へと指をなぞらせはしない優一の指に、麻衣はじれったそうに声を漏らす。ゆっくりとした傾斜。蛇のように指を這わす。堅い縮れた毛を避けるように。ゆっくり。ゆっくり。

「……いや」

 目を閉じたまま麻衣は身をくねらせる。それまで動かなかった麻衣の手が素早く優一の熱い部分を握りしめた。外気に冷えていた手は想像よりもずっと冷たい。
けれど、優一はもっと冷たい物をすでに知っている。

 右手が麻衣の股を開かせる。乳房を執拗にいじっていた口は離れ、また、麻衣のうなじへと戻る。
 優一の腰が浮く。麻衣が気づいて腰を少し引かせた。

「……いいよ」

 照れた声で麻衣が誘う。けれど、優一はしゃべらない。
 ゆっくりと浮かせた腰を沈めていった。麻衣が何か声にならない声を出す。


(これで、最後だ)


 ぼんやりと感じながら腰を動かす優一には、もう麻衣はただ快楽におぼれた女にしか見えなかった。
心とは別の所で、体が快楽に揺れる。声を出し続ける麻衣に、優一は無言で腰を振り続ける。
滑稽な。なんて滑稽な二人。
自分を笑う自分を見つけたとき、優一の一部は少し萎えかけた。しかし、すかさず麻衣の腰の揺れが優一の揺れと合わさり濡れた快楽を染み込ませる。

 息が上がる。

 鼓動が響きを増す。

 麻衣の声が悲鳴になる。

 激しく自分をたたきつけるたび、痛さとも、快感とも言える声が、目の前の女の口からは漏れる。

 獣へとなりそうになる。

 自分の理性を無理矢理に、優一はその場にとどめた。

 膨れ上がる嫌悪感。

 ゆがんだ女の顔。

 行為を醜く感じるよりも先に、行為によって高まる女を突き刺してしまいたいような衝動を覚える。

 衝動を抑えつけるよう男は行為に集中し続ける。

「あ、あ、あ、ああ――」


 女が叫ぶ。
 男は、快楽に任せて、自身の中身をその幼き体より抜き出す。
 そして――




 そしてその次の日、優一は麻衣と別れた。




「なんで? 何で別れるの?」

 麻衣の言葉に、優一は何も理由を告げなかった。
 学校の帰り道。歩みを止めない優一に、麻衣は止まりかけた足を必死で送り出してついてくる。

「他に、好きな人が出来たの?」

 背中に突き刺さる言葉。
そういうことにしておいていい。そう、優一は逃げた。鼓動が静かに脈打つのを感じていた。麻衣をまともに見られなかった。目を見た途端、嫌悪感に襲われそうな自分が嫌だった。

 他に好きな人が出来たのはそっちだろう?
 俺を好きなフリをしていたのはそっちだろう?

 冷たい刃の切っ先を鋭く心の中で何度も磨いていた。麻衣の喉元へと突き刺したその刃が、無駄に血を流すのを見たくなかった。

「……じゃあ、友達に戻るの?」

 友達。
 麻衣の口から出た言葉は、ゆがんでいて、醜かった。
 冷たい壁が二人の間に徐々に出来ていく。
 蜘蛛の糸がその壁を通り越すようにして、ゆっくりと優一に巻かれる。
 暗い想像に目を一度閉じてから、優一は立ち止まった。

 駅へと続く高校の通学路には、いくつものマンションが建ち並んでいた。放課後の時間に似合った子供達の笑い声。マンションの入り口では、乳母車を脇に置いたまま親たちが談笑を続けている。車が通るたび、黄色い声があたりに飛ぶ。いぶかしげにこちらを振り返りながら、何人かの高校生が通り過ぎていく。

 日常は確かにここにあるのに、自分たちの周りはまるで閉ざされている。そう、優一は思いながら、麻衣に振り返った。

 麻衣が泣いていた。

 しゃくり上げるように。顔を俯かせたまま。
 なぜ彼女が泣いているのか分からず、優一は思わず首を傾げていた。他の者を好きなはずの彼女はなぜ、好きでもない男に振られることを畏れるのだろう。優一には理解できない感情。

 声を掛けようとしたその目が、麻衣の右手を捕らえた。
 しっかりと、右手は携帯を握りしめている。
 まるでそこから力を分けてもらっているかのように。

 目がすっと細くなった。
 心の氷が厚くなる。



「そうだね。
 友達。かな」



 自分の声を遠くで聞いた。
 麻衣が顔を上げる。涙に濡れた顔で、弱々しい笑顔をつくる。
 何か言おうと開いた口が、何も言葉を紡げずにただ、閉じた。
 一つ、頷く。

 優一は麻衣に背を向ける。
 空間が割れたのが分かった。またいつもの日常の中に戻ってきた感触に、小さくため息をつく。
 けれど心は冷めたまま。
 麻衣とはもう話すことはないだろう。後ろをただ歩いてくる麻衣に気づかれないよう、携帯のメモリーから麻衣の名前を消した。



 見なければ幸せだったのだろうか。
 知らなければ、自分はいったいいつまで恋をしていられたんだろう。



『削除しました』
 無機質に表示される文字を消しながら、当分恋愛をすることはないだろうと優一はぼんやりと考えた。
 少なくても、この冷たくなった心が溶けるまでは。
 後ろで聞こえるすすり泣きは、どこか遠くの次元の話しだった。


 優一は、ただ意味もなく何度も瞬きをした。
 そうすれば氷の破片は目からこぼれるかのように。

 けれど冷たく突き刺さった氷は、未だ抜けることなく彼の心を冷やし続けている。

あとがき
黒いでしょ?(背景が)
エロくはあんまりないと思うんだけどなぁ……
春先、こんな話しを載せたくなるわけですよ。

私の中で普遍的なテーマは「永遠」と「一瞬」なんです。
これまでの作品も、
きっと永遠と思っていたものが一瞬で崩れる様が、
多く描かれていると思います。

恋愛を永遠と信じるほど愚かなものはなく。
けれど、永遠という言葉があまりにも心地よくて、
焦がれる私たちがいる。
壊れるときは一瞬なのに………

なんて、黒いテーマも感じてもらえれば幸いです。

読んでくれてありがとうございました。