ただいつもどおりの教室の中

「里美、帰らないの?」

 美奈の呼ぶ声に、今まで自分がぼんやりとしていたことにはじめて気づいた。視界の端に美奈がいる。広がっている教室。椅子、そして机たち。私と美奈の他には誰もいない空間。夕日が差し込む放課後のこの場所で、私はただぼんやりと、窓枠に座っていたみたいだった。衰えつつある陽の力は、それでも私の頬を暖めるには充分だった。少し火照った頬を抑えながら首を振る。

「ううん、帰るけど」

 言いながら最近ショートにした髪をちょっといじる。外から流れ込んでくる風に、短く切った髪はかえってまとまりなく耳のあたりで踊った。あるべき場所に収まっていないような感覚。こうなるなら、絶対にショートなんかにしなかったのに。

「なぁにやってたのよ、こんな時間まで」

 肉づきのいい体に似合わない子供のような高い声で美奈が言う。ワイシャツだけの姿だと余計に分かる両腕の筋肉。美奈の体からはまだ少し汗の匂いがしていた。別に嫌な気分にはならない。健康的な、若者らしい汗の匂い。きっと今まで柔道部で張り切っていたのだろう。こんな教室でぼんやりしていることすら忘れていた自分より、それはとても素敵なことに思えた。慌てて笑みをつくる。

「いやぁ、なんか色々考えててさ」

 本当は何も考えちゃいない。でも、ぼんやりしてたなんて言ったら美奈がなんていうかはすぐに想像がついた。ここら辺じゃ珍しいほどの大家族で育った美奈は、いつでも何かしらお姉さんぶりたい言動をする。……特に、私に対しては。

「色々考えててって、なにか悩みでもあるの?」

 ふっくらとした美奈の顔の中で唯一細い眉毛――きっと毎日手入れを欠かさずしているんだろう綺麗な曲線――が八の字になる。結局言われたことは代わらないことに、心の中の自分が苦笑した。私は自分が思ったとおりのことなんてできないらしい。

「悩みなんてないって。もうすぐテストだから勉強しなくちゃなぁとか、そういうことしか考えてないよ」

 私はうまく笑えているだろうか? テストのことを考えていたことはうそじゃない。九月も半ばになって、十月の中旬にある中間テストがだんだんと現実味を帯びてきている。高校二年生にとっての二学期のテストは重要だ。……とは思うけど、それでもテストはテスト。

「テストなんて、まだ三週間くらいあるじゃん。心配するだけ損だよ」

 美奈が笑う。何もかもを洗い流して、そのあと自然乾燥してしまったような暖かな太陽の笑み。『天使の微笑』という言葉はきっと美奈のような人のためにあるんだろう。美奈はいつも他人の心配を笑い飛ばしてなんでもないような気分にさせる。だけど、そのたびに私が感じる感情を、他の誰かも感じてはいないだろうか。

 この暗い感情。
 眩しいほどの日の光を受ければ受けるほど、濃くなっていく影。
 決して美奈にはなれないのになおも焦がれる思いが、体中を這うように動き回って、私のすべてを否定していく。
 美奈じゃない腕。
 美奈じゃない顔。
 美奈じゃない感情。
 湧き出るように黒くて熱いなにかが胸の中から溢れそうになる。抑え付ける、必死に。

「そうだね」

 弱々しく私は笑みを返す。
 見えない頬の筋肉が電極を繋がれた蛙みたいにひくついているような感覚。どのくらい持ち上げれば笑ったことになるのか分からなくて、不器用に頬が震える。歯を見せようか、見せない方がいいのかにも悩んで逆に唇が変にめくれる。何でこんな笑みしか作れないんだろう。美奈が頷くのを見ながら自己嫌悪に覆われる。

「さて、じゃあ一緒に帰る? 途中までさ」

 美奈の笑顔。私の笑顔。似ていない顔、きっと笑みの違いはそれだけじゃない。

「そうだね。うん、そうしよ」

 私は私のすべてが嫌い。だからロングだった髪もショートにしたのに。
 私は私のすべてが嫌い。きっとそれは変わらない。変われないんだと思う。
 夕日がやけに赤くはっきり見えた。



 教室を出ようとして、ふと美奈が立ち止まった。

「どうしたの?」

 少し憮然とした顔で美奈は教卓を指差す。
 赤いボールペン。百円均一でも売ってそうななんてことはない赤色のノック式ボールペン。たった一つだけ教卓の上におかれて、取ってくれる人を待っている。芯は真ん中より少し使っているようだった。透明なプラスチックの外郭にはなんら個性は見られない。教卓という狭い場所に置かれているのに、なぜかとても小さく感じた。四角い教卓に囲まれて、見えない壁の中にぽつんと押しつぶされそうにおいてある。

 だけどペン先をしまいこんだままで空洞を見せ付けるそれは、今にもペン以外の何かが飛び出してきそうな気がした。赤い色は果たしてインクなのかも分からない。窓脇の陰が手を伸ばして掴もうとしているようにも見える。闇と光とが手を結ぶこの時間に、まるでボールペンは闇の使者が使う武器のように光を拒んでいる。思わず一歩廊下へと足を進める。

「いやあね」
「え?」

 美奈の声に、こめられたニュアンスはむしろ喜びであることに私は驚いた。『天使の微笑み』の美奈にはそんな口調は合わない。そんな気もした。向いた先で、美奈が上唇を軽く舐めたのが見えた。赤々とした舌がやけに濡れそぼっていて恐い。

「なにが?」
「なにがって」

 言いながら、美奈が教卓に近づいていく。日に焼けたその手が掴んだのは私が見ていたボールペンだった。まるで無造作に闇の武器は太陽の笑みを見せる美奈に渡った。
 窓枠はまったく無頓着に影を伸ばし続けている。
 ゆっくりとしか進まない闇の領域は進もうとしても、大きな美奈の身体には追いつけないのかもしれない。
 日の光を背に受けて私に向かってボールペンを持ったまま佇む美奈は綺麗だった。
 右手に持っているのボールペンは、美奈の右半分を安っぽくしているだけのような気がした。
 美奈が笑みを浮かべる。私がやるよりも無造作に。

「こんなところに忘れたままにして。もったいない」

 美奈が言った言葉を、しばらく理解できなかった。その手がゆっくりと美奈自身のカバンへと伸びていくのをぼんやりと見た。ありえない映像。夕日を受けて軌跡を空へと残すように赤い半分以下のインキが学生カバンに吸い込まれる。軽くカバンを叩いてから美奈は私に振り返る。カバンを叩いたスダァンという音が耳鳴りのようにこびりついた。

「さ、行きましょう」

 嫌だ。

 瞬間的に浮かんだ嫌悪感を私は顔に表さないように必死で笑顔を作った。落ちかけた日が美奈の顔を見えなくする。目を細めて私は美奈に背を向ける。美奈の表情を見なくてすむことが私の胸に安堵を生んだ、

 あんな美奈は嫌だ。そう思いながら安心する私がいる。

「どうしたの?」
「ううん。なんでもない」

 近づいてくる美奈にわざと陽気な声を出して、私は胸を抑える。教室から廊下へと出た途端に感じるひんやりとした冷気に、ほてっていた頬は冷やされる。同時に心も。

「帰ろう?」

 私の言葉も冷えていた。美奈の声を聞き流して私は歩き続ける。
 階段を下りるたびに、足の先から冷たさが上履きを通して滑り込んでくる。下駄箱を開けた途端に感じたのは閉じ込められていた濡れた空気。まだ履きなれてない革靴は、今まで誰も履いていなかったような硬さと寒々とした感情に包まれていた。

「……でさぁ、あの時」

 美奈の声は大きくてすべてをめい一杯膨らましてしまったかのよう。私は聞きながら外の風に揺れる髪を抑える。スカート下から無邪気にもぐりこむ冷気。使い慣れているはずのブラジャー越しに10月の声を聞いたような気がした。染み込んでいく空気という名の見えないモノ。そこに名前をつけることは決して出来ないのかもしれないけれど、頭の中で美奈から距離を置けている自分がいた。

「ねぇ、ボールペン。どうするの?」

 何の脈略もなく言葉が口から飛び出していた。美奈が笑う。

「家での丸付けようにでも使うよ」

 儲かっちゃったねといったその口の動きを最後まで追っていられなくて私は俯く。よく見たわけでもないのにアスファルトを這うアリを見つけた。黒い点。踏みそうになって思わず一歩大またになる。

「どうしたの?」

 まったく何も考えていないような美奈の笑み。バカみたいに素直な微笑み。もしこれが『天使の笑み』なら、神話に出てくる天使というもは皆こぞって白痴なのだろう。

「べつに」

 風が体中を捕らえた。胸の中まで染み込んでいく冷ややかさ。私は笑う。今初めて知った言葉みたいに、声を繰り返す。胸を張って。背を伸ばして。

「べつに〜」

 放課後までぼんやりしていた理由は思い出せない。でも、今ならいえることが一つだけ増えた気がする。

 私は私が嫌いだ。でも他人を羨んでばかりいてもしょうがないらしい。

 冷え切った身体を温めるために、帰ったら早めにお風呂に入ってベットに転がりながらCDでも聞こう。横でまだ何か話している美奈に曖昧な返事ばかり返しつつそんなことを思った。

 心臓を暖めるにはそれぐらい必要だろうから。

あとがき
誰かを羨みながら生きてはいませんか?
あの人には私は勝てないと思いながら、日々を重ねて。
けれど、
たった一瞬の一こまが、
もしかしたらその劣等感を消し去ってくれるかもしれない。

もう取り返しのつかないほど、冷ややかな感情を残して。