あなたへの手紙


拝啓

桜の花がちらほらと咲き始めました。春が近づいているとはいえまだ寒い日が続いています。
お元気ですか?
これであなたへの手紙を書くのも三年目ですね。手紙だけの関係、それがこんなに続くなんて、あなたは知っていたんですか? ……きっと知らないでしょうね。
私は手紙を出してはいないんですから。
もう、三年も経ってしまいましたね。あなたは今どこにいるんですか? 出したくて出せなかった手紙の束は、今私の机の中で窮屈そうに眠っています。

もう、限界です。

年月がいくら流れても変わりようのない愛。そんなことをあなたは思っているのでしょうか? それとも、便りのないままに、私たちの関係を終わらせようとしたんですか? 
もうどうでも良いことですね。あなたへ手紙を書くとき、私は確かに幸せでした。だから、もう良いです。

今度結婚することになりました。あなたは私を責められませんよね? もう待つのにつかれてしまったんです。両親が毎日のようにする説得にも、毎月のように届くお見合いの写真にも、季節ごとに誰がが側にいてほしいと感じる自分の気持ちにも。

結婚式にもあなたはきっと来ないんでしょうね。……もし来たとしても、来たとしたら、いえ来ない来なくる来たら――


 声にならない声が喉元からせり上がりそうになるのをあたしは必死に押さえる。右手で握りしめた万年筆が悲鳴を上げた。紙を半ば机に押しつけたまま左手が震える。

「だめね」

 小さくため息をついて、こみ上がりそうになるものを押し込めた。ゆっくりと呼吸をしながら、またペンを進める。


25才の誕生日に庭に植えた梅を覚えていますか? 「誕生日の記念」とあなたが冗談半分で買ってきてくれた小さな苗。その梅が今年は小さな花をつけました。時は確かに流れているんですね。私も年をとったということです。分かってください。

暖かい日の中にも時折寒い日が来る今日この頃ですが、どうかお体には気をつけてください。
また手紙を


 ピタリと右手が止まる。何を書こうとしているのか一瞬分かっていなかった自分に自分であきれた。
 苦笑しながらペンを離そうとするその手が動かない。

「だめね」
 つぶやいた言葉。
 誰にも見られてないかと辺りを一瞬うかがってから、視線を紙へと落とす。
 使い古された茶色い万年筆。あたしの指に握られ小さく震えながら次の言葉を待っている。紙へ落とした瞬間に広まっていく小さな染み。
 知らず腕は動いていた。


書きます。

野口夏美 
松田文也様


 
「ふう」

 ため息とともに、あたしはペンを置いた。乾燥で荒れた両の指で丁寧に便せんを折る。長い黒髪が目の前にたれて視界を一瞬隠すのがうっとうしい。
 顔を軽く振ると、髪の隙間から蛍光灯の光が目にこぼれた。思わずに目を閉じる。

(そろそろ切り時かな)

 『失恋したとき女は――』なんて言葉を思い出して一人苦笑する。
 肩を越して腰まで届きそうなほどに伸びた髪。『長い髪が好きだ』と言われた時のことが頭に浮かんだ。少しぶっきらぼうな声で、抱いた腕に力を込めながら言われた言葉。
 あわてて目を開ける。鏡を見なくたって今、自分が相当渋い顔をしていることなんてすぐ分かった。
 髪を軽く指に絡ませる。よく手入れされた長髪。
 この髪が自分の自慢になったのはいつの頃からだろう?
 肌にさえお金をかけることを躊躇した自分が、一体髪にいくらつぎ込んできたのかなんて考えたくもなかった。伸ばし始めたときは会うたびに聞いていた『似合うよ』の言葉が頭の中によみがえる。

「調子のいいことばっかし」

 はじいた髪は軽く円を描くようにして顔の横に流れる。微かに香るリンスの匂い。
 軽く背を伸ばしながら、机越しに窓を見た。
 中途半端に開けられた窓からは、休むことなく穏やかな風が吹き込んでくる。窓に密着されるように机があるので机の上に乗るようにしないと外は見えない。
 けれど、きっと三日月。

(こんな不安定な夜には三日月がよく似合うわ)

『僕と結婚してくれませんか?』
 二週間前に聞いた声。本当は言うはずだった文也は現れないままに、三ヶ月関係が続いた彼から届いた言葉。精一杯の気持ちがあふれていて、その想いの強さを思うたび胸が重くなる。
 人並みの体格。薄くなってきた頭。笑うときやけに申し訳なさそうに体を曲げる癖。
 文也と同じ四歳年上の彼は魅力的からほど遠い。それでも、側にいて安心できた。決してこの人ならばあたしが嫌だと断ればどんな行為にも及んでは来ない。そんな弱くて悲しい彼。会う度に打算のみが膨れるのが嫌で嫌でしょうがなかった。それなのにどうして頷いたのか、今でもよく分からない。

 今思い出しても、どこか遠い場所で彼の言葉を聞いていたような気がする。彼の体を通り抜けるようにして、人の少ない公園が見えていた。公園を守るように植えられたカラタチの花が、一つまた一つと風に散っていた。
 ちっぽけで、哀しくって、寂しく散っていく花びら。
 小さい頃夢中で覚えた花言葉がやけにはっきりと頭に浮かんだ。
 風によって、時に流されていく小さな一つ一つの『思い出』達。

 気がついたときには、あたしは彼の言葉にうなずいていた。涙を流しながら。その理由だけは最後まで話せないまま。

 いつの間にかあたしは目を瞑っていたみたいだった。文也を思い出さないように彼のことを考えるのに、なぜか文也が浮かんでくる。
 気分を振り払おうと机の隅に置いといたコーヒーをすすった。「明日は式なんだから早く寝なさい」と言った母の言葉を聞いたのは、もう二時間以上も前の話だ。なのに、今も自分はこうやって起きて、ぼんやりと見えもしない空を見ようと窓を眺めている。

(あの人以外なら誰でも良い)

 彼はいい人だ。きっと自分はいつか彼を愛し、幸せな人生を歩むことができるのだろう。あの人などいなくても。
 コーヒーを飲む手が止まる。片手はさっき書いたばかりの手紙に伸びていた。

(あの人がいなくても?)

 手紙をじっと見つめる。綺麗に三つ折りにしてある。
 三年も繰り返してきた作業はもう忘れられないほど体に染み込んでしまっている。
 ほんの少しのずれもなく三つ折りにされた長方形。
 この中に一体何度あたしは想いを詰め込んだんだろう。
 ときどき濡れてしまう紙が破けそうになって、そんな自分が情けなくて机に突っ伏した日もあった。

 これは、たかが手紙にすぎないのに。

 カップを机におく。両手で手紙を持って、軽く左右に引っ張る。
 少し堅い感触。
 それでも破れないわけじゃない。
 もろい紙。ただの紙。
 あたしと文也の間に入るにしては薄っぺらくて、安っぽい境界線。

「あなたがいなくても、私は生きていけるわ。あたし強いもの。今まで苦しいこととか、悲しいこととか、あなたは助けてくれなかった。一人で乗り切ってきたのよ。だから」

 とぎれた後に待っている沈黙。
 あたしは何を言おうとした?
 手の中にある手紙をやけに重く感じた。風の音を離れた場所で聞く。
 机はあたしの体から遠い気がした。頭の中が小さく鳴る。泣きそうになっているのが自分でも分かりながら声を出す。
 絞り出すように。

「大丈夫。大丈夫……丈夫なんだから。私を、私を縛らないで」

 こんなに自分の両手は重かった? そう自問してしまうほどに、ぴくりとも動かない手。
 あたしは何を破ろうというのか。
 絆? 
 愛? 
 目の前にあるのは、もう手紙ではなかった。
 あたしをいままで生かしてくれた存在のような、強い意志。

「結局、あなたを忘れることはできないのかもしれないわね」

 そう、言ってみたら自然に笑えた。体の中から力が抜けていって疲れているのに、なぜかうれしい。

「お休みなさいあなた。もう寝なきゃ。明日早いの」

 手紙に軽く唇を触れてから小さくはじく。両手でゆっくりと机の中へ。
 ほかにも並んでいる手紙達と一緒に眠りについてもらう。今日あたしが抱いた想いと一緒に。
 もう一度のびをした。背筋が小さく音を立てた。
 軽く腕を回した拍子にずれたブラを直しながら、床の布団に目を落とす。
 四畳半の小さな部屋。隣には、父と母が眠っている。小さくても立派な我が家だ。
 ここからあたしは明日出ていく。そして彼と暮らさなければいけない。

「自分で選んだのだから、仕方ないわよね」

 布団に体を滑り込ます。ひんやりとした感触に、思わず体をちぢ込ませて、そのまま目を閉じる。
 遅くまで起きているのはやはりきつかった気がする。すぐに瞼が重くなって、うつらうつらとしてくる。
 静まり返った部屋の中で目覚まし時計の針がやけに音を立てながら回っている。隣の部屋から聞こえてくるいびきは父のもの。受験の時も、就職試験の前も、あたしは父に眠れないと文句を言った。母はそんなあたしをいつもおかしそうに見ていた。きっと母は父のいびきにも慣れて、だからこそずっと一緒にいられるんだろう。あたしは? あたしは彼と一緒にいられるんだろうか。彼を――

 小さく窓が鳴った。

 風かなと思う。
 風にしては不思議な音だなと思う。
 まるで誰かが故意に石をぶつけたような。
 ……文也がいつもあたしに用があるときにしたような、そんな音。
 重かったはずの意識が急にはっきりした。

 また窓が鳴る。勢いをつけて布団から起きあがる。
 まさかと思ってしまう自分に変にあきれながら、胸だけは勝手に動機を早める。
 薄暗い外を、窓を開けることなく見ることはできない。
 それなのに膨らんでくる期待。そしてまた音が鳴る。

 三度目は前の二回よりも小さな音だった。なぜか焦って窓に近寄る。
 机の上に上るのも一体何年ぶりなのか分からなかった。ましてや窓を完全に開くなんてのは何時が最後だったのか覚えている分けがない。
 夜の風が一斉にあたしに向かって突き刺さる。鼻が一瞬で冷たくなる。それでも、目だけはしっかりと下を見ていた。
 いつも、文也を見つけた場所を。

「……よぉ」

 文也がいた。
 暗がりから、照れたような、それでいて悪びれない声が届く。
 太い声。
 一瞬あたしは自分が何時にいるのか分からなくなる。
 これは夢?
 それとも現実? 
 分からないまま文也を見下ろす。机の上の冷たさが遠くなる。

「なによ」

 不機嫌につぶやく。
 うれしさと一緒にあふれてくるのは怒り。
 文也だ。
 あたしの言葉にアイツは笑う。
 肩を軽く震わせるのは寒さのせい?
 一瞬下を俯いた顔がやけにゆっくりとあたしに向く。いつも通りのアイツの顔。

「来いよ」

 もう体は動いていた。悔しくてもしょうがなかった。
 抑えきれない感情に引きずられるままに、部屋を飛び出し、廊下を走り、玄関の鍵を開け、裸足のままで外に出ていた。

 風が髪を流していく。頬を通り抜けた冷たさが耳をなぶる。寝間着の間から入り込んでくるような冷気に思わず体を震わせた。
 文也も少し寒そうに手を組んでいる。茶色いジャケットに街灯が当たって、色あせた輝きと暗さが腰のあたりで混ぜ合わっている。黒のジーンズがやけに地面の色に溶けていて、一瞬、文也の姿が揺らいだような気がした。

「まだ起きているなんてずいぶんと夜更かしだな。眠れなかったのか?」
「あなたのせいで起きちゃったのよ」
「そうか、悪かったな」

 別れたままで。
 そういうのは少し変かもしれない。
 でも確かにあたしの目には木陰によりかかるようにして、あたしを見つめる文也は、いつもと同じような姿に見えた。
 冷たい風に文也の髪が揺れる。強く太い眉。いつも不適な笑みを浮かべる口元。肌は少し焼けたかもしれない。少し皺も出始めた? 
 そんなことは少しもかまわない。

「どこいっていたのよ、三年間も」
「いろいろだ」

 文也は、ただ笑って言う。
 もうすっかり帰ってきたみたいな顔をして。
 悔しくなる。
 あまりにもあっけない再会をした自分と文也が。

「なんで今頃戻ってきたのよ」

 あたしは言わなくてはならない。屈託なく笑う文也を前に、裏切りの言葉を吐く準備をしようと息を吸い込んだ。
 肺いっぱいに入り込んでくる男物の香水の香り。それを懐かしく思うと同時に悲しくなる。

「私……」
「言わなくて良い」

 文也は手であたしの言葉をせいすると、すっと目を細めた。いつも遠くを見るときにやる何かに悲しむようなそんな瞳。夕焼けを背にしたあたしをまぶしそうに見ながら夢を語っていた旅人の瞳。

「聞いたよ。近所の人に。……いい人なんだろう?」
「えっ……ええ」

 出鼻をくじかれるという言葉の意味を初めて知った。用意していた言葉がすべて無意味になって、何をいって良いのか分からなくなる。
 一瞬生まれた沈黙にただあたしは肩を抱く。
 ゆっくりとあがる文也の手が、あたしに触れる前に下がっていく。
 腕の動きから目を離して文也を見れば、笑っている文也がいる。
 街灯に照らされて、顔の半分が陰になった笑顔。

「幸せか?」

 静かに文也が聞く。
 あたしが恋したときのままの瞳で。
 あたしを愛した瞳で。
 ……でも、もうあたしはその目をまっすぐに見ることはできない。
 地面に目を落とせば文也のぼろぼろになった靴が見えた。
 泥だらけで、会社員をまじめにつとめている彼とは違う放浪者の靴。
 それなのに闇と思うほどの地面の上で、強く文也の体を支えている靴。

「あなたが悪いのよ。いつまでも待たせるから」

 質問には答えないで、ただぎゅっと拳を握りしめる。

「……そうだな」

 ただ文也はうなずくだけ

「謝りなさいよ」
「ごめん」

 あたしの言葉に間髪入れず謝って、上目越しにあたしを見る。不安そうに文也の口が開かれる。

「幸せか?」

 一瞬口の中で造りそうになった言葉を、あたしは必至で飲み込む。
 笑わなきゃいけない。
 今あたしは彼を選んだことを文也に伝えなくちゃいけない。そう思っているのに、言葉がうまく出てこない。両手が思い切り服を握った。

「幸せよ。もう、これ以上ないってくらいね」

 自分ながら説得力のない言葉だと言った途端に思った。
 瞳からはもう涙があふれてしまっている。
 あたしの両手が握ったのは文也の服。
 真っ正面に立っているその胸に顔を埋めようとしてできないでいる。そんな自分のどこが幸せだって言うんだろう。

「……そうか」

 文也は、ポンッとあたしの頭に手を置いた。そのまま少し乱暴になでる。
 ごわごわとした文也の手だ。
 大きく、広い。
 抱かれている途中に何度も自分を高まらしたその手が今はただ子供をあやすように頭をなでている。

「やめてよ、子供じゃないんだから」
「ごめん」

 耐えられなかった。
 あたしと文也とはもう別々の場所にいることだけが知りたくないほどに分かってしまう。
 だからあわてて掴んでいた手を離し、体を遠ざける。
 自分はもう明日から人妻となる。ほかの男にうつつを抜かしてなどいられない。

 文也に背を向ける。見えなくなるまで手を振っていたのは昔の話。
 今はもう、それは文字通り過去になっている。

「もう眠らなくちゃ。明日結婚式だから」

 両手で体を抱いて精一杯冷たくいってやる。文也のため息が聞こえた気がした。

「そうか」

 寂しげな声。今まで聞いた声の中で一番小さかった。
 思わず振り返りそうになるのを必死に押さえる。

「そうよ」
「わかったよ」

 砂を踏みつける音。文也の靴が動くのが分かる。アスファルトで覆われた地面に残るわずかな砂。そんなちっぽけなものをただ弾いているだけの足音がやけに大きい。
 すぐ近くの道路を車が通り過ぎていく。排気音がやけに遠く感じた。

「……幸せにな」

 ささやくほどの小さな声。そのまま後ろで足音だけが妙にはっきりと遠ざかっていく。
 肌に当たる風が冷たい。腕に水が落ちる。涙を止める理由なんて無かった。足音が遠ざかっていくのを確かめて、あたしは振り返った。
 背中が遠のいていく。何度も喧嘩をして仲直りの度にデートをして、その終わりに家まで自分を送って帰っていった背中。片手を引っ張るように歩いていく文也の足に歩調を合わせられなくて、文句を言いながらずっとその背中を見てた。
『世界を旅してみたいんだ』
 そんな言葉を聞いたときも、背中はとても大きくて。
 なんであたしを見てその言葉を言えないのかなんて考えもつかなかった。
 ずっと強いんだと思っていた。それが弱々しく、いまにも倒れるような足取りで歩いていく。
 背中は角を曲がって見えなくなった。
 玄関に向いてため息一つついて、ドアに手を伸ばす。

 ずっと待っていた。

 自分は忘れられるのだろうか。
 忘れる?
 文也を?
 一瞬、文也を忘れてお嫁さんをやっている自分の姿が浮かんだ。
 きっと、忘れることはできる。文也の言葉も、声も、腕の強さも、足の速さも、文也自身のぬくもりも。
 だけどあたしは……
 覚えたままでいられるのだろうか?
 文也のことを。
 彼からもらったいくつもの思い出を。
 枯れていくカラタチの花と一緒に風に流せるのだろうか?
 そしていつか文也が誰かと一緒になったら、その光景に耐えられるんだろうか――

 気がついたらあたしは走っていた。
 息を切らして、文也の行った道のりを。

 夜風が一段と強く吹いた。この風があの人を連れてきてくれればいい。
 そう思ってしまうほど強く、冷たい風。狭い道を走り抜ければすぐに道路へと繋がっている。
 右へ行くか左へ行くか分からなくて一瞬とまどった。
 クラクションを響かせながら車が右から左へと走り抜けていく。
 左だ。
 なぜかそんな気がして走る。
 アスファルトから感じる冷たさと痛みに足の動きが少し重くなる。
 それでも休まない。
 ……休めない。

「ふぃっくしゅ」

 小さくどこかでくしゃみが聞こえた。
 恋人同士の再会になんて不釣り合いなきっかけだろう。
 そう考えると、うれしさと一緒におかしさがこみ上げてくる。
 文也は信号を待っていた。ずずっと鼻をすすって、標識と同じような格好で突っ立っている。
 すべてを忘れてあたしは彼へと走り寄った。

「わぁったっ」

 文也の驚いた声なんて気にしない。あたしはその背に思い切り抱きついて顔を埋めた。

「え? 夏美? どうして」

 驚きと、喜びと、疑問と。いろいろな表情が一緒になって文也があたしを見下ろす。質問には答えてやらない。ただ一言だけ、怒った上目遣いで言う。

「あたし、まだ籍を入れてないの」
「え?」

 男は意味が分からなかったようだった。この鈍感、と心の中でつぶやいてその手の甲を思いっきりつねる。何だ私もまだまだ若いじゃない。なんてうれしく思いながら。

「いってぇ」

 大声で叫んでから、文也は気づく。

「夏美、それじゃあ」
「待たしておいて何言っているのよ。……責任、とってくれるんでしょう?」

 小首を傾げて文也を見る。いつも冷静そうだった顔が一瞬苦笑して、急にまじめな顔になる。言葉を探すように口をもごもごと動かしてから、二三度小さく息をついて文也はようやく言葉を吐く。

「もちろん」
「じゃあ言って」

 その手にぎゅっとしがみつく。何かなんて言わない。
 文也の顔がきりりとなる。
 一瞬、あたしは風を忘れた。
 音も。
 色さえもあたしの周りから遠くなる。
 あたしの前には文也。
 そしてあたし達が作り上げた今というなの空間。

「……結婚してください」

 言葉が音となって耳からはいる。音は響きとなってあたしの体に染み込んでいく。あたしは笑う。

「よろこんで」

 信号が青になった。文也の歩にあわせてあたしも足を踏み出す。途端、アスファルトが冷たくって思わず悲鳴を上げた。

「何だおまえ、裸足なのかよ」
「そうよお。しかも寝間着だし、これ」

 あたしの言葉に、文也はあきれた顔で頭をかいた。昔何度もあたしが無茶する度にやった文也の癖。まだ直ってないってことがうれしい。

「しょうがない。途中で買うぞ。とりあえず、車までは我慢しろよな」

 言いながら、文也が靴を脱ぐ。差し出された大きな靴は思った以上に暖かくて、つながっている腕と同じくらいに文也のことを側で感じた。

「うん」

 文也の言葉にうなずいてから、あたしはふと浮かんだ言葉に苦笑する。

「どうした?」
「なんか駆け落ちみたい」
「この年でか?」
「それは関係ないでしょ」

 もう手紙は出さなくてすみそうだ。愛なんて所詮自分勝手なものなんだろう。そう、一人理屈つけてあたしは空を見た。

「やっぱり今日は満月ね」


 幸せには満月がよく似合う。

あとがき
これは高校のときに書いた作品のリメイク版です。
高校生らしい作品でしょう?
なにか、純粋さがあって、今の自分が恥ずかしくなりました。
んで、思わずリメイク。ちょっと大人を出そうとして
失敗
詩と小説の融合(散文ではなくて)を目指した作品。
実は『五月の雨』と同じスタンスで書かれています。
・・・・そうは見えないですね(汗)