町の中で

 町の中で僕はなんでもない僕になる。真白な道が続く。悲しみも喜びも流していく空。どんよりと曇ったまま、白い道を白く照らす。世の中はいつも冷たい。どんなに嫌になってもあがき続けなければならない現実。いやなものを思い出すたびに僕は僕の中にとらわれていく。何が自分に大切なのかもわからないけど、ただ町の中で。

 僕はなんでもない僕になる。

「本当にそれでいいの?」

 頭上から聞こえてきた声は、女のものだった。少し高く、ように耳に残る声。色に例えれば薄黄色のように、あたりに淡く解けそうで心のどこかで引っかかる。

「あなたは、本当にそれでいいの?」

 繰り返される言葉。僕の周りから物音が消える。ただその声を聞くために。

『いい』?

 一体なにを持って、僕のこの状態を、『いい』などといえるのだろうか。だからといって否定してどうなる? 周りからすべてを遮断したとしても、結局はここに戻ってくるのだ。

いつかは。そう。ありきたりの日々を送らなければならない日々に、つかれたなどといっても、それはすべて無駄なこととなる。僕は何のために生きているかもわからないまま、この道を歩き続けなきゃならないのだ。

死にたいとは思わない。それは今も死の淵で戦っている病人や、若くして死んでしまった人々に対する冒涜だ。だけど、だからといって僕が生きてなんになるのだろう? そう考えるといつも怖くなる。

「だったら、死んでしまえばいいんじゃないの?」

 僕の心を見透かすような声。僕の考えの先を呟くように耳にささやく。それが非現実的な存在だということはすぐにわかる。なぜなら人は、あくまで一般的にすぎないのかもしれないが、宙に浮いたりはしない。

「そうね。一般的な視点からみれば、それはそのとおりかもしれないね」

 白い道。白い羽。彼女が一体何なのか、時々僕は思い当たったその答えを口に出してしまいそうになる。「出せばいいのに」でも、それは非現実な世界への扉をただ、開けてしまうだけに過ぎない。

「そうかな?」

この世界の中ではどんなに夢想したとしても「そう、何人かはそれを思い浮かべるわね」実際にそんな存在が世の中に出たことはない。人々の目に触れたことなどないのだ。「でも、それは確かにいるのかもしれないと、同時にあなたは思っている」そう、それは否定できない。

血の涙を流すキリスト像、触るだけで目を治療してしまったお地蔵様。あらゆる奇跡は世の中に溢れている。それなら現実世界に目をそむけかけた青年が、ある一種の人ではないものを見たとしても不思議ではないはずだ。「そう、そのとおり」しかし、統計上に照らし合わせてみれば「また数学に頼るの?」幻覚を見てしまった人間の数の方が、世間に溢れる奇跡の数よりも多いことは明らかだ。

ということは「そうやって可能性を自ら否定して、そうやってあなたは生きてきたの? これからも生きていくの?」分からない。それは本当に分からない問題だ。ただ、僕は今ひとつだけ確かにいえることがある。「それは確かかな」君は、君はここにはいないということだ。「だったら声に出していってみればいいわ。心の中の葛藤で終わらせず、口に出すことができたのなら、きっと幻は消えてしまうはずでしょう。それとも」いや、僕は口に出していえる。なぜなら君は幻覚だからだ。

ただ、今は人通りが多い。通過していく車たち。路上で下を向いたまま通り過ぎていく通行人。男、女。老女、そして幼い子供たち。こんな中で自分の言葉を「あなたはいつもいいわけばかり」自分の言葉を吐くことは「そうやって言い訳して真実から目をそらしてる」言葉を吐くことは、あまりにも低脳な人物と思われやすい行動じゃないか。「理由は本当にそれだけ?」もちろん自分が今正常ではない状態に少しさしかかっていることはわかっている。

それでも、僕は幻覚などは見えていない「それに幻聴もね」そう、幻聴も聞こえていない。「ならば私がいるのは事実なんじゃない?」それはちがう。さっきも言ったように、ホイルマンにおける『健康体における心理的ストレス』から引用すれば「それは確か、リストマンじゃなかった?」そう、リストマンだ。聞いてなかったのか? リストマンの『健康体における心理的ストレス』から引用すれば「でも、さっきはホイットマンといった」そう、彼の、ホイットマンの『健康体に「そういう心理学者の言葉を持ち出すことで、あなた個人のことが何かわかるの」すべての出来事を体系的にあらわしているのが心理学だ。

今の僕の状態はそもそも「あなたの状態は、あなたの状態。体系化された一般からはさしはかれない。もし、名前がつくのだとしたら」やめろ。僕はまだその場所に入っていない「私の言いたいことがわかったみたいね、でも、せっかくだから最後まで言わせてくれても」いやだ、僕は正常だ。まともだ。ここに生きている。だから生きている。君は幻覚だ。幻聴だ「ならばそれを大声で言ってみて。すべてを否定するその言葉を。私が幻ならあなたの言葉で私は消える」そう消える「だけど残ったら? あなたの言葉に私が残ってしまったら」そんなことはない。絶対に。「もし、残ったらと聞いているの。だって、あなたはさっきから恐れている」おそれている?「そう。私を否定することを。この道の中で、この白い道の中で私を否定することがどんなに恐ろしいことか。あなたはすでに気づいている。

私が消えなかったら? 私が消えなかったら? 私は消えない。私は消えない。私は」だまれ。だまれ。だまれ。だまれ。僕は正常だ。僕は正常なんだ。「じゃあ、それを今ここで叫んでみて。あなたが正常だって事を私に教えて」僕は、僕は正常だ。こんな場所で叫ぶなんて、まともじゃ「だったらあなたはどうやって自分がまともであることを照明するの? 私の言葉を聞き続けるの? それもいいわね。それもいい。それも」だまれ。この街の中で僕に叫べと君は言うんだな。「そうよ」そして叫ぶことで僕に破滅しろと。「破滅しろとは思っていないわ。ただ、なにが正しくて、なにが間違っているのかに、あなたは気づくだけ」僕は間違っていない。「そう?生きることに疑問をもちながら、それでも生きていくことをやめられないほどの弱い人間。そんなあなたが叫べもしないで私のことも否定できないでいる。あなたは本当にまちがっていないのかしら?」僕は正しい。「一般的な基準が好きなあなた。でも、その基準の中にあなたは入っているの? ホイルマンの理論はなんの役にたった?」僕は正しい。「そう、あなたは正しいのね。じゃあ、それを声に出して。ほら、今こそ声に出すときよ、その事実を。私という存在が本当にいるのかどうかすべてがあなたが言ういくつかのWordで分かってしまう。それはすばらしいことでしょう」僕は正しい。「本当にそうかしら」僕は正しい。「本当に」

「僕は正しい!」

 街中ですべての視線が僕に向く。僕の膝くらいしかない子が、片手を女の人の手と繋げながらギョッとした顔で僕を振り返った。時が止まったようなその表情が、すぐさまゆがんで泣き声をあげる。あわてて、女の人が少女を抱える。それでも泣き声は収まらない。頭が痛い。

「黙れ」

 静かだった。街の中のざわめきが、僕の言葉で静まり返る。いや、そうじゃない。僕の中で音が消える。すべての音は、もうすでに雑音でしかない。声は聞こえない。僕は勝った。この雑踏の中で、白く続く道の中で、僕は自分の歩みを止める声に、勝った。

「やはり、僕は正しかった。不可思議な存在なんてものはこの世の中にはいないんだ」

 おかしくなって僕は笑った。人々の歩みは僕から遠ざかっていく。それでいい。僕は今勝ち取ったものを、自分自身以外と分かち合う気はないのだから。空を見上げた。どんよりと曇っている空は僕に無上の喜びを与えた。今日も僕は正常だ。

「それはどうかしら」

 ふと、耳元で声が聞こえた気がした。
 いや、気のせいだ。気のせいに決まっている。今日もまた僕はこの雑踏の中を、何の当てもなく歩き続ける。道の見えない日々を行き、いつのまにか朽ち果てるその時を夢見て。

「あなたは、本当にそれでいいの」

 気のせいだ。

「気づかないフリをしすぎて、あなたはなにを落としているの?」

 気のせいだ。気のせいだ。気のせいだ。気のせいだ。気のせいだ。気のせいだ。

「そうかしら?」

 頬に、雫を感じた。
 僕は空を見上げた。
 雨は降っていなかった。

あとがき
やは、ホラーですね。
ホラーを書いたつもりなのです。
ホラーじゃないと言われても困ります(苦笑)

この作品は実は一年くらい前の作品です。
久しぶりに見つけたら気に入ったので載せてみました。

ラスト部は自分でも気に入っております(苦笑)