アーティフィカル・ミルククラウン
その1
『だからね――』
笑いながら口を開いた彼を
見つめていたままの瞳を
今も耳に残るあの言葉を
消せなくて
私は言葉を捜している――
0
翠(みどり)は微笑むこともなく外を見る。自分を見つめる彼の視線にはまだ気がついていない。
(雨はまだいらない)
晴れた空には何も見えない。
頭の中に一つの光景が蘇る。静かに翠は首を振ってふりかえった。翠の視線の中で、彼は慌てて彼 女から視線をはずしたところだった。
彼の視線は、部屋の隅に数台置かれたパソコンの一台へと向く。
パソコンはどれも、複雑な数式を並べ立てては、数台がそれぞれ違ったプログラムを働かせている。
暗がりの中でディスプレイを静かに見つめる彼の肩を、翠は叩く。彼は振り返る。翠は頷く。
ピピピと、彼の頭の中で鳥が鳴いた。
数度、首を横振ってから彼は言った。
「いいよ。あんたがそれを望むなら。僕はあまりやりたくないけどね」
翠は笑う。満足そうに。
けれど、そんな翠を翠は知らない。
1
自分の部屋の窓際に座って、翠は今日も外を眺めていた。
うっそうとした林に囲まれた道の向こうには、人影は見えない。昼を少しすぎた頃からつく電灯が寂しそうに突っ立っているだけ。
静かだった。
周りにある家々はどれもひっそりとしていて、田んぼ沿いの道に子供達の姿は見えない。それも、過疎化が進んでいるこの村なら当たり前の話だろうと翠は一人納得して、飽きもせず窓の外を見る。
風が吹く。鳥たちの歌声を静かに時が運んでくる。
陽の光が優しく翠を覗き込む。目を閉じる。見えないものを抱くように伸ばした両手は、ただきつく自身を抱きしめた。
(聞こえますか私の言葉が)
胸の中で誰に届くとも思わずに呟く。実りを始めたばかりの胸が呼吸と共に上下する。今年十七になったばかりの身体には大人になりきれないアンバランスさが宿っている。
(私はここにいます)
時の進まないような場所。季節の流れと時計の針が、まるでかみ合っていない場所。人の作り出した文明を笑うかのように鳥がさえずり、木々がささやく場所。
(だから、ここに来てください)
誰にともなく思う願い。自由であるはずの自分がなぜか窮屈に考えたとき、いつも翠は空を見て、遠い場所へと願いを飛ばす。
空はとても遠く見えた。
2
日本で第二に大きい都市YがあるK県も、中心部から少し離れれば、どこにでもある田舎道と同じ場所にぶつかることがある。
まるで、一つ時代を間違えてしまったかのような、時という空間の迷子になってしまったとでも錯覚してしまいそうなほどの雰囲気の差。誰もが一瞬、見慣れているような景色のような気がして、やはり違うのだと自分に言い聞かせる、そんな場所。
陽梨村も、そんな田舎くさい場所のひとつで、田んぼがあり、森に囲まれ、澄んだ川が流れている。夜になれば、人々はテレビよりも森の歌う歌に耳を傾け、時を過ごす。
朝早く起きた日には軒先にふくろうが止まっていることもあり、道路わきの看板には『タヌキ注意』の文字がある。
完全だった。
二つとないほどに完璧な舞台。
「こんな村、僕は嫌いだけどね」
彼の言葉は翠の耳には届いてはいなかった。
翠はただ時間を待っている。始まる時間を。彼は肩をすくめた。
やがて、待ちわびたときが訪れたかのように翠は笑みを浮かべた。彼はもういなかった。
3
翠は、今日も朝早くに家を出た。
四月も半ばになるというのに、私道を歩いている途中、口からは時折白い息が漏れた。肌寒さを紛らわそうと、手は自然とコートのポケットにしまわれる。俯いた姿勢をとらないように前を向くその顔は、ひやりとする外気で妙に突っ張って見える。
砂利を踏みつける足音のほかには、人がいないかのように木々が、鳥が、朝のおしゃべりをはじめている。公道へ出るまでの十五分、翠は森と、湧き水とで囲まれたこの道を歩くのが何よりも好きだった。歩くほどに気づく声に、自然に歩の進みは遅くなる。
時折、自分が立ち止まっていることに気づかないで、鳥の動きに耳をすましていることさえあった。
右手の時計は、七時三十二分を指している。高校までは、公道を上り坂に沿って歩いて30分かかる。自転車ならば行きは一時間以上。それほどに、翠が通う高校、赤葉第二高校までの坂はきついものだった。翠にとっては朝の楽しい散歩道にすぎなかったが。
(聞こえますか)
道を歩きながら翠は問う。自分が、一体誰に聞いているのかわからないまま。
(私はここにいます)
両手を振り、歩くその顔には少し緊張した笑顔がある。肩まで伸びるたびに短くしてしまう黒髪が、今はやっと首の半分で揺れている。おでこの少し上の前髪は、自分で切ったせいでバラバラ。思い出したように手入れする眉毛は、今日は少しバランスが悪い。少し高めの鼻は、光の加減で表情を良くも悪くもするので翠はあまり好きではない。
それでも、その笑顔にはアンバランスな魅力がある。決して整ってはいないのに、近寄ってみたくなる野花のような、雲が織り成す芸術のような。
(聞こえますか私の言葉が)
心の中で呟く言葉を口に出そうとして、翠は口に手をあてた。ゆっくりと開かれる口が『あ』の形になりながら、萎むように閉じていく。
言葉は一欠けらも喉から作られることはなかった。
4
山頂から町並みを見下ろすようにある高校は、翠の記憶では、陽梨村唯一の高校だった。木々に挟まれた道の先で、どっしりとした自らの外観をあたりに見せびらかしている。赤葉第二の名のとおり、かつては第一高校も近くにあったが、生徒の減少と校舎老朽化を原因に五年前に廃校になってしまったのだと、翠は誰かに聞いた覚えがあった。
とはいうものの、第二高校の古さも第一高校と大して変わることが無く、今時木造校舎というだけで古臭い印象を覚える。けれど、翠は走るたびに軋んだ音を立てるこの校舎が好きだ。
「みーどりっ」
校門を通り抜けたところで鳥がいっせいに騒ぎ出したようなやかましい声を上げて麻美が走ってきた。右手で振り回しているのは父親のお古である書類鞄。色も茶色でいたるところシワだらけであるのにかかわらず麻美のお気に入りだ。「この角、強そうでしょ?」と一度翠に笑いながら聞いたことがある。
振り向いて翠は笑みを浮かべた。途端、走ってきた麻美は片方の眉をくっと上げて不思議そうな表情を見せる。
「あら、まだ翠ってば声治らないの?」
コクリと翠は頷く。
「……そっか」
思慮深げに麻美の顔は俯いた。が、すぐにぱっと花が咲いたような笑顔になる。
「まぁ焦ることはないって。べっつに喋れなくたっていいじゃない? 翠は美術選択だしさ。音楽でもなきゃ声使うことなんてないんだからさぁ」
頷きを返しながら微笑む翠に「そうそう」と、内緒話をするよう麻美は声をひそめる。
「音楽といえば坂田の奴、また変な課題出してきたのよぉ。今度は『ホタル来い』の輪唱だって」
首をかしげた翠に気づいたのか、苦笑して麻美は片手を軽く振って、
「あれよ、あれ、『こっちの水はあーまいぞ。そっちの水はにーがいぞ』ってやつ」
翠の頷きを満足そうに見てから、笑みはわざとらしく苦々しい顔を作ってみせる。
「まったく。もうすぐ十七になるっていうのに、今更そんなの誰も歌いたくないって。坂田ってばいつもいつも変な課題ばかり出すんだから。こないだだって」
翠は笑みを浮かべながらさりげなく麻美の袖を引いた。話すのに夢中になっていた麻美は、もう少しで昇降口の入り口に身体をぶつけるところだった。
「あぶなっ」
運動部らしい敏捷度で避けると、麻美は翠を見て苦笑した。
「まったく。話しているとすぐ周りが見えなくなっちゃうんだから。だめねぇ」
まるで自分のことではないような麻美の言い方に思わず苦笑しながら翠は自分の下駄箱へと手を伸ばす。錆びついた鉄製の下駄箱は、昔はついていただろう蓋がところどころなくなっていて、靴が覗いている。出席番号順に決められる下駄箱の場所は、いつだって生徒たちの苦情の的だ。
翠の下駄箱には運よく蓋がついている。麻美の下駄箱には蓋がついていない。おかげで高い靴をはいてこれないと、麻美は二年に進級したその日から翠に愚痴をこぼしていた。
「まったく。これだから、こんな安物スニーカーしか履いてこれないのよ」
口癖となっている言葉とともに溜息をつく麻美に、翠はいつものように苦笑した。錆びた音をあけて開いた下駄箱の中には、持ち主に大事にされていることがよく分かる上履きが顔を覗かす。翠達の学年色は黄色なので、上履きのつま先は黄色に染められている。手を伸ばした先で翠は上履きとは違う感触に触れた。驚きを言葉に出来ないままにその感触をつまむ。
「あら? それもしかしてぇ」
横で『LOVE ME』と落書きされた上履きを履いた麻美が意味ありげに微笑む。その口が何を言いたいのかは開く前から翠は分かっていた。よく分からないという顔でその四角形の白い封筒を鞄の中にしまう。
「ラブレターでしょ? ねぇ、今時下駄箱に入れるなんて、すごくない?」
後ろで騒ぐ麻美の言葉を聞こえない振りして背中を向け、まっすぐに翠は教室へと向かう。体の底から始まったドラムの音が徐々に膨れ上がってくるのを指先で抑えるようにそっと、胸元に手を置いた。
(私の声が聞こえますか)
そっと肩にかけられた鞄の上にもう片手が乗せられる。手のひらで感じるのは鞄の布地だけ。それでもその中にある四角いものへ語りかけるよう、翠は小さく口を開く。
(私の声が聞こえますか)
麻美が後ろで何か言った。翠はもう聞いていなかった。
5
声がいつ出なくなったのか、翠はよく覚えていない。半年ほど前の、まだ寒くなり始めたばかりのことだったことだけは覚えている。それが何が原因だったのか、一体どうやったら声が元に戻るのかさっぱり分からない。両親に連れて行かれた病院もニ、三ではなかったように思うし、その種類もさまざまだったけれど、どの医者も一体なぜ声が出なくなったのかをはっきりと説明できなかった覚えがある。
『おそらく、精神的なものでしょう』
何人かのお医者さんが自信なさそうに告げたことはみな同じだったと翠は思う。
声をなくしてから翠はよく窓際に座った。学校でも、家でも、窓際に座っていつまでも飽きないで外を見ていた。
(私の声が聞こえますか)
窓際に座るたび声にならない言葉を心の中で唱え続ける。
(誰か私をここから連れて行って)
何度も心の中で願う言葉が、一体いつからなのか翠には分からない。ただ、切実な言葉の割には心の中で、あまりその意味を考えてみたことはなかった。無意識な願いなのかもしれないと翠は時々考えては、その可笑しさに苦笑する。
願いをかけるには空はあまりにも遠く見えた。
6
教室に着いた翠は窓際の自分の席に座った。「ねぇ翠ぃ」と、声をかけようとした麻美はすぐに違う友人につかまったのか、教室からは姿を消してしまった。翠はただ一人で窓の外を眺めた。
窓からは翠が今歩いてきた校門までの道が一望できる。疲れたように俯いて歩いてくる生徒や、喋りながら楽しそうに歩いてくる女の子たちに目をくれながら、自然、翠の顔には笑顔が浮かんでいた。
ふと教室前にかけられた時計を見る。八時十分。予鈴がなるまではあと二十分ある。そっとそのまま周りを見渡した。何人かの女子たちがドアの近くで集まっておしゃべりし合っている。教室の後ろの方は首をよっぽど回さないと見えないけれど、掃除用具入れの近くの席で、黙って本を読んでいる男子がいる。翠は彼の名前を思い出そうとしたけれど出来なかった。教室の真ん中では男子が数人集まって、昨日のドラマの話をしている。誰一人翠の視線に気づかない。誰一人翠のほうを見ようとしない。安心してほっと息をついた。
鞄を机の上に載せる。ゆっくりと鞄から教科書と一緒に四角い封筒を取り出した。そのまま教科書は机の中に、ノートも一緒にしまって、目の前に封筒だけを残す。
風が窓を小さく揺らす。一瞬風で飛ばされてしまうような気がして封筒を軽くつまんだ。窓を開けていないことを思い出して苦笑する。自分の行動がまるで普段と違っている気がしておかしい。
翠は封筒をじっくりと見た。真っ白な封筒の真ん中は何の印もついていない。何の飾り気もない手紙は手の中にはおさまりきれないけれど、何か秘密めいていて不思議な気がした。軽く引っ張ってみて、それが手紙だと確かめるようにひっくり返してみた。封筒の合わせ目が角の方ではなくなっていて丁度中を覗けるような小さな通り道が出来ている。小指だって通らないその隙間から封筒を開けるんだということは分かっていても、封筒を切るということ自体が何か恐いような気がして一瞬翠は躊躇した。わざとその隙間を避けて合わせ目の先端からゆっくりと封筒ののりをはがしていく。
少しも封筒を破ることなく糊は剥がれた。
封筒の中には大学ノートの切れ端に綴ったような小さな紙が入っていた。指をこっそり入れてその紙をつまんだとき、ふと花をくすぐる匂いがあった。
森を感じた。
一瞬思考の中に生まれたのは、広場。遠い空から聞こえてくる鳥たちの目覚まし。ゆっくりと流れていく雲。突然始まる夕立。砂。血。小さい丘の――
頭の奥で虫の羽音が聞こえた気がした。
慌てて翠は封筒を閉じた。綺麗に折られた紙はもう翠の手の中にある。それよりも、一瞬感じた香りを逃したくなかった。封筒を綺麗に閉じてから手の中の紙を思い出したように見つめる。もう、さっきまで心を揺らしていた気持ちは、封筒の中の匂いほど紙には感じなかった。
細長い指が器用に四つ折りの紙を開いていく。中には細く小さい字が、真ん中にまとまって並んでいた。
瀬野翠様
忘れ物をお届けします。
この香りがどこのものかわかりますか?
待ち人
首をかしげながら、翠はもう一度封筒を開いた。鼻腔をかすかに通り抜ける香り。頭の中に浮かんだのは、始め匂いを感じたときに覚えたものと同じ。
忘れ物という言葉に記憶を探ろうとしても、翠の中に浮かんでくるものは無かった。ただ、目を閉じればまぶたの裏に浮かび上がってきそうなほどに、森のイメージは広く、強い。
翠の口が手紙を読むかのように動く。けっして声は口から出なくても、読むことで何かを思い出せそうな気がした。
森に行けばいい。
頭の中に小さな痛みと共に浮かんだ答えを翠は気に入った。指先で軽くこめかみを抑えながら手紙を鞄へとしまう。
チャイムの音が響き渡った。いつのまにか予鈴が学校中の生徒の耳へと、今日の始まりを知らし始める。翠は鳴り響く鐘の音を遠くに聞きながら窓の外をただ眺めた。
(聞こえますか……待ち人さん)
心の中で呟く声に付け足された手紙の主はなぜか懐かしい感じがした。
(私はここにいます)
ざわめきが徐々に大きくなる教室の中で、翠はただ外を見つめ続ける。青い空は雲ひとつ浮かべることなく大地を包んでいる。
続く
いつ書いた作品だろう…… そんな物を引っぱり出して、構成し直して載せてみました。 少女が主人公です。 毎日を何とも無しに生きている少女。 ただし、声が出ないまま。 誰ともしゃべれなくても、今の日本は生きていけるでしょう。 なぜなら誰も会話を望んでないのだから。 「いや、話している」と言う人はいるでしょう。 でも、それは心からの会話でしょうか? 言うべき事を心の中に押し込めた、ただの言葉。ではないでしょうか? 会話を封じ込まれた少女は、ただ考えます。 そして、忘れ物を取りに行きます。 何気なく生きていたはずの日常が、 ゆっくりとほころんでくるのを気づかないまま。 また、続きを載っけたときに読んでいただければ幸いです。 |