アーティフィカル・ミルククラウン

その2



 授業に身がまったく入らないことなど久しぶりのことだった。
 翠が話せないことを知っている教師たちは誰も翠を指すことは無い。それをいいことに、翠はノートを取るフリをしながらずっと、時計が早く進むことを祈っていた。休み時間になると必ず手紙に触れ、まだそれが自分の手の中にあることを確かめた。まるで、少しでも目を離したらどこかに行ってしまうかのように。これまで感じたことが無いほどに、胸を様々な想いがよぎっていった。

 だから終業のチャイムが鳴り響いたとき、翠はあまりにほっとして、すべてが夢じゃないのかと思った。手に触れる手紙の存在感も、自分がそう思っているだけで、実は自分はまだ布団の中に寝ているんじゃないかという不安。顔をしかめたままで教科書を鞄に恐る恐る閉まっていく。

「みーどり、帰ろっ?」

 突然麻美の顔が翠をのぞきこんだ。慌てて教科書を全部しまい、手紙をその間に挟みいれる。人付き合いのよい笑みを浮かべながらその動作を眺めている麻美の瞳が何を追っているのかは、確かめなくても容易に予想できた。

「ね、ね。手紙、誰からだったの? 教えてよ〜」

 耳元で麻美がささやく。苦笑いを顔中に浮かべて、翠は麻美を引き連れるように昇降口へと歩く。肩にかけた鞄の横を、軽く麻美の手が掴んでいる。油断すれば今にも手紙を取り出しそうなほどに、その顔は興味心で溢れている。弱りきった表情を浮かべて翠は首をふる。

「えー、内緒なのぉ」

 不満そうに眉をひそめると、麻美は鞄をぐるぐると回した。

「なんでよぉ。教えてくれたっていいじゃーん。あたしと翠の仲でしょぉ」

 奇妙なほどに猫なで声になる麻美に、相変わらず笑みを浮かべながら翠はさっさと靴へと履き替えた。

「あ、まってよぉー」

 慌てて靴を履き替えようとする笑みを残して、一人走り出す。
心臓の音が高鳴るのは走っているせいか、それとも鞄の中の手紙のせいか。どっちの疑問にも答えられないままに、正門を一気に走りぬける。

「もぉ、明日絶対教えてよ〜」

 麻美のいらだったような不満そうな声が背中にかかっても、その足は少しも弱まらなかった。
 忘れ物。
 翠の胸の中に広がっていく手紙の中の文字。
 待ち人。
 知るはずも無い人に、心の響きが温かくなる。断続的にこぼれる息とは別に、心臓はいつだって同じリズムで、まるで翠の背中を押し続けるように小気味よくなり続ける。
(聞こえますか)
 軽く額を拭った。しっとりとするワイシャツを気にもせずに、翠は森の匂いの中へと走っていった。





 声を聞いた気がして翠は振り返った。途端前髪が目に掛かるのをうっとうしげに振り払う。振り払った手を、そのままポケットへと入れる。
 視線の先には誰もいない。静かに翠は歩き出した。





 翠の中で、森と言うイメージから連想するのは学校と、翠の家との間にある私道から外れた場所だけだった。この森に名前は無い。少なくても、翠は名前があるとは今まで考えたことは無かった。

 古臭い木々の臭いと共に、鳥の鳴き声、虫の音が辺りを埋め尽くしている。一歩足を進めるごとに、足の裏に落ち葉の腐食した感触を覚える。まるで、それは丹念に鞣された皮の絨毯のように柔らかく、しっとりとしている。翠は本物の絨毯になど触れたことは無かったが。
森の中に入ったとたんに、翠は外では味わうことの出来ない喜びと、驚きに包まれた。学校の中や、砂利道では感じることの出来ない音楽。膝にあたるくらいの草のダンス。木々から漏れて差し込むスポット。知らずに、そのすべてを抱こうとするように両手を広げていた。

(聞こえますか)

 外では瞳を貫く光も、ここでは優しく翠の身体を照らすのみ。誰に問うわけでもなく、翠は歩を進めながらも心の中で呼びかける。

(私は、ここにいます)

 思いながら、深く息を吸い込んだ。湿った臭い。古ぼけた香りと共に一緒に鼻腔をくすぐるすがすがしさ。光を受けて長い間溜め込まれていた緑の香り。自分と同じ音を持つ葉の色を、翠はいとおしむように丹念に触れる。しかし、その形のいい眉がすっと曇った。

(違う)

 胸の中に溜め込まれた香りは、言葉に出来ないほど素晴らしいものなのに。

(違う)

 同時に強く思う違和感。肩にかけてあった鞄から、封筒を取り出す。そのまま、封筒を小さく開けて、中の匂いをかいだ。

 森。

 頭の中に浮かんでくるイメージは、明らかに木々が覆い茂った場所。翠がよく知っていると思う場所。それでも。

(違う)

 胸の中から黒い塊が徐々に大きくなっていくような気がした。不安。絶え間なくなり続ける鼓動が、やけに早くなる。

 自分はこの香りを知っている。

 自分はこの場所を知っている。

 だけど、ここは、ここじゃない。

(なぜ)

 森の中を翠は一心に見回す。何も変わりは無い。木々はただ静かに緑を見下ろしている。鳥は立ち入った人間を気にすることなくそれぞれの生活の歌を奏でる。そして虫は。
 すべてが無表情に進行している森の中で、翠は一人、驚きで顔を歪ませ森すべてを見渡そうと、目は辺りを凝視する。足は、そんな身体を支えきれずにふらつく。
相手を亡くしたオシドリは決して相手を離れずに逝く。

(何?)

 頭の中に浮かんだ一つのイメージ。一連の絵が、映像とも呼べないゆっくりとした流れで頭の中を飛んでいく。相手を亡くしたオシドリは(これは何?)決して相手を離れずに(なんなの?)逝く。
 あまりにも禍々しい映像が頭の中にフラッシュをたかれたかのように燃え上がった。
 痛みをこらえるように、翠は顔をゆがめた。
 頭を抱えて、言葉にならない声は、ただ喉から息を吐き出させる。悲鳴にもならず、ただ音にもならずに外に漏れた大量の息。苦しくなって、慌てて吸い込んだ途端に、肺を満たす森の香り。(でもこれは違う)

 分からずにうずくまる。音が耳を圧する。鳥が。虫が。木々の刃が揺れる音が。刃となった音は、声の無いものを、音の力で押しつぶす。うずくまったままで、落ち葉の中に翠は埋もれる。押しつぶされて、胎児のように土の中に飲み込まれる。咀嚼され、単純な分子となって分子は単なる原子となって、いつしか森の一部となる。そして――

「瀬野さん?」

 声。耳の中を蠢いていた多くの音たちが一瞬のうちに溶解する。
 思考がすべて失われる。

(……誰?)

 俯いていた翠の頬からは、知らないうちに溢れているものがあった。目の端が熱くて、視界がぼやける。

「大丈夫、瀬野さん?」

 顔をぼやけさせたままで、同じ学校の制服がこちらを見ていた。男ものの制服。それが、彼だということがうっすらと分かる。短めの髪を掻きながら、近づいてくる姿。だんだんと合っていく焦点の中で脳裏に浮かんだ像を、しかし翠は誰だと名づけることは出来ない。
 ただぼんやりと見つめる翠を、彼は困ったような表情で見ていた。


10


 冷たい落ち葉の感触に気づいて、翠はゆっくりと身体を上げた。スカートが少し湿っている。落ち葉がお尻の周りについているのを、ゆっくりと取っていく。 
自分を見つめる視線を意識しながらも、その視線の主を見る勇気を持てない。彼がゆっくりと口を開いた。

「こんなところでうずくまっているから、何か起こったのかと思って心配しちゃったよ」

 そのまま、彼が一体どうしてここにいるのかが早口で吐き出される。学校帰りにたまたま翠を見つけたこと。その様子がいつもと違うようだったので思わず跡をつけたこと。なんでもないようだったから帰ろうと思っていたら、いきなりうずくまったので心配で声をかけたこと。

「……べつに、僕が何できるってわけじゃあないんだけどさ。もしよかったら、何があったのか話してよ。僕でも何かの役に立つかもしれないし」

 彼はそう言って言葉を締めくくった。彼の口から聞こえる声に、翠の胸は一つの連想をした。森。けれど、彼が一体誰なのか、やはり脳はそのイメージを作らない。

 彼はそれきり喋らない。

 森の中で生まれる音はわずかだけれど翠を再び圧する。立っている両足が踏みつけている落ち葉の音でさえも、彼の声より翠の耳に重たくのしかかる。重さに耐えるように数歩よろけて、ようやく翠は立ち上がった。そのまま意識することなく、身体は彼に背を向ける。
 外は夕暮れ。赤くなった光の矢が、木々から漏れて土へと刺さる。その一つに瞳を射られながら、なおも翠は彼に背を向け続けようとした。
 彼は喋らない。時折流れる風が木の葉を揺らす。乾いた落ち葉が回りながら翠の足を乗り越えていった。

 沈黙。
 音は限りなく耳を貫くのに、確かな物が足りないような気がする喪失感。耐えられなくて、翠は振り向く。
 そこには誰もいなかった。
 目の前の光景が信じられなくって周りを見渡す。徐々に冷たくなっていく空気が翠を包み込む。音が圧する。下界は見えない。彼はいない。

(聞こえますか)

 胸のうちで思った言葉に、翠の頬は再び濡れた。

(私はここにいます)

 言葉にならない悲痛な叫び。答える者はいない。
 嘲るようにふくろうが鳴き始めた。


11


 翠は彼に気づかない。だから彼は笑みを浮かべて翠へと近づいていく。口を横に結んだままの翠の目はじっと目の前を凝視している。
「始まりだ」
 彼が言った。ゆっくりと翠は振り返った。


12


「あら、どうしたの、その格好!」
 母親の慌てめく声に、反応する気力も無く、自分の部屋と翠は向かう。
「部屋に入る前に、まずお風呂に入っちゃいなさいよ」

 母親の不満げな声がうるさい。考えることを放棄して、翠は言葉に従った。
 湯船の中、手をさするたびに暖かさを感じる。ガスで温められた風呂の温度は少し熱いくらい。けれども冷え切った翠の身体を徐々にほぐしてくれる。
 どうやって家に着いたのか翠はもう覚えていなかった。両手で身体をさすりながら、翠はぼんやりと浴室の壁を見る。白いタイル。かけられているものは何もないその場所に、翠は姿を浮かべる。森の中であった彼を。

『瀬野さん?』

(彼は私を知っていた)

 それは確かな答え。理由はわからない。けれど感じる。自分も彼を知っている。

(でも、知らない)

 相反する二つの答えに、頭の中がぐるぐると回っていくような気になる。そして森の中で浮かんだイメージ。イメージというよりも、ひとつの物語のよう。
 相手を亡くしたオシドリは決して相手を離れずに逝く。翼を横たえた二羽の姿は、どこか不吉な匂いがした。
「のぼせないうちに出なさいよ」
 母親の声をどこか遠くに聞いて、ようやく翠は考えることを中断した。火照りすぎた身体は、ほんのりと薄紅色に染まっている。
 一体自分がどれほど風呂に入っていたのかは、母親の苛立った声を聞いても分からなかった。


13


 朝。昨日までとはまるで違う一日を生きているような気がしながら、翠はゆっくりと布団から身体を起こした。閉じたカーテンから漏れている光に目を細めながら、思い切ってカーテンを開く。
途端に、さわやかな朝の光が翠の身体を包み込む。空の果てまで見通せそうな晴天。しかし、心の中は昨日から悪雲が立ち込めている。
 いくつもの謎が絡み合って、一つの答えも出てこない。見つけようと躍起になるたびに、時間と断絶されたような乖離感が翠を襲う。
事実、昨日一体自分がどうやって夜の食事をとり、いつの間に寝巻きに着替え、そして制服を布団の隅に綺麗に畳んだ後、何時頃に寝たのか。翠にはさっぱり分かっていない。

 時計は七時を指していた。

 とにかく、今確かなことは一つ。

(私は、知らなくちゃいけない)

 何をかも分からない。耳を圧する音たちのように、多く限りない謎にも見える扉を、一つ一つ開き続ける。

(聞こえますか)

 空を見ながら、多くの謎へ向かって挑むよう翠は問う。その顔には決意。

(私は、ここにいます)

 小さくお腹が鳴った。

続く

途中がき2
その2です。
あからさまに、正直に告白して、
これって
スティーブン・キンブに傾倒しているとき(今もだけど)に
書いた物なんですよ。
なんだか、冷静に自分が書いたものを見るときは、
台本よりも小説の方が痛ましく思われますよね?

読んでいただき、ありがとうございました。
気がついたら、また続きが乗ります……