アーティフィカル・ミルククラウン
その3
14
学校へ行く道をいつもよりも少し遅めに歩きながら、翠は自分を追い越す生徒たちの顔をさりげなく眺めていた。昨日森の中で自分に声をかけていた人がいるかもしれない。そんなかすかな予感。しかし、胸の中でもう一人の自分がそんな行為をあざ笑っているような気がする。すべては無駄なのだと。
結局、学校に着いても昨日の彼を見つけることは出来なかった。覗いた自分の下駄箱の中に手紙は無い。さりげなく見た麻美の下駄箱には、もう麻美の愚痴ネタであるスニーカーが入っている。思っていた以上に、今日はのんびりだったことに気づく。
「おっはよう! みーどっり。今日はゆっくりなのね?」
教室を開けた途端に、麻美が気づいて駆け寄ってきた。しかし、翠はとっさに笑みを浮かべることを忘れていた。
そこに、彼がいた。
彼はただ教室の真ん中よりも少し窓側に静かに座っていた。開けっ放しの窓から時折細く流れ込む風に、短い髪が凪ぐ。押さえつけるよう手を髪にやる以外は、一心に本を読んでいるように見える。彼の席は翠の席の斜め後ろだった。
「どうしたの?」
麻美の言葉に首を振るのを忘れるほど、翠は混乱していた。知らないはずがないと自分を責める声の裏から知っているはずがないと自分の悲鳴が繰り返し飛ぶ。
幽鬼のように、翠は自分の席まで歩いていった。心配そうに麻美がニ、三声をかけ、反応がないのにあきらめたのか背を向けたが、そんなことにさえ気づいていない。
彼は翠の近づくのに気づいて本から顔をあげた。カバーを掛けられた文庫は古めかしい色をしていた。
(あなたは誰?)
彼を見ずに翠は聞く。彼が何か言ったような気がした。思わず彼を見る。
本を両手に持って、彼の目はずっと読み続けていたかのように文庫から離れてはいなかった。
胸から持ち上がってきた溜息を、胸に手を置くことで抑え付ける。鞄から席に倒れこむようにいつもの自分の椅子に座る。窓を開ける。流れ込んでくる風を、今日は少しも気持ちいいとは思わない。
(私の声が聞こえますか)
今日、初めて翠は自分の『言葉』を、彼だけに送った。
(私はここにいます)
声にならないけれど、もし口からこぼれていたならば、ガラス同士がぶつかるような悲鳴に聞こえたかもしれない。悲痛な声。
けれど彼は返事を返さない。
勉強など、手につくはずがなかった。
15
授業が終わるチャイム。何度となく聞いた音を、今日は音の一部始終を頭の中で思い描いてしまうほどに翠は待ち焦がれた。鳴ったような気がして顔をあげたのも一度や二度ではなかった。教師の言葉は耳から耳に通り抜けていった。白紙のノートには、いつのまにか文字の羅列が増えていた。
彼。
相手を亡くしたオシドリは決して相手を離れずに逝く。
森。
匂い。
知っている?
知らない?
私?
(私?)
最後に書いた言葉に胸が今までとは違う音を出した。恐る恐るペン先を見ても、勝手に動いていったりはしない。翠は最後の言葉をしばらくじっと見詰めていた。
肩に無造作に手が置かれた。
体中が燃えてしまったかのように瞬間熱くなって、翠は一瞬呼吸を忘れた。おびえた表情がその顔に浮かぶ。ゆっくりと目が肩を叩いた相手へと動く。
肩を叩いたのは麻美だった。上昇した温度が一気に元の熱に戻るひょうしに、気力まで気化してしまったようで指からペンが零れ落ちる。
「どうしたの? カエルが蛇にあったような顔をして」
言いながら眉を上下にわざとらしく動かす麻美のしぐさに、思わず翠は苦笑していた。その隙にとばかりに麻美の顔がノートを覗き込む。慌てて両手で隠しても、そのときにはひょうきんな表情は消え、いたずら好きの悪がきのような笑みが、麻美の顔中に広がっている。
「なによ、翠『彼』って! 誰かいい人でも出来たの?」
一瞬何を言われたのか分からなくって翠は何もアクションを返せずに麻美を見た。麻美は、それを肯定の意と取ったのか、妙に嬉しそうに翠の肩を叩いてくる。
「やったじゃん! ほらねぇ喋れなくなったからって、翠は可愛いんだから、好かれないわけないんだよ。応援するからね!」
翠が慌てるほどの大声でまくし立ててから、ほんの少しだけボリュームを落として
「そのかわり、ちゃんと逐一報告してね」
と、だけ言うと、台風は何事もなかったかのように離れた。
上機嫌のうわさの風は、止めるまもなく教室中に広がっている。帰宅途中だった男子や、何人かの女子が自分を見ていることに気づいて、翠は俯いたまま慌ててノートや筆記用具を鞄に詰め込んだ。耳が熱くなって、頬の辺りが妙にほてるのをどうしても抑えられない。
ドアの辺りで響いた笑い声が自分の事を言っているような気がして、泣きたくなる。立ち上がって誰にも頭も下げずに教室から出ると、そのまま翠は一目散に学校から飛び出していった。普段は白い肌をほてらせたまま。波打つ心臓を鞄越しに押さえつけて。
16
また、森に来た。
緑に包まれた森はいつまでも涼しげで少し肌寒くさえある。腐っていく枯葉の匂いにまじって木々から漂う新緑の香。鳥は癒しの歌を奏でる。
しかし翠の足は重い。
周りから降る音に負けそうになる。鼻をつく香りが強すぎてむず痒くなってしまう。
体中にしみこんでいくほどの匂いの中には、手紙の中にあった香りはなかった。それでも、一歩、また一歩と盛りの中を進んで言ってしまう自分に驚く。
(聞こえますか)
時々左右を確認しながら獣道に過ぎない細い道を翠はただひたすら歩き続ける。砂利をける音と一緒に革靴から冷たさがしみこんでくるような気がする。
露にぬれたままの葉が時折制服に触れるのにも我慢する。目に写るのは、自分と同じ名をもつ色。隙間からこぼれる光は街灯のように翠が進む道を照らしている。
(聞こえますか)
誰にともなく翠は心のうちで言葉を発し続けた。それは自分の記憶に語りかけるように細く弱い。何度か声に出そうと開いた口は、結局一言も言葉を紡げずに閉じてしまっていた。
音が迫る。
負けないように時折翠は口から息を吐いた。熱い吐息のような一塊がそのまま森の空気の中に溶けていく。音に圧せられて歩くたびに翠の身体は小さくなる。そして思う。
(私はこの道を知っている)
砂利の音を翠は覚えていた。赤土の感触を。葉が手に触れる冷たさを。鳥の声を。そして、溢れ返るほどの木の香りの香り。すべてが翠に向かって押し寄せながら翠の身体を満たしていく。
(知っている)
そう、心の一部が思っても、なおも知らないとさらなる心の一部が叫ぶ。こんな道は知らない。こんな感触は知らない。こんな声は知らない。こんな匂いは。
混乱に翠は耐えられず早足になる。行けば分かるのだろうすべては。そんな理由もつけられない確信を胸に、しっかり留めたまま、翠は歩く。ただ前だけを見て。森はどこまでも続いているような気がした。
18
いつまでも続く道なんて無い。そう翠は思いながらも、自分の考えがまるであっていないような気がした。事実、道は続いている。あの日からずっと。
(あの日……)
自分の考えを頭を振ることによって振り払う。まるで同じ道を歩いているような気がして何度も振り返りながら、翠は歩く。
それはもう道ではない気がした。
19
どれほど歩いただろう。まだ三十分くらいしか歩いていないような気もするし、すでに地球の半分は歩き尽くしたような気もして、翠は腕時計を軽く覗いた。アナログ時計の針は五時を少し過ぎていることだけを簡潔に知らせた。秒針の先端が指している場所は森の薄暗さのためにじっと見なければわからない。翠は気にすることをあきらめて前を見た。
光。
瞬間。森に飲み込まれていた感覚に光が突然大量に差し込んだ。血の色をした赤い光。夕日。一瞬、自分が何を考えていたのか分からないほどに眩しさで目を開けていられなくなる。瞼を閉じた途端に体中を襲う光の音。けれど光に音がないことくらい緑には分かっている。光が奏でているように感じてしまうのは、あまりにも鳥の声が騒がしいから。木々の揺らぎが激しいから。風のうなりが、木のほらを通るたびに立てる物々しさが耳を突くから。反射的に翠は両手で耳を閉じた。手に下げていた鞄が肩に掛かる圧力を感じながら一歩二歩と前へと進む。
冷たい風が這い上がる。
翠はその冷たさに目を開けた。
(え?)
目を開けたと同時に鼻腔をついた香り。その匂いと目の前の風景に、翠は数秒思うことすら止めてしまっていた。
森の中にぽっかりと空いてしまった口。歯を無くした老木の孔。土くれや倒れた木々、腐り落ちた大木によって、太陽の光はその場を完全に赤く占めていた。照らされた土には雑草もまばらにしか生えていない。少し視線を遠くに運べば、澄んだ水が張った池に光が跳ねている。
(広場?)
動き始めた思考によって導き出された言葉を、翠は頭の中で何度か繰り返してみた。広い場所。広場。けれど人の姿はなく、動物の姿もない。人工的な様子は一つもないのに、なぜか不自然さを感じさせる空間。夕日の光が満たしていることも、翠には不満だった。
その赤は、なぜか血の色を連想させる。そして香り。
この場所の匂いが手紙の中の匂いであることはもはや間違いがなかった。頭の中で何かの組み合わせが正常に合わせられたカチリという音が聞こえてくるかと思うほどに決まりきった答え。それでも鞄の中から封筒を恭しく取り出すと、翠は封筒の中の匂いをかいだ。思わずニコリと笑おうとして、ただ片方の頬を持ち上げただけで翠は固まった。
音が聞こえた。
砂利をける音。草に触れる手を乱暴に振る音。明らかな足音。
気のせいかとも思おうとしたがこれまでに何度も自分が歩いてくる音に圧せられていた後では、気のせいだとは思えなかった。むしろそう思おうとするうちに、足音はどんどん近づいてくる。
心の中をざわざわというごわついた音と一緒に灰色が占めていく。翠は匂いを忘れた。森の中の香りはどこか遠くの出来事となり、目と耳だけが集中する。足音は近づいてくる。確実に。鼓動が早まっていくことを翠は止めることが出来ない。早くなっていく雷鳴のような心臓の悲鳴に指先がしびれる。鞄を持っていられなくなって肩にかけようとしたその手を鞄は無造作に滑り落ちた。土への落下音がやけにはっきりと聞こえて、今まで背筋が曲がっていたかのように翠は背をピンと伸ばした。そして気づく。音が止んでいることを。
一体いつ聞こえなくなったのかわからずに、翠は鞄をじっと凝視することしか出来なかった。幻聴を鞄の落下音が壊したのだという幻想が一番に浮かんできた。確かにそれは魅惑的な考えだった。安心感で胸をなでおろしそうになるほどの甘い夢。
けれど、音は聞こえ出した。
荒い息遣い。一瞬翠は自分がその呼吸をしているのではないかと口元に手をやった。いつもどおりの静かな呼吸しか手の先には感じない。激しすぎるほどなり続ける鼓動に頭に霧が掛かったような気持ちになる。
荒い息は徐々に収まっているようだった。振り向けないまま、鞄に目を落として翠は自分の胸を抑えた。鼓動は収まりはしない。それどころか激しさは徐々に強くなっているような気さえする。霞みかかった思考がパニックへと一歩筒いじり酔っていくのが分かった。けれど今パニックを起こすわけにはいかないこともよく分かっていた。
息遣いが聞こえなくなる。それは、つまり。
「……瀬野さん」
声はやけに静かに広場の中に溶けていった。耳の中へと流れ込んできた言葉に翠の心臓がぎゅっと音を出して握りこまれる。耳元で爆発するように響いた鼓動と共に、体中に小さい震えが集まった。
(彼、だ)
もう翠の目は鞄を見てはいなかった。ゆっくりではあるがその足が動く。
(もし、彼を私が知っているなら……)
昨日感じた衝撃と、今日感じた違和感との関係をなるべく冷静に繋ぎとめようとする。
(彼は、彼だ)
ノートの中に書き連ねた言葉。森、匂い、そして彼。
ゆっくりと翠は振り向いた。感じることもなかったほどのすがすがしい風が右脇から通り抜けていく。鼓動が徐々にではなるがゆっくりになっていくのを感じた。
彼はそこに立っていた。教室の中に座っていたときに本を呼んでいたときのように口を横に結んで。翠をただまっすぐと見ていた。翠はその目をただ見つめ返す。すこしもひるんだ様子を見せずに彼は翠に向かって口を開く。
「瀬野さん、やっぱりここにいたんだね」
(聞こえますか)
彼をまっすぐに見ながら翠は問い掛ける。
(あなたは誰?)
彼の中にいくら答えを見つけようとその瞳を見つめても、その瞳の中には何も移っていなかった。目の前にいる翠さえも写ってないように見える黒い瞳。
「昨日から何か背野さんの様子がおかしいから……もしかしたら思い出したんじゃないかって、僕、気になってたんだよ」
彼はゆっくりと笑みを浮かべた。その笑みを翠は可愛らしいと思いながらも、張り付いたような口の開き方に、足が不自然に一歩後ろへと下がる。彼の名を思い出せないままに、ただ、彼を知っていることだけは疑いもなく信じることが出来た。けれど、今彼へと感じている漠然とした感情が一体どういう形になっていくのか、かつてはどんな形だったのか、まったくわからない。
「でも、もしかしたら、思い出したんじゃなくって、忘れていなかっただけなのかもしれないね。忘れていたフリをしていただけ。ねぇ、瀬野さん。そういう可能性だってあるもんね」
彼は笑みを浮かべたままに一歩翠があけた距離を埋めた。翠の足が一歩また後ろに下がる。彼は、何も言わずに、笑みを浮かべたまま、さらに一歩翠へと近づく。
相手を亡くしたオシドリは決して相手を離れずに逝く。
閃光のような思考は翠に痛みのような疼きを覚えさせた。一言一言が強烈に脳裏を走り抜けていくのを、翠は漠然としてではなく確かに感じることが出来た。今、彼との前にあるあらゆる漠然としたものの中で唯一確かな言葉。相手を亡くしたオシドリは決して、ただ意味はわからないままに、相手を離れずに逝く。
言葉だけがうねりとなって感情を包み込む。
「……どうしたの瀬野さん?」
彼の言葉はとても温かかった。けれど、翠は背中を冷たいナイフでゆっくりと撫でられていくのを感じた。歯先を背中に押し付けたままに背の下から這い上がってくるような寒さ。横に少しでもずれれば、すぐにでも生暖かい血がその冷たさを濡らすだろうということが分かるほど。また一歩翠の足が後ろへと下がった。いや、今度は二歩。その足が、柔らかい感触を覚える。
「瀬野さん?」
彼の声を遠くに聞きながら自然に翠の顔は足元を見ていた。赤土が妙に新しい土跡がそこにあった。見れば他の土よりもどこか盛り上がっている。真っ赤な土の小山。見れば、広場にはそのような小山が転々としている。そのどの山も、真新しい赤土が頂上にあり、その山は赤く夕日に重ね塗りされている。
相手を亡くしたオシドリは決して相手を離れずに逝く。
小山の大きさは、丁度小動物の遺骸が収まるほど。そして、声は休むことなく頭の中で繰り返される。
(まさか、これは)
ぶれそうになる視界を必死に押し留めて、翠は彼を見る。彼は笑っている。屈託なく。その左手はパーの形に広げられたまま空をひらひらと動いている。まるで踊りを踊っているかのように優雅に。けれど右手は。右手はいつのまにか背中に隠されていた。軽やかに動く左手とは違って、右手はじっと彼の背中でとどまったまま。そして彼はゆっくりと近づいてくる。
「瀬野さん。もしかして、本当に思い出しちゃったのかな?」
ニコニコと笑うその目が笑っていないことに翠は気づく。初めからその目の中にある感情を翠は知っていたことを思い出した。自分の感情を抑えられない苛立ち。憎悪。二つの瞳は翠をじっと睨んでいる。右手がゆっくりと持ち上がる。あの時のように。
(あの時?)
靄が頭の中に膨れ上がってきて気持ち悪さに翠はよろめいた。地面に手をつくことだけはしたくなくて鞄に伸ばそうとしても、鞄は今はもう彼のすぐ傍にある。声に出せない悲鳴が口から漏れる。翠の視線に気づいたのか彼は泳がしていた左手でゆっくりと鞄を指した。
「鞄をお探しですか? ほら、ここにありますよお嬢様」
その声がおどけている割に瞳からは憎しみの色は消えていない。溢れ出してくる感情を必死に押さえつけながらも、なおも体からにじみ出てくる黒い奔流。そのことを翠は知っていた。けれど、それは。
(誰に聞いたの? 私は一体誰に聞いたの? 彼の瞳が憎しみに溢れていることを)
いつもの夕日の道を歩きながら。
(私は一体誰と一緒に帰りながら、この場所を知ったの?)
その誰かは思い出すことが出来なかった。痛み続ける頭を抑えながら、翠は思った。
(もしかしたら、初めから『誰か』なんていなかったのかもしれない)
頭の中に鳥の声が溢れかえる。忘れていたはずの音の圧迫を受けて、翠は声帯にしびれるような痛みを覚えた。もし声がいま出るのならきっとそれは悲鳴。おぼろげに感じる。
(私は死ぬ)
彼はゆっくりと右手を持ち上げた。
右手に握られているのは拳銃なのだろうと翠は痛みに震えながら思う。黒光りした禍々しい狂気に日の光は赤い血の縁取りを与える。その反射した輝きに目を刺されながら、やがてやってくる鈍い音と、あふれ出る硝煙と、腹部へと感じる痛み。一瞬の間に頭の中をめぐりまわった思考に、翠は酔った。泥酔に近い瞬間の幻。
けれど、彼の手にあったのは拳銃ではなかった。
彼は、何も手に持っていない。広げられた手の平は日の光を受けてオレンジ色に染まっている。
口をあけたまま、出もしない声を使って翠は何かを言いそうになった。息だけがかさついた音を喉から出す。
「どうしたの? 瀬野さん。何か手から出てくると思った?」
そのまま肩を軽く上げると、彼は可笑しそうに笑った。耳をかき混ぜていく音と思考の靄に綯い交ぜになったまま、翠はただそんな彼を眺めていた。手を動かすことも、目をそらすことさえ忘れてぼんやりと。まるで夢をずっと見ていたせいで、いまだ現実なのか夢の中なのかわからないでいるかのように。彼はそんな翠を見て笑い続ける。目だけは笑っていないまま。
「ごめんね瀬野さん。瀬野さんって、脅かしがいがあるから。悪気はないんだ」
作られた台詞のように口から出る言葉。聞きながら翠は彼から目をはずせずに、どうにか頭の中をかき回す音を収めようと、やっとのことで頭を手で抑えた。ひんやりとした手の冷たさ。ジンジンと熱をもったこめかみから、頭の中を散々かき回した雲が手の中へ吸い込まれていく。
それと共に、彼を見つめていた目が、彼の様子を脳に伝え始める。可笑しそうに笑い続ける彼。けれどその耳は、一場面をどうにか通過したとでも言うように赤く染まっていた。そして彼の目はやっぱり笑っていない。その目の中に含まれる感情もなんら変わっていない。ただ、彼の右手が殻であることだけは嫌というほどわかった。
(ごめん、もう帰るから)
声を出さないまま、口と表情でそれだけを彼に伝えると、鞄にまっすぐ翠は手を伸ばした。
(だめ。絶対に彼は私を掴む)
瞳の奥にはさっきまで空を泳いでいた左手の姿が焼きついていた。それでも、彼の手は動かない。鞄をしっかりと握ってもまだ、翠の頭の中では胸倉を捕まれる自分の姿があった。
(それとも、これも私が忘れているだけなの?)
考えようとするたびに、音の波が示し合わせたように頭の中に戻ってくる。まとわりつく虫を払うように手を一回頭の傍で回して、ただ翠は走った。
彼は追っては来なかった。
「それじゃあ、ね。瀬野さん。また明日」
言葉だけは親しみの篭った声が背中へと届く。翠は振り返る気はなかった。鞄をぎゅっと抱きしめたまますぐにでも森を出ようという気持ちで一杯だった。
(私はここを知っている)
その事実を今更否定するつもりはもうない。
(けれど私はここを知らない)
今翠の頭の中には二つの事実がある。互いにあざ笑って邪魔してくる二つの事実。
(私はどうしたの? 私はどうすればいいの? 私は)
走るたびに揺れる胸を鞄で押さえ、脱げそうになる革靴を土の中に残したくなくて指先に力を入れながら、翠は必死に前を見て思った。
(私は私を知らなくちゃいけない)
初めて翠は声をなくした自分を悔しく思った。声を失った原因がこの森に、彼に、そしてあの言葉にあるような気がしてそこから逃げるように足が早くなる。息切れと共に襲ってくるお腹の痛みを必死にこらえ、歪む瞳から抑え切れなかった感情が雫となって流れ落ちる。
(私は、私を知りたい)
声を出そうと翠は深く息を吸った。途端に苦しくなって息の塊がいくつモノ断片になり外へと飛び出す。『あ』という一言でさえ、今の翠はどうやって出せばいいのか分からなかった。
20
家に帰った翠は、声を失ってから初めて親の顔を見ずに部屋へと戻った。娘が声を失ったことを心配する母親は帰宅した時は必ず何か声をかけずに入られなくなる。けれど、今は母親の言葉に対して作りものの笑顔でさえ見せられるとは思わなかった。
「どうしたの? 翠、何かあったの?」
後ろから聞こえた母親の声に翠は首を振ることで答えただけだった。それきりで会話を打ち切って続く母親の言葉「疲れているでしょう? 早めにお風呂入っちゃいなさい」には何の反応もせずに部屋へと入り、ドアを閉める。ドアが閉まる聞き慣れた音に、やっと体中の力が抜けていくのを感じた。
翠が考えていた以上に、身体は疲れていた。森を抜け出してからも延々と走り続けたせいで、頭の中ではまだ時間がはっきりしていない。まだ意識の半分は森の中にいるような気さえする。それでも熱をともす両足を揉んでいるうちに、家にいるのだという実感が胸の中に膨らんで来た。足先はしびれたように小刻みに震えている。制服であることも気にせずにベットへと倒れこんだ。うつぶせのまま顔だけをあげて窓の外を見る。
(聞こえますか)
誰へともなく問い掛けるその声にならない言葉と友に溢れたのは森の中でも流れた涙。
(私はここにいます)
つかれきった体が欲求する睡眠へと意識が流れながらも翠の言葉は止まらなかった。窓の外を眺めたまま歪む景色へと呼びかける。
(だから助けて)
最後の言葉を投げかけたと思った瞬間に、翠は闇の中、今は何よりも自分が大切とする眠りへと吸い込まれていった。
窓の外ではもう日は沈み、月が闇の中に浮かんでいる。月は一人の少女の涙など知りもしないで地を見つめ続けていた。
21
「無理だよ。もう、無理だ」
彼は言う。
翠は答えられずに首を振る。
「だって、もう限界じゃないか」
哀れむように言う彼の声に、翠は答えられずじっと空間を凝視する。彼は静かに溜息をついた。その目はじっと翠を心配するように見つめている。
そんな事実を翠は知らない。
つづく
いい加減終わると思っていた方すいません。 あと一回だけ続きます。 たまにシリアスを書きたいと思うと、 とんでもない方向に行ってしまうと言うのが よく出ていますね(汗) |