アーティフィカル・ミルククラウン
その4

22

 翠は走っていた。周りは闇。まとわりつくほどの暗闇に、ただ両手を必死に振っていた。

「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ」

 息遣いは翠のものではない。翠は息をしていなかった。ぎゅっと閉じた口元から排気はこぼれない。後ろから乱れた呼吸と供に何かが近づいてくる。

「見ただろう?」

 声は翠の背中を突き刺して胸の間から飛び出した。声に貫かれても、翠は足を止めない。乱れた呼吸から逃れたくて走り続ける。
 今抱いている感情が恐怖なのか、怒りなのかも、翠には分からなかった。
 闇を必死に手で拭う。拭った跡にもまだ闇がある。
 いつのまにか両手は黒く陰っていた。足元は闇に飲み込まれて見ることは出来ない、粘ついた感触がだんだんと足を走らせにくくする。

「見ただろう?」

 声が届く。すぐ耳元でささやかれたような気さえした。肩先を風が通り抜けていく。
 振り向けなくて翠はただ両手を振って闇をのける。
 闇は重い。のしかかって翠が前に進もうとするのを邪魔をしてくる。
 そのうちに、翠は自分が走っていないことに気づいた。ただ闇の中で無駄に両手を振っているだけの自分に。足はまとわりついた闇のせいで動こうともしない。息遣いが後ろから迫ってくる。

「なぁ、見たんだろう?」
『相手を亡くしたオシドリは決して相手を離れずに逝く。んだ』

 叫ぶような声とともに親しげに響く声。その二つはまったく同じようで異なっていた。

(誰? 誰?誰なの!?)

 手をばたつかせながら少しでも前へと進もうとした。まとわりついてくる闇の中から必死に片足を引き剥がそうと右足に力をこめた。と、肩に手の感触を感じた。

「もう、終わりだ」

 闇の中で翠は悲鳴をあげた。


 次に気がついたとき、翠は足を布団に絡ませながら、両手で自分の体を抱きしめていた。限界までに開ききった口からは、涎の糸が垂れてはいても、声は一言も漏れていなかった。
 ゆっくりと周りを見渡しても、そこは翠の部屋以外のどこでもなかった。窓からは少し薄暗いものの光が延びている。
 ぼんやりとした頭を振りながら、翠は自分の肩を恐る恐る撫でた。生々しい感触はもう肩には残っていなかった。

(……夢?)

 今ここにいる自分は安全なのだと思ったうちから嫌な汗がわきだしてくる。

(私はもたないのかもしれない)

 昨日森の中で誓いのように繰り返した言葉
(私は私を知りたい)
を思い返しながら、翠は不安を振り払えずに布団を抱きしめたまましばらく時を過ごした。
(私はどうしたらいいの?)
 暗がりの中で問い掛けた言葉を幾度となく反芻する。誰かにすがりつきたいと、心が悲鳴を上げるのを抑え付ける。

(誰か)

 頭の中に浮かんだ人物はたった一人。けれど、彼女の明るく健康的な笑顔を思い出して、翠はおきてから初めて笑みを浮かべることができた。
 学校に行く前に、翠はスケッチブックを取り出した。その顔には不安の色はまだ残って入るもの、決意の色が見える。右手に持ったサインペンを握る爪先はやけに白かった。


23


 学校へは今日はいつもの時間に登校した。だから校門を通り過ぎるところで、背中から声が届いたとしても、翠は少しも気にしなかった。

「み〜ど〜り〜」

 元気一杯のその声に、翠は正直ほっとした。振り返った先で当たり前のように麻美が笑って手を振っている。手を振り返しながら、スケッチブックをもつもう片手の指先に、自然と力が篭る。

(おはよう)

 出てこない言葉の代わりに口を動かして翠は笑みを返す。走ってきた麻美は翠の横につくと荒くなった息を抑えるように片手で胸を抑えた。

「いやぁ。なんかまだまだ涼しいと思ってたんだけどさ。走るとやっぱりあっついねぇ」

 疲れ知らず野笑みを見せるその顔にはうっすらと汗がにじんでいる。頷きを返しながら、翠は自分は朝を楽しむこととも忘れていたことに気づいた。この二日あまりのうちにいつも続いていたはずの日常はことごとく崩れ去っている。

(でも、それは本当に本当?)

 これまでの日々が日常ではなかったことはありえないだろうか? そう頭の中に浮かんできた言葉を首を振ることで振り払う。

「どうしたの?」

 麻美の怪訝な声に我に帰る。慌てて笑みを浮かべると、スケッチブックを開いた。

『おはよう』

 スケッチブックの一番初めに書かれている言葉に、麻美は目を見張った。しかし、その驚きを見せる表情はすぐに破顔する。

「うわっなにそれ!? 声が出ない代わり? 面白い!」

 上機嫌な声に、翠は無理もなく笑うことが出来た。心の中にあった靄が腫れていくような気持ちになる。暗かった気持ちが霧散した。けれど、その気分が逆に次のページをめくることを躊躇させる。

「ねえねぇ、他はどんな言葉があるの?」

 麻美の声に救われた気がして、翠はそのまま笑顔でいることが出来た。その笑みが弱々しいものに少し変わったとしても、表情に不安はない。
 ゆっくりとその手がページをめくる。

『私、何で声をなくしたんだろう?』

 麻美の表情が曇るのが分かった。その顔にもう一度いつもの笑みが浮かぶかと翠は麻美を見つめた。けれど、浮かんできたのは明るい笑みではなく、慎重で警戒するような顔。

「翠、思い出したの?」

 頭の中が焼け付くような痛みを訴えた。翠はなにも言えないままに首を振った。ページをめくる。

『教えて』

 三文字の言葉をじっと見詰めたままに麻美は何の反応もしなくなった。まるでロボットが機能停止をしてしまったかのように。呼吸すら感じられないような気がして、翠は一瞬、これはすべて夢なのではないかと感じた。握ったままのスケッチブックをもう一度強く握る。爪が柔らかい紙質に軽く食い込む。

 麻美は喋らない。

 見ていられなくなって、翠は空を見上げた。空にはゆっくりと流れる雲がある。不安定な形が形をゆっくりと変えながら流れている。
 けれど、翠は風を感じない。降りてくる視線が、やがて校舎へと吸い込まれていく生徒たちを捕らえた。どの顔も前を向きながら歩いている。おしゃべりをするもの、無言のもの、あくせくとしているもの、ゆっくりと歩くもの。その顔の中に翠は何一つ見覚えはない。
 不安になって校舎についた時計を見れば、時間はすでに予鈴がなる時刻になるところだった。
 麻美の沈黙は長くはなかった。

「いいの?」

 問い掛けるように言った言葉に、翠は漠然と気づく。
(麻美はすべてを知っている)
 そのときに、同時に浮かんだ考えは、体中を一瞬で冷えさせた。毎日のように続いている生活の中で(私は)心の中で常に誰かに話し掛けながら(いつも)学校へとゆっくり歩いては帰る日々を過ごしている日常の中で

(麻美以外と話をしたことがあった?)

 気づかずに過ごしていた非日常の発見。その非日常は、あまりにも違和感がありすぎた。翠は軽く痛みを訴える頭を抑えながら、視線を泳がせる。
 クラスにいる生徒の名前を思い出すことは出来なかった。

「翠?」

 麻美の声がすぐ近くで響く。見れば、その顔には不安げな色が浮かんでいる。

「いいの?」

 繰り返される質問。
体中がしびれてしまったような感覚を覚えながら、ゆっくりと翠は頷いた。
 空中に響き渡るようにチャイムが鳴り響く。高い音階のリズムはやけに翠にとっては遠く聞こえた。


24


 人気のまったくない廊下を麻美はただ無言で歩いていく。翠はその後から遅れないようについていくのがやっとだった。教室からは生徒の声が聞こえてこない。どの教室にも、まるで生徒など初めから存在いていなかったかのような沈黙。どれか一つでも覗いてみたくなる好奇心を、どうにか翠は押さえ込んだ。覗いた瞬間、その教室の中に日常が広がっていたのなら、心は耐えられなくなって壊れてしまう気がした。

(私は……私は)

 心の中で繰り返す言葉に答えは返ってこない。
気がつくと麻美はもう止まっていた。その背にぶつかりそうになって、慌てて翠も歩を止めた。スケッチブックを落としそうになる。

「私は、初めから反対だったの」

 麻美がポツリと漏らす。その言葉が何を意味しているのかわからなくて翠はただ首をかしげることしか出来なかった。いつのまにか廊下の突き当りに二人はいた。立ち止まった麻美の背中は細かく震えている。一体その震えがいつから始まったのか、翠は思い出すことができなかった。
 麻美がゆっくりと振り返る。その目が少し赤くなっている。頬の辺りに拭い損なった後が見えた。気づかないフリをしながら翠はスケッチブックを開く。鞄の中からサインペンを取り出してゆっくりと文字を書いた。

『どういうこと?』

 書いた言葉を見せられた麻美が一つ頷く。何かを悩んでいるようにその表情には落ち着きがない。

「ごめんね。どこから話していいのか分からない」

 言いながら麻美は首を振った。その顔がやけに大人びて見えて、翠は一瞬目の前にいるのが、自分と同い年の少女ではないような気がした。

(まさか。だったら何?)

 自分の考えを笑い飛ばそうとして、出来ずにただ翠は麻美の次の言葉を待った。

「あなたはね」

 やっと決心がついたように麻美は言った。その顔に浮かんでいる表情が、悲しみなのか、哀れみなのか、またはその両方なのか、翠には分からない。ただ、見間違いでもなく麻美は同い年の少女には見えないことだけは分かった。

(あなたは誰?)

 心の中で問い掛ける言葉はけっして麻美に届かない。麻美だった女は一度唇を湿らせた後、残りの言葉を押し出すように吐き出した。


「あなたは翠じゃないの」


 廊下に言葉は響き渡った。苦痛を感じさせることもなく、言葉はあくまで言葉のまま。けれど。

(私は――)

 後の言葉を聞くまでもなく、翠は瞬間闇が降りてきたことに気づいた。頭の中でいくつ物音が爆ぜたような気がして二三歩よろける。ゆっくりと翠は廊下に膝をついた。

「ごめんなさいね」

 麻美の言葉に年寄りじみた響きが加わる。その後の言葉を聞くこともなく、翠は廊下に倒れた。

 最後に耳の中に聞こえた音は、虫の羽音。

 ブーーーン。ブーーーーン。ブーーー……

 翠の目は見開かれたまま、その口が異様なまでに開かれた。

 けれど声は。

 一つも口から漏れることがなかった。


25


 闇の中で翠は生まれる前に聞いた声を思い出した。……ような気がした。

『だからね。相手を亡くしたオシドリは決して相手を離れずに逝く。んだ。これで証明されただろう?』

 上気した頬のままで言ったのは彼。
 目の前には、翠がいる。
 その光景が一体いつのものなのかは翠には分からない。ただ、これから自分が言う言葉は知っていた。

『その実験のために、一体いくつもの命を無駄にしたの?』

 自分の声をはじめて聞いたような気がして、翠は口元に手をやりたかったが出来なかった。まるで記憶の中の一場面が単純に進行しているよう。自分と彼が向きあっているのを、離れた場所で見ているような感覚の中、翠は言葉を続ける。

『オシドリ以外にも、命を奪ったんでしょう?』

 彼の顔に朱が走る。右手に持つのは拳銃ではなくボウガン。そして彼の傍らにはいくつもの――

『さぁ。もう数えられないよ』

 彼は笑う。まったく屈託のない笑みに、翠は嫌悪に似た恐怖感を感じた気がした。
それでも、翠は口を開く。

『私は……』

 けれど、言葉はもう口から出てこなかった。
 絶望の中で翠は闇に飲まれる。
 胸一杯にまで染み渡っていく暗闇に手足は囚われ、沈みこんでいく体。弱々しく響く虫の羽音。

(私は――)


26



「……もういいですか?」

 麻美の言葉に、翠はゆっくりと溜息をついた。分かりきっていた言葉を目にしたかのように、首を横に振りながら姿を見せる。
麻美の目の前には、かつて翠であったものがいまだ動かずに崩れたまま。

(『混乱』か……)

 思いを言葉に出さぬよう、翠は喉を抑える。

「やっぱり、だめだったね」

 気がつくと後ろに彼が立っていた。屈託のない笑みを浮かべているが、どこかその笑みを浮かべることに疲れているようにさえ見える。その手は両方ともポケットの中にしまわれている。

「ただ、これはちょっとやりすぎだったという気がしないでもないけどね」

 言いながら近寄ってきた彼は、倒れている翠だったものの鞄へと手を伸ばした。そのまま、彼は開けられた鞄の中にある四角い封筒を、何の感慨も浮かんでいない表情のまま取り出す。翠もまた表情をうかがわせない顔のままその動作を見下ろしていた。麻美はそんな二人をただ静かに見ている。
 翠のかつて制服だった服装は、教師のような白衣へと変わっている。翠は自分の喉にそっと触れた。 成熟しきった女の声が言う。

「お疲れ様、アサミ。先に戻って作業に移って頂戴」
「はい」

 硬い声で一つ返事をすると、麻美は最後に倒れている少女を一瞥した。そのことがまるで不幸の始まりであるかのように首を強く振ると、翠達に背を向けて走り出す。響く足音に、翠は眉をひそめた。遠ざかっていく背中を眺めて彼は言う。

「あいつ、次は自分の番かも、くらいに思ってるかもよ」
「思いたいなら、思っていればいいわ」

 冷たく言葉を返した翠は、肩をすくめる彼を気にすることなく、少女を見下ろす。

「もうすこし、耐えられると思ったのだけれどね」

 呟いた言葉には、言った本人でさえその言葉を信じていないような響きがあった。
 ピピピと、彼の頭が小さく鳴る。わざとおどけた顔を見せるかのように、彼はひょうきんに肩を上げた。

「そう? いくらなんでもプログラム量が極端に少なかったんじゃないかな? もし彼女がメモリーをもっと検索していたのなら、自我の崩壊はもっと早かったはずだよ」

 そのまま彼は手紙を握りつぶす。折り目一つなく鞄の中にしまわれていた四角い封筒が、ありきたりな音を一つ出して紙屑になる。

「いいのよ。そのための実験だったんだから」

 言いながらも、その言葉に力はない。まるで、自分自身に言い聞かすためにいうような、独白に近い言い方に、彼の頭はまたピピピと鳴る。

「自我の崩壊ねぇ。研究され尽くしているとは思うけどね」

 そのままニヤリと笑う彼がどこまで知っているのかを聞く気は翠にはなかった。

(ただ)

 彼には悟られぬよう心の中で呟く。

(私は耐えられたわ。少なくても、あなたが言う状況には)

 なかった物は友情に、手紙。けれど、その二つが重要なものだとは、翠は思わない。
 言葉を声に出さぬよう慎重に胸に仕舞うと、翠はゆっくりと膝を曲げた。白衣から覗く両手には、張りがない。そのまま、伸ばされた両手は倒れている少女の頭に触れた。静かな動作がいくつか続く。と、触れていた眉間のが突如として開いた。灰色のディスクがまるで脳髄が伸び出したかのように、翠の手の中に落ちる。それを無造作に翠は白衣のポケットへと落とすと、振り切るように少女へ背を向け、立ち上がった。

「さぁ、解析に入りましょう」
「冷たいねぇ」

 言いながらも彼は翠に逆らうことはない。翠の目が冷たく彼を睨みつけたからだ。

「わざわざ混乱を早めるような演出をしてくれた誰かさんに言われたくはないわね」

 彼は肩をすくめただけで答えなかった。
 翠はそんな彼を小ばかにするように一つ鼻を鳴らすと、抜け殻のように倒れたままの少女を置いて歩き出す。

「これ、どうするのさ?」

 彼が指差すものに、振り返りもせずに答える。

「回収班には後で連絡すればいいわ。それよりも早く今回の実験の結果を見たい」

 なるほどねと一つ頷いてから、彼は慌てて翠の跡を追った。早足で歩く翠に追いつくと、怪訝な顔で翠を見上げる。

「前から聞きたかったんだけど……なんで、自分と同じ名前を付けたんだ?」

 ピクリと翠の眉が動いた。顔は前を向いたままで、できるだけ無表情を装った顔から言葉がこぼれる。

「自分と同じ名前のほうが、罪悪感は少ないからよ」
「……なるほどね」

 ピピピと電子音が聞こえて、彼が一体自分の顔から何を読み取ったのかを翠は知った。何か言おうとする前に、彼の方が先に口を開く。

「だから、僕はいつまでたっても『彼』のままなのか。あんたのだんなの名前でもつければいいのにな」

(もしあなたに名前を付けるとするなら)

 翠は、自らの機械が作り出した独創的な言葉に答えない。ふと心の中にわいてくる彼への苛立ちに、そっと唇を噛む。

(その時は、私が彼に言うべき言葉を見つけたとき)

 その喉には、選んだ思考を言葉として外へ発するための機械が今なお、禍々しい兵器のように取り付けられている。

『相手を亡くしたオシドリは決して相手を離れずに逝く。んだ』

 そう言って笑った彼がその後どうなったのか、翠は知らない。けれど、なくなった言葉の代わりに得た知識は、年を経て、彼と過ごす環境を与えた。決して年を経ぬ存在の彼と。

(だから私は知らなくちゃいけない)
「私は、なんて言えばよかったのかを」

 戒めのように口に出した言葉に、彼はただ肩をすくめただけだった。電子音を鳴らす頭が一体なにを考えているのか、プログラムした翠にも分からない。ただ、自分を見つめる瞳がいつのまにか優しいものに変わっていることに、やはり彼とは違うのだと確認する。

(聞こえますか?)

 いるはずのない彼。出会うはずのない暗い記憶に翠は声をかける。

(私はここにいます。だから……)



 綿密に作られていたセットは、二人が歩くに連れて崩れるようになくなっていった。
 白い空間の中に、少女の体が一つ、鞄とスケッチブックと一緒になって眠っている。
やがてまた始まる<日常>を待ち望んでいるかのように、両手は組み合わされたままだった。



あとがき
ここまで読んでくださった方。本当にありがとうございます。
そして、「なんだこりゃ」と思った方。ごめんなさい。

このお話は、
「あんたが疑問に思っていること、それってそんな大したこと? 
 だってあんたがリアルかも分からないのに」
なんてふざけた考えから生まれたものです。

自分の疑問の、その根底には必ず「自分は自分である」と言う前提があって、だからこそ疑問や悩みは生まれるわけですが、あざ笑うようにその根底が取り除かれるって事もないわけじゃないよ。
ってなことに怖さを感じていただければ幸いです。

最後までありがとうございました。