流れ雲

 何気なく振った足が、小石を蹴飛ばす。アスファルトの地面を二三度はねて、小石はその動きを止める。もう一度蹴飛ばせば、また小石はその位置を変えるだろう。しかし、早苗にはそれをする気はなかった。蹴飛ばすままに動く小石が――まるで言いなりになる人間のよう――いつも回りに流される自分を見ているようでいやだった。

『早苗ってさ、むかつくよねぇ』
『いっつもいい子ぶってるもんね』
『調子いいよねぇ』

 帰ろうとクラスを出るその背に、聞こえよがしに響いた言葉。帰り道ずっと、それは錨となって心の動きをつかんで放さない。

 自分ばかりが嫌われる。嫌われないように、人とあわせているのに。風に飛ばされるままの雲が、何故自分を運ぶ風に文句を言われなければならないのか、早苗にはそれがわからなかった。

「なんか、疲れちゃったな」

そう一人呟く。足は、勝手にいつもの場所へと向かっていた。むしゃくしゃした気分の時、空が闇に覆われるまでいつもいる、あの場所へ。

 川べりには、犬を連れた主婦家業のおばさんたちや、ただ座って川を見ている老人しか見つけることができない。普通の学生ならば、こんな湿っぽい場所にはこないのだろう。だから、早苗はこの場所が好きでいられる。特に、今から向かうその場所。川を横断する、高架線の下。そこには、誰が置いたのか分からない、でも座りやすい小さな石が一つ置いてあって、早苗はそこに腰かけては、高架線の高さと、川の流れを交互に見るのだった。

「……あれ?」

 少し急ぎ足だった歩みが止まる。早苗の指定席であるはずの石の上に、見たことのある制服が座っていた。近寄ればすぐに、それが自分の学校の制服、それも男子のものだということがわかる。

「なんで?」

 早苗は、自分が疑問を口に出していることに気づかなかった。その声に座っていた人物が振り向くまでは。そして、早苗は今度こそ、自分で自覚して声を出した。

「佐藤君」

 自分のクラスの中では、一番身だしなみのチェックが甘いのではと思いたくなるほど、まとまっていない髪。少しずれかかったメガネが、日の光をまともに反射する。いつもクラスの隅にいて、いつのまにかいなくなる。そんな、興味対象ではないといってしまえばそれだけの、でも、不思議な人。早苗の中で、佐藤はそれだけの人でしかない。

 一、二秒レンズの奥で、佐藤の瞳が細まる。そして、右端にほくろのある口を、興味なさそうに開いた。

「吉野さんか」

 そのまま、ぽりぽりと髪を掻くしぐさは、あまりにも意外そうで、早苗は少しむっとした。自分が、まるでここにいてはいけないように佐藤が思っているような気がしたからだ。

「佐藤君、何でこんな所にいるの?」

 露骨に疑問が口から飛び出す。佐藤は、一瞬考えるように頭を掻く手を止めた後、すっとまた目を細めて早苗を見た。そして、

「吉野さんこそ、何でこんな所にいるんだい? ずいぶんいらついているようだけどさ」

 にやっと口の端に笑みを浮かべて言う。

「いらついてなんて……」
「ま、そんなことどうでもいいか。別に、ここに誰がきたって、そんなの自由だからね」

 否定しようとしたその口は、佐藤の言葉によってさえぎられた。そのあっけらかんとした言い方に、佐藤に対してむっとした自分が恥ずかしくなる。
 そう、ここは誰が来てもおかしくない場所。でも、早苗は、自分以外がここにいることに、不満を感じてしまう。それは、傲慢なのだろうか?

 そのままきびすを返すのもなんとなく不自然な気がして、早苗は佐藤の近く、少し草の生えているところにハンカチを敷いて腰をおろした。

「それで? 何で佐藤君はここにいるのよ。私は、この場所が好きだから、たまに来るんだけど」

 ふーんと、興味なさそうに佐藤が呟くのが分かった。ふいっと、早苗を見ていた目線が川に向く。

「僕は、なんとなくかな。好きとか、嫌いとか、そういう感情じゃないことは確かだよ。少し、静かな場所で考えたいこともあったし」

 静に流れる川のように感情を感じさせない口調。そのまま、話も続かず、仕方なく早苗も黙って川を見た。紅葉した葉が一枚、下流に流されていく。ふと上を見上げれば、高架線はいつもどおり、手の届かない場所にあり、その向こうには、日に焼けた赤い空が見える。

 サラサラ、サラサラ。
 サラサラ。サラサラ。

 皮と風の音楽に耳を傾けながらも、早苗は自分の隣にいる佐藤の存在を消すことはできなかった。『なんとなく』と答えたここへ来た理由そのものからして、気になってしまう。沈黙が、やけに不自然に感じる。

「ねえ」

 口を開いて、何か言おうと佐藤を見てから、早苗はその後の言葉が出なくなった。佐藤の目は、まっすぐと前を向いている。目は閉じてはいない。川も、空も見ないで、ただ、視線の先を特別なものなど何もない、川べりを見ている。

「なに?」

 たっぷり数秒も間を置いて、止まっていた佐藤の表情が動く。明らかに迷惑そうに、少し顔を動かしたその目が、早苗を見る。

「あの、もしかしてさ。佐藤君が座っている石って、佐藤君が置いたの?」
「そうだよ」

 そう言って、佐藤はすぐにまた、下の場所へと視線を泳がそうとする。すかさず早苗は言葉を続けた。

「よく、ここに来るんだ。座る石まで置いてさ」
「まあね」

 まるで興味のない返答に、早苗は何とか次の言葉を捜そうと、思考をめぐらせた。何故、こうまでして話さなくてはならないのか、自分でもわからないまま、

「ごめんね、私いつも知らずにそこに座ってた」

 手を合わせて陽気に謝罪の言葉を述べる。が、佐藤はただ興味なさそうに頷くだけだった。当たり前のように、

「別に、知ってたからいいよ」

 そう呟く。

「え?」

 早苗は、思わず佐藤の顔をまじまじと見た。

「なに?」
 初めて、佐藤の顔に興味なし以外の表情が浮かぶ。少し、おびえたような、それでいて恥ずかしそうな、照れた表情。一瞬クラスの男子みたいと思ってしまってから、早苗は心の中で苦笑した。なにをあたりまえのことを。その途端、忘れそうになっていた疑問がよみがえり、あわてて口を開く。

「知ってたってどういうこと? 私が、ここにいる時、佐藤君見てたの?」
「そうだよ」

「そうだよって……どこから?」

 早苗の言葉に、加藤はすっと指を川沿いの道へさした。そこからならば、ちょうど、二人の背中しか見えない。

「そんな、じゃ、じゃあ」

 早苗がこの場所に来るのは、大抵むしゃくしゃした時。ぼうっと川を見て、空を見て、それでいらいらしていた気分がなくなるまでそこにいることが多い。自分がぼうっとしている場面を見られていたのかと思うと、それだけで早苗はここから逃げ出したい気分にかられた。でも、今すぐにここを離れるのには、何かためらいを覚える。

「君ってさ、なんかいつも悩んだ顔してここに来るよね。怒ってはいるんだけど、心の中で悩んでいるような顔してさ。それで、この場所で川と空を見て、結局悩みは解決しないのに、怒りや、悩みを無理やり捨てて帰ってくでしょ?」

 佐藤の言葉に、早苗はギョッとしてその顔を見た。佐藤のほうは、川をむいたままで、いつものように興味なさそうな顔をしている。

「何で、そんなこと」

 『分かるの?』そう続けようとして、口をあわてて閉じる。認めたくない。自分の感情を人に知られぬなど。知られたくないからこそ、ここに来ているのだから。しかし、佐藤のほうは気にせずに、言葉を続ける。

「ここに座っててさ、誰かが来るなって、そう時々感じるんだよね。そういう感って今まで外れたことなくて、どいて、しばらくすると、いっつも誰かがここにすわりにくるんだ。その人がどくまで僕はさっき指した場所に立ってるんだけど……分かるんだよね、ここに座った人の気持ちがさ」

「それって、ここが佐藤君の席だからそう思うってこと?」
「いや、分からないよ。ここに座っていた人が帰ってから、僕はここに座るんだ。そうすると、分かるんだよ。思うんじゃなくて、感じるんだ。ここの空気の中で、誰が、何を思っていたのかがね」

 佐藤の顔は、冗談を言っているようには見えなかった。にこりと笑いもせず、目は早苗を見ずに、まっすぐ前を向いたまま。
 背筋に、冷たいものが走る。

「もしかして、冗談?」

 勤めて冷静に、早苗はそう聞いた。顔だけには笑みを浮かべて。でも、否定されるのが怖くて、その微笑みは顔に張り付いて引きつっている。

「まさか」

 佐藤の言葉は素っ気無かった。そう言った瞬間だけ、早苗の方を向いて、小さく笑う。それは、嘲りでも、哀れみの笑みでもなく、とても悲しいくらいの自嘲の微笑み。

「いろんな人がここには座るんだ」

 佐藤は言いながら両手を組んで、再び早苗から視線をはずし前を見た。つられるように、言葉も泣く視線の先を見る早苗の前で、小さく風が吹く。夕焼けに染まっていく川に、トンボが二匹連れ添って波を立てる。

「みんな、それぞれ悩みを持っていて、時々それを忘れたくなってここに座るんだよ。人は、それぞれ、自分だけの場所を持っていたいものだからね。そして、解決もされず、ただ残していってしまったものを、僕が吸い込んでいくんだ。この胸の中にね」

 佐藤の言葉はとても静で、空中を漂うと表現した方が適当なほど不鮮明だった。ある一種の波長のように、耳に響く。なぜか、声を聞いているだけで、早苗は悲しくなってくる。

「佐藤君は、何故、ここに座るの?」

 ぎゅっと、佐藤が組んでいた手に力をこめたのが分かった。それはあまりにも小さな反応であったのに、早苗は佐藤が震えたような気がした。何か、大きなものに対しての震え。恐怖。自嘲の微笑を浮かべていた佐藤の顔が、ふっと、泣きそうなほど、弱々しい表情に変わる。それでも、目元に微笑は残したままで、

「誰かが、悲しみを受け取らなくちゃいけないんだよ。じゃないと、この世の中は悲しいことでいっぱいになってしまうからね。君は、自分が置いていった悲しみが、空気に溶けてしまうとでも思っていたのかい? 何も無くならないんだよ。感情だって、思いだって。誰かが受け取らなくちゃいけないんだ。誰かがね」

 佐藤の話は、とても信じられるものではなかった。でも、早苗には、確かにここでなくなった、悲しみや、悔しさがあった。思わず、自身の体を抱きしめる。これ以上、自分から、思いが落ちてしまわぬように。

「佐藤君は、苦しくないの?」

 もし、話が事実だとするならば、目の前の人物は、多くの悲しみを拾ってきたはずだ。そして、多くの怒りと、多くの苦しみを。それだけを一身に背負うにしては、佐藤はあまりにも普通の青年に過ぎない気がした。心のどこかで納得しながらも、疑問は口をついで出る。

「佐藤君は苦しくないの?」

 佐藤は答えない。ただ、時が止まったように、その悲しい微笑みのままで、里美を見る。しかし、その目にうっすらと集まるものを、早苗は確かに見た。瞬間、佐藤は顔を強く振り、ニコリと、まるでなんでもないように笑みを見せた。

「どんな時だって、誰かの幸せは、誰かの不幸の上に成り立っているんだよ。『多くの人が喜ぶなら』と、苦しみに身を費やす人は、他人から見たら偽善者なのかもしれないけれど、そうでないと自身を保てない人だって、確かにいるんだ。悲しみが、そのまま不幸につながるなんて、苦しみが、そのまま悲観に変わるなんて、そんなの短絡すぎるよ。楽しんでなくちゃ生きている気がしないって言う人がいるのと同じように、苦しんでなくちゃ生きてると感じていられない人だっているんだよ」

 長い言葉。笑顔で続けたその言葉の中には、早苗には意味を理解できない部分もあった。でも、佐藤の考えに納得できない部分は確かにあって、だからまた疑問を呟く。

「辛くなくちゃ生きてる気がしない、なんて、すごく不幸なんじゃないの?」
「そうかな?」

 ふと、佐藤の目が早苗から、空へと移る。空は、ただ赤く染まるばかりで、だから早苗はそれが自分の質問から逃れているのだと思った。しかし、佐藤はそのまま手を目にかざし、遠くを見ながら口を開く。

「風に流されるままの雲に較べれば、僕はよっぽど幸福だと思うよ。少なくても、雲は自身の考えで、その動きを止められないからね」

 まだ夕方だと言うことを忘れるほどの喪失感を覚える。少し前まで、目の前の青年に感じていた哀れみは、一瞬にして泡のように消えていった。

 流される雲。それは、まるで自分の事のようではないか。他人の言葉のままに、自身を消して、結局、やりたいことの一つもできず、ついには人に嫌われる自分。

「吉野さんは、幸せなの?」

 追い討ちをかけるように、佐藤が言葉を吐く。佐藤の顔は、前と同じように空しか見ていなくて、口調もさっきと同じなはずなのに、なぜかいやみに感じる。何気ない言葉一つ一つが、ギラギラとやけに輝き、とがった針をつけていた。

 幸せ?

 頭の中で、言葉が回る。何気なく使う幸福と言う熟語の意味が、いつのまにか頭の辞書から欠落してしまっている。

「幸せなんて分からないわよ」

 結局、それしか言えない。空に向けていた佐藤の顔が、早苗を向く。夕日に真横から照らされたその顔は、少し高い鼻に影を作って、いつもは目立つほくろでさえも神秘的に覆ってしまう。

「僕にも、分からないよ」

 じっと佐藤を睨んでも、佐藤は何も言わずに、ただ笑みだけを向ける。
 居心地の悪さを感じる。早くここから逃げろ。そう、頭の中で警告を鳴らす声が聞こえる。ここにいては、飲み込まれてしまう。佐藤という存在に、自分の考えなど、簡単につぶされる。

 なぜか震えの止まらぬ膝を無理やり手で押さえつけて、早苗はいたって普通に、笑みまで浮かべて立ち上がった。

「私、そろそろ帰らなくちゃ」

 そのまま、逃げるように背を向ける。と、その背中に、静かな声がかかる。

「流されるままの雲には自由なんてない。でも、雲だって、空を覆う事だってできるし、恵みと、怒りをこめたあっ目を降らすことだってあるんだよ」

 幼子を諭すような響き。それが何をさしているのかを漠然と理解して、早苗は歩みを止める。小さく、後ろでため息が聞こえる。そして、パタパタと何かをはたく音。

「無理はいけない。無理だと思ったら、さっさとあきらめた方がいい。雲になんて、人間はなれないんだ。いや、なっちゃいけないんだ。地に足をつけ、どこにいくのかもわからす、絶えず目的を探して歩き回るのが、僕らには性にあっているんだから」

 否定。それは、自分の生き方の否定だった。早苗が生きてきたこの十何年間で、作り上げた性格への非難の言葉。

「なんでっ」

 気がついたときには、早苗はもう振り返っていた。握り締めたこぶしは不満の表れ。怒りをたたえた目は、目の前の、ポケットに手を突っ込んだ佐藤に向けられる。

「どうしてあなたにそんなこと言われなくちゃいけないの? 私のことなんでも知っていみたいな顔しないでよ。分かりもしないくせに。他人のくせに。どうしてほうっておいてくれないのよ」

 佐藤ははじめ驚いた顔をして、そして、涙目をたたえる早苗の前に、その顔を俯かせた。振り上げた足が、静に咲いていたコスモスの花たちを蹴り飛ばす。言いにくそうに、そのまま足を二、三度ぶらぶらさせて、でも、何かを決心したように顔をあげる。

「だって、君はずっと悲鳴を出しつづけていたじゃないか」

 早苗の目が見開かれる。口から飛び出しそうになる言葉をあわてて押さえつけて、そのせいで瞳に浮かびそうになる熱いものを、とっさに袖をぬぐうことで見せなくする。言いそうになったのは疑問の言葉。「何で?」と。止めたのは、言ってしまったら自分の心がわかってしまうから。佐藤はその様子を静かに見守って、また口を開く。

「悲しみを癒すのは、時間なんかじゃないよ、絶対にね。悔しく思ったり、怒ったり、人間らしい感情の全てを解決するには、人間に話さないとダメなんだよ。だから、君は悲鳴を出しつづけていたんじゃないか。『私はここにいる』『誰か助けて』って。それは空を飛行機が飛ぶたびに、川向こうを楽しそうに人々が歩くたびに、何度も、何度も。……この場所で」

 佐藤の指が、真下をさす。そこには、石がぽつんと置いてある。早苗ははっとして佐藤を見た。佐藤は言っていたではないか。全ての悲しみを、自分が受け取っているのだと。ここに、誰もが思いを残していくのだと。

「じゃあ、それじゃあ」

 自分の思いは、いつも届いていた。誰にも言えず、そっと自身の中で抱きつづけていたと思っていた全ての思いは、目の前にいる青年に、全て。

「僕は、君が辛くても君に変わることなんてできないし、所詮他人なんだって言われたら、そりゃそうだって頷くしかできないよ。でも、そんな事いったら、雲は、流されるままだよ。集まってきた多くの雲を、無条件に受け入れて、そして、雲は雨を降らすんだから。人だって、みんな同じだよ」

 佐藤の言葉に今度は、早苗は小さく頷いた。目の前で小さく佐藤は笑って、そして、そのまま歩き出す。早苗の横を、何の感傷も見せずに通り過ぎる。

「佐藤君?」

 振り返ってその背中を見る早苗に、佐藤は立ち止まりもせずに応えた。

「人は誰だって、逃げ場所を持っているんだよ。それを恥じちゃいけない。ただ、逃げてばかりじゃ何も生まれない。永遠に安息の場所が残っているなんて思わないで。……悲しみが脹れすぎたら、許容量を越した人間は、もう、その悲しみを受け取ることはできないかもしれないんだから」

 それは、早苗に言っているようで、自身に言い聞かせた言葉のようだった。

『許容量を超した人間は……』

 遠ざかっていく背中を、何も言えずに身を繰りながら、早苗は佐藤の言葉の意味を考え、そしてあわてて、声を張り上げた。

「佐藤君!」

 少し小さくなってしまった背中にあわてて駆け寄る。

「何?」

 なんでもないようないつもの声。でも、もうそれは、感情を押し殺して無理をする、悲鳴をあげたくてもあげられない声だと、早苗は気づいていた。

「佐藤君は、逃げ場所があるの?」

 振り返った佐藤の顔は、ひどく弱いガラスのようだった。潤んだ瞳で、無理に笑顔を作ろうとするから、その顔はひどく不恰好で、開こうとしても上手く形を作れない口で、もどかしそうに何かを呟いた。

「え?」

 聞き返す早苗の前で、佐藤はまた後ろを向く。少し丸まった背中が発する言葉を、早苗は知ることができない。

「ありがとう」

 ただ小さく呟いて、加藤はそのまま振り返らずに歩いていった。早苗は何も言えずに、ただその背を見送りつづけた。見えなくなるまで。加藤の負う悲しみを、少しでも自分が受け取れやしないかと、半ば祈る気持ちで。でも、加藤の背中はただ過ぎ去って、早苗には、夕闇の冷たい風がその体を通り過ぎていくだけだった

 そして、朝が来る。

「おはよう」

 教室に入った途端に、何人かがわざとらしく目をそむける。何人かは、愛想笑いとともにお返しの挨拶を返し、そして、残りは無関心に、自分達の世界を広げている。何も変わらない、いつもの日常。いや、たった一つ、早苗の中で変わったことがある。

「さてと」

 誰に言うともなしに小さく呟いて、早苗は席につく。かばんの中から取り出したのは、一冊の本。もう、他人に愛想を振り撒くことはしない。それが、早苗の答えだった。

 ちらりと見た視線の先で、数人が意外そうに自分を見ている。早苗の視線に気づくと、少し落ち着かずに目をそらすが、すぐに、数人が早苗の側に集まってきた。他人と言う仲間がいなければ、彼女らは自身を確立できないのだから。

「何読んでるの?」

 一人の言葉に、早苗はもう愛想笑いを浮かべたりはしない。ただ自分の心に正直に、本心から笑顔を浮かべる。

「推理小説。ほら、ちょうど読書の秋だし」
「へー。早苗って、そんなの読むんだ」

 意外そうに誰かが声をあげる。互いの事などまるで知らずに、仲間という居心地のよいぬるま湯の中に入っていた。その事実に彼女達は気づいただろうか? 早苗は心の中に疑問を浮かべながらも、今度は、自分から彼女達に接していこうと心に決めていた。

 もう、空を漂う雲にはならないように。雨とともに、地に落ちたのだと思えるように。
 女同士のたわいのない会話をしながら、その視線に先を、教室の墨で一人入る佐藤に送る。
 彼は、いつ救われるのだろう?

『許容量を越した人間は……』

 自分は、もうあの場所には行かない。いや、自分が、今度は悲しみを受け取ることにしよう。
偽善かもしれないけどと心の中で自嘲しながら。早苗は今日も始まる退屈な、それでいて平和な日常に感謝した。
空は、今日は雲一つない青空。少なくても、早苗の心の中では。

あとがき
この作品は、書いたのは随分前の事です。

ただ、

タイトルを変えたり、中身を少し変えたりして

いまだに変えつづけていたりします。

何が一番問題かって、

あまりにも理想的な話しすぎるのが一番痛い(苦笑)


苦しみを置いていく事がで切るなら

悲しみを置き忘れられるのなら、


人間はきっと、もっと楽に生きていけるでしょう。


最後まで読んでくれてありがとうございました