むかしむかしのお話です。
まだ、言葉が世界や人を変え、生き物さえも作り出すことができた。
そんなむかしのお話です。
ある国に一人のお父さんがいました。
もちろんお父さんにはひとり子供がいました。子供のいないお父さんなんて、お父さんじゃないですものね。
お父さんの子供は男の子でした。金色の髪の毛をくるくるとのばして、人のお話を聞くときにはいつもより多くまばたきをする、小さいけれど頭のいい男の子です。おなじ年の女の子たちよりもちょっとばかり大人びているようにすら見えました。本当ですよ? 本当のところ、男の子と同じくらいの年の他の男の子はまだ鼻をたらしたままにしていましたし、気になっても服のそでで拭くのがせいいっぱいでした。でも、金の髪の男の子はちゃんとハンカチを持っていましたし、そもそも鼻をたらすこともほとんどありませんでした。
男の子はお父さんを単に「お父さん」と読んでいました。お父さんは、男の子とを「坊や」と呼んでいました。男の子にとってはそれは普通のことでしたし、そもそも、お父さんをそれ以外の名前で呼ぶなんて、男の子には考えられないことでした。
男の子のお父さんは黒い髪の毛をしていました。
男の子はお母さん似なのだとよく言われました。そう言われても男の子にはその意味がよく分かりませんでしたし、特にきょうみはありませんでした。男の子は、人々が話しながらちらりとお父さんを見るのを不思議そうに見ているだけでした。そんなとき、お父さんの頭に生えている黒い髪の毛は、なぜだか天を向いてとがるように見えるのでした。角のように。
お父さんは人々が男の子のことを話すとき、いつも男の子のうなじを撫でるように大きな手を首すじに置いていました。それは、誰か見る人によっては、男の子が逃げださないように首筋を捕まえているように見えました。けれど、男の子にとってその大きな手は温かく気持ちがいいだけでした。男の子はお父さんをいつも眩しいものを見るように、また嬉しいものを見るように見ましたし、「なんでみんな僕にいないお母さんの話しをするの?」とお父さんを困らせることもありませんでした。
そう。おおむねお父さんと男の子は幸せに暮らしていました。お父さんは男の子のためにいつも料理を出してくれましたし、二人の隣に住んでいる知らない人のように、赤ら顔でドアを叩くようなことはしませんでした。いつもすすで汚れたような黒い髪をかきながら、笑顔で男の子の待つ家へと帰ってきただけでした。そして、お父さんは男の子にお話をしました。
そう。お話をしました。
薄暗い部屋の中は、男の子とお父さんが共同で使う洋服入れと、男の子の知らない女の人が写っている写真がある棚、そして男の子が今まで一度も聞いたことのないオルガン――その上にはごちゃごちゃと紙の束がいつか使われるのを待っているかのように埃まみれで置いてありました――そして、椅子が二つあるテーブル、少し広めのベッド、それだけでした。いえ、もう一つ。部屋の隅にいつも丸くなっているネコがいました。お父さんの髪の毛と同じくらい黒いネコ。男の子はこのネコに黒い色を意味する名前をつけていました。お父さんは単純にネコと読んでいました。
そう、そして男の子はいつもお父さんと一緒にベッドで寝ました。お父さんの腕を枕にして。お父さんのわきに鼻を押しつけるようにして。ネコの眠そうな鳴き声を聞きながら。そしてお父さんは男の子の頭を撫でるようにして、毎晩お話をしたのでした。
ある時はカエルと結婚させられたおひめさまの話でした。男の子は一体おひめさまはどうやってカエルが好きな食事を作ってあげるのかとドキドキしました。きれいな服を沼地で汚しながら、カエルの好きな食べ物をさがしているおひめさまの姿を思い浮かべたのです。でも、カエルはなぜかおしまいでは人間になってしまいました。男の子はがっかりしながら、でも、カエルだった人間はときどきくらいは、カエルだったときの食べ物がたべたくなるのじゃないかしらと考えました。そう、例えば新鮮な虫。特にハエ。そしておひめさまもいっしょに食べたのじゃないかしら。そう男の子は考えました。だって、カエルだった人はおひめさまの大事な人になったのだから。
「もしかしたらそうかもしれないね」
お父さんは優しく答えました。男の子は安心して眠りにつきました。
また、ある時はまま母にいじめられながらも、しまいには王子様と結婚した女の子の話でした。男の子は、きっと女の子は自分をいじめていたまま母やお姉さんたちをいじめるに違いないと思ってビクビクしました。だって、いつも「捨てられっ子」といじめられていた女の子が、「ようし」になったとたんに、今度はいじめていた子供達を逆にいじめているのを、男の子は見て知っていたからです。けれど、お話はそこでおしまい。女の子がお姉さん達をどうしたのかは、お父さんは語らぬままでした。きっと、女の子はお姉さんたちをいじめたにちがいないと男の子はあれこれ想像しました。
「もしかしたらそうかもしれないね」
お父さんは優しく答えました。男の子は安心して眠りにつきました。
お父さんは多くのお話を知っていました。国に伝わる昔話から、誰も知らない遠い国のお話。いつもお父さんはお話を男の子にしました。男の子はお父さんのお話が大好きでした。もちろん男の子は頭が良かったので時々、お父さんのお話の中に不思議なところを見つけました。でも、男の子は自分でその不思議なところを解決する事ができました。そして、お父さんはそのたびに「もしかしたらそうかもしれないね」と、優しく答えるのでした。
ある時、お父さんは男の子にお話をしました。うす暗い部屋の中で、ネコと呼ばれている丸い固まりが小さく泣きました。星の出ていない夜でした。二人の住む国は優しい風が部屋の中に入ってきていました。ベッドは二人の体重を支えて時々小さく咳払いをしました。けれど、ほかにはなにもお父さんのお話をじゃまするものはありませんでした。男の子はいつものようにお父さんの腕をまくらにしてお父さんのわきに鼻を押しつけていました。お父さんの大きな手が男の子の頭を優しく撫でます。金色の髪の毛も、黒い髪の毛も、うす暗い部屋の中ではどれも同じ色に見えました。
それは、七匹の子山羊を持つお母さん山羊のお話でした。お父さん山羊のことはお父さんの口から出てきませんでした。きっと、いないのだろうと男の子は思いました。
子山羊はお母さん山羊と一緒に住んでいました。
七匹ともそれぞれ名前がありました。男の子は一瞬それを羨ましいと思いました。
そして、お母さんがいなくなったうちに、狼がやってきて子山羊を食べてしまうのでした。
男の子はもし子山羊たちにお父さん山羊がいたらだれも食べられたりはしないのにと考えました。そして、お母さん山羊は悲しみのあまり死んでしまうに違いないと哀しくなりました。
ところが、お母さん山羊は子山羊を食べた狼を森の中で見つけたのでした。
お母さん山羊はハサミと糸を持っていました。お父さん山羊ならきっと拳銃を持っていたのにと男の子は思いました。
お母さん山羊は狼のお腹をハサミで切りました。
男の子は思わずその絵を想像して、ぎゅっと目をつぶりました。男の子はお父さんと魚を釣りに行って、その魚のお腹をお父さんが包丁で切るのを見たことがありました。魚のお腹の中には、なにかドロドロしたものが入っていました。
でも、狼のお腹の中には、元気な子山羊たちが入っていました。
男の子はびっくりしてお父さんを見ました。お父さんはお話を続けています。男の子はじっとお話に耳を傾けました。
お母さん山羊は子山羊を無事助けることができました。
そして、狼はお腹の中に石をたくさん入れられ、川に落ちて死にました。
「どうして!?」
男の子は思わず叫んでいました。
「なにがだい?」
お父さんが優しく聞きます。
「どうして山羊は狼を殺したの?」
だって、狼は子山羊を殺してなかったのに。
だって、子山羊は助かったのに。
だって、お父さん山羊がいたなら子山羊は狼なんて怖くなかったのに
「どうしてだろうね?」
お父さんが優しく聞きます。
男の子は考えました。
考えました。
ネコが眠そうに泣く声が聞こえました。
部屋の中は窓から入ってくる風の音がしました。
通りで誰かが何かをけ飛ばしたような男がしました。
瞼の裏になん筋か光が流れるような気がして、男の子は目をぱちぱちとさせました。お父さんの姿がうつり、また消えました。
ふと、友達と遊んでいたときを、男の子は思い出しました。
砂場で遊んでいて、ふとなんとなしに崩してしまった砂山を。そしていつのまにか始まったケンカを。お互いに手を握って仲直りした友だちの顔を思い浮かべて男の子は思わずにっこりと笑いました。そして、今目の前にあるのはお父さんの温もり。
男の子はなんとなく分かったような気がしました。
「そうか」
男の子は呟きました。お父さんの手が優しく男の子の額を撫でました。その心地よさに、半ば夢心地になりながらも、男の子は言いました。
「とくに理由はないんだね? お母さん山羊はそうしたかったからそうしただけなんだ。狼はそうされるべきだとお母さんが思ったからそうしたわけで、子山羊を食べられたからとか、子山羊は助かったけどとか、そう言うことは関係ないんだ。大切なのは、お母さん山羊が狼にそうしたいと思ったことと、それができる条件が重なったというただそれだけなんだ。ねぇそうでしょう?」
「ああ」
お父さんは男の子の頭を優しく撫でながら言いました。
「もしかしたらそうかもしれないね」
そうして、男の子は嬉しそうににっこり笑って眠りにつきました。
夢の中で見た狼は、お腹に石を詰められたまま踊っていて、とてつもなく滑稽に見えました。
次の日、お父さんが帰ってくると、うす暗い部屋の中から、男の子が嬉しそうに走ってきました。
「ねぇねぇ。昨日のお話覚えている?」
男の子は濡れた手を拭くことなくお父さんに抱きついて言いました。お父さんの作業服に、赤い跡がつきました。
「再現してみたんだ」
お父さんの手がゆっくりと男の子の頭におりました。そして、男の子の頭をゆっくり撫でました。
「なにを?」
しゃがれた声に、男の子はにっこりと部屋の隅を指さしました。
割れたホースからむりに空気を送り出すような音がそこから聞こえていました。
窓からはいる光に、真っ先に見えたのは、使われることなく転がっている石ころでした。
お父さんは思わず自分の口を押さえました。そうしないと、声が漏れてしまいそうだったからです。
笑い声が。
でこぼこの腹をしたネコが仰向けに寝ていました。
音は、その口から漏れているのでした。
「やっぱり、お話はお話に過ぎないんだね? あんな風にされたら、狼だって動けるわけないもの」
得意そうにいう男の子を、お父さんは優しい目で見つめました。
「そうだね。もしかしたらそうかもしれないね」
お父さんはそう言うと男の子を抱きしめました。
男の子は、嬉しそうにお父さんにされるままにしていました。
また、お話をしよう。
お父さんが男の子の耳元で言いました。
たくさんのお話を。
ああ、お話だ。
そう言って、笑うお父さんの顔はとても黒ずんで見えました。
闇よりも黒く。黒い髪は、半分以上が逆立っていました。
けれど、
男の子は嬉しそうにお父さんに抱かれているままでした。
人によっては、お父さんの姿を見て、とある名前を思い浮かべたことでしょう。
けれど、男の子は嬉しそうにお父さんに抱かれていました。
お父さんのお話には、その名前は未だ一度も出てきたことはなかったのですから。
むかしむかしのお話です。
まだ、言葉が世界や人を変え、生き物さえも作り出すことができた。
そんなむかしのお話です。
そう、前置きをして、
今日も、お父さんは話し出すのでした。
頬まで伸びた笑顔を浮かべて。
完
2005年しょっぱなからホラーですね。 黒い格好で、顎まで伸びた笑顔。 きっと、「お父さん」の足はヤギのようになるのでしょう。 ヨーロッパでは典型的な悪魔の姿です。 でも、案外この典型的は私の中にだけあるのかもしれません。 そんな恐れを抱きつつ。 最後まで読んでいただき、ありがとうございました。 |