屋上で「さよなら」は言えない

 風が頬の横を通り抜けていく。卒業式のために綺麗にまとめた髪が風に撫でられていくのは気持ちがよかった。晴れ渡っている空の下で自分を小さく感じながら、関沢直樹は開けっ放しのドアを通り抜けた。すぐ目に写る制服の背中姿。やはりここにいたという安堵感と、目の前の風景がもう二度と見られることはないのだという実感を同時に感じて、笑顔と泣き顔が一緒になったような顔になる。軽く顔をなでて表情を無理に渋顔にしながら直樹は背中を見せ続ける制服姿に、もう二度と会うことはない少女に声をかけた。

「……よぉ」

 小さく呟いた言葉に、しかし背中を向けていた少女はすぐに反応を見せる。一瞬背中を震わせてから抑え込んだような声。「なによ」予想通りの反応。思っていたのと同じ声。

「やっぱりここにいたんだな」

 わざとらしく苦笑しながら直樹は一歩、屋上の白い空間へと歩を進めた。途端に少女は振り返る。
 ドキリとした。目の前にいる少女の名前を一瞬忘れそうになる自分に気づく。少女の名前、高崎美和子。けれど彼女はこんなにも魅力的だっただろうか。ほんのりと赤く染まった頬に潤んだ瞳、ちょっとしたおしゃれ感覚で塗られた口紅。それらすべてがまったく新しい存在として直樹の前に現れる。

「ここにいちゃ悪いっていうの?」

 キッと見返してくる瞳も、三年間同じように見つめていたものだった。それでも、今までの生活の中で見ていたものとは違う輝きを、その瞳の中に見つけたような気がした。

 太陽が明るく二人を覗いている。風は少し冷たいがもう冬ほどの力を持っていない。ただ柔らかく美和子のスカートを揺らし、髪を揺らしながら直樹の方へと拭いてくる。首を振りながらまた一歩直樹は美和子へと近づいた。軽く髪を抑えながら呟くように言う。

「別に。今日でもう最後だから絶対ここにいるって思っただけだよ。他意はないさ」
「最後まですましているのね、あんたは」

 直樹の顔にフンと鼻を鳴らして美和子は背を向けた。たった二人しかいない屋上のはずなのに、その距離は遠い。ふと、これまでの美和子と自分の姿が脳裏に蘇ってくるのを感じた。入学したての出席番号ですでに隣同士だった二人。廊下を追いかけあう二人。いつも自分が美和子を怒らせては彼女に殴られないように逃げ回っていた。同じ広報委員として企画を考えた文化祭。テニス部でレギュラーになれなかった美和子を慰めた冬の夕方。

 一体自分達の関係はなんなのだろう。三年間という間、何度もいがみ合いをして、喧嘩をして、でもそのたびにぎこちなく仲直りをして。どこかへ二人だけで出かけたこともあった。夜遅くまで遊んでいて、二人して家の人に怒られたりもした。それなのに二人は恋人というわけでもなく、ただの友達でもなく、なんとなくな関係のままに時を過ごしていた。

「三年間、あっという間だったな」

「長かったわよ。あんたみたいな変な男につきまわされて散々な年だったわ」

 少しきつめの目を空へと向けて美和子が苦笑いする。その口ぶりが一体なにをしたがっているか、直樹はすぐに気づいた。唇の端をわざとらしく持ち上がらせて、軽く腕を組んだままネクタイを少し緩める。

「はん。付きまとってたのはどっちだよ。お前のおかげで彼女すら出来なかったぞ」
「それはこっちの台詞よ。あんたさえいなければ男の子に囲まれてハッピーな三年間だったんだから」

「お前の顔でハーレムなんて作れるかよ」
「ふふん。私もてるのよぉ〜誰かさんと違ってぇ」

「誰かさんってのは誰だよ。俺なんて、告られたのは一度や二度じゃなかったんだぜ」
「あたしだって、三度、四度は告られてるわよ。しかも後輩から始まって、高校に行った先輩にまで告られたのよ」

「だったら何で一度もつき合ったりしなかったんだよ」
「あんたこそ、何で一度も彼女作らなかったのよ」

 互いに言い合ったあとで、言える言葉がなくなった。その先を言うことは二人の間の距離をどうしようもなくなるほどに遠くしてしまう。そんな気がして、直樹はわざとらしく美和子から目をそらして空を見た。

 空は青かった。三年間なんていう短い学校生活を言い合って、そして困ったりしている自分たちを包み込んでいるこの空は、何もかもを包み込んでくれそうな広さだった。

「引っ越すんでしょ、あんた」

 小さく美和子が呟く。言葉を返せば何かを言われるような気がして直樹はただ頷いてまた空を見た。胸の奥が熱くなるのがわかった。頬のあたりがむずがゆくって、まるで今まで無意識にせき止めていたみたいに、瞳に涙が溢れた。わざとらしくあくびの真似をしようとして、

「ずるい奴」

 美和子の呟きにはっとした。

「今、なんて?」

 美和子に向いた直樹の目から涙の雫が頬を伝っていく。はっとしたのは直樹だけではなかった。直樹のその涙に言葉を言えずに固まった美和子が目の前にいる。風が流れた。言葉をいえない二人の間を柔らかく流れる風は遠い校舎の窓ガラスから小さな歌声を運んでくる。


 固い絆に思いを寄せて
 語り尽くせぬ青春の日々――


 時が止まる。
 見詰め合う二人は言葉を選べない。直樹の目に写る美和子は、三年間の間に見たことがないほどに弱く見えた。自分を何度も叩いた手が、合わせられた手のひらの中で小さく指を震わせている。はためくスカートをもう抑えようとも出来ないままに美和子の目が揺れる。そんな美和子を美しいと思った。流れてくる歌声とともに、蘇ってしまう思い出が流されないよう、直樹は一瞬拳を握り締めた。せめてもうひと時だけ今が終わってしまわないよう、掴むように。抱くように。そしてゆっくりと指先を開きながら、美和子の前へと手のひらが差し出される。

「昼、まだだろ? 食べに行こうぜ」

 じっと手のひらと、顔を見つめる美和子の視線から、もう直樹は目をそらさない。

「いいわよ、べつに」

 ツンとすました口調で、でも言った頬は朱に染まったままで、美和子は差し出された手に自らの手を重ねる。美和子の手の温もりを、直樹の手が感じる。

 歩き出した何か。それは単純な時の流れなのか、それともまったく違う何かなのか。わからないままに、二人は風に押されるよう屋上を後にする。

 歌声は風に乗って流れ続ける。

「乾杯」

 どこかでそんな声が聞こえた気がした。

あとがき
卒業を書きたい。
そんな思いだけで書いてみた作品はあまりにも
センチメンタルで、だけれども少年と少女の恥じらいの美しさが・・・なんて自分の作品に対して思っちゃいきませんね(苦笑)