五月の雨 楽静
雨が降る。 五月雨と呼ばれる雨が降る。 音もなく、感情もなく。 雨は降る。 でも 人は…… 「あーあ、カサ忘れたんだよねぇ」 塾の鞄を背負って、子供達が外へと飛び出す。ばしゃばしゃと元気な音が、水たまりを次々に踏み、皆足下からずぶぬれになっていく。 少し不格好に鞄で頭を塞ぎ、健太は、友達と共に絶望的に空を見上げた。 「濡れるよなぁ」 さっきから愚痴が止まらない友達に、少しイライラした声になる。 「お前なんかまだいいよ、家近いんだから。どうするんだよ、びしょ濡れに……あれ?」 自転車にかかったピンクのカサに、健太は目を見開く。教室の、壁にもたれかかるようにおかれた自転車。その椅子に、カサが、当然のように掛けられている。 「なんだよ、お前、カサあるじゃん」 「う、うん」 不思議そうに首を傾げながら、カサを手に取る。ゴミとして捨てていったにしては新しすぎた。誰かが、気を利かせておいていったとしか思えない。 「変なの」 「ラッキーじゃん」 「まあね」 「んじゃ、俺走ってかなきゃ」 「おう、じゃーな」 友達が行くのに、カサを見たまま答え、手を振る。とりあえず濡れないようにさしてから、やっぱり納得できなくて、じっと裏側をのぞき込む。 何処にも傷など無い。確かに、誰かが、濡れないように置いたものだ。 「ま、ラッキーなのかな……」 渡してくれるのなら、手渡しが良かった。それなら礼が言えるのに。そう健太は思ってから、自転車にまたがる。 滴る水で、お尻の辺りが少し冷たい。そのまま走り出そうとペダルに足をかけ、健太は、ふとその足を止めた。 塾の小さな屋根の下で、困ったように空を見上げる少女がいる。濡れていこうかどうか迷っているのか、そわそわと、体を左右に動かしている。 どうしようか。手元のカサと、空を見比べる。でも、そう思ったときには、もう答えが出ていることを知らぬほど、健太は子供ではなかった。 無言のまま、自転車を降り、少女に近づく。 「これ、使って」 「えっ」 驚く少女に、グイッとカサを差し出す。 「俺、自転車だからさ」 「え、でも」 「いいからいいから、ほら」 少女の言葉を待たずに、健太はカサをその前に放りだし、自転車に駆け寄った。 「あ」 「じゃあな」 明るく言い放って、ペダルを勢い良くこいでいく。 不思議と、雨は不快に感じなかった。それよりも、体のおくからむずがゆくなってきて、健太は一人、ニヤニヤしたり、困った顔を続けた。 そう言えば、依然見た映画のシーンに、そんな場面があったような気もする。その時のカサは、確かぼろぼろだったっけ。なんて思い出す。 「やっぱ、雨だからかな。うわ、くっさぁ」 自分で言った台詞に、耳まで真っ赤になって、健太はそれでもその台詞を気に入った。 雨は、ただ、降り続けていく。 全ての優しさを、形に変えて。 「あっちゃあ」 地下鉄の上り階段を上る途中で、薄々気づいてはいたのだが、いざその場面に出くわすと、さすがにため息が出る。 どんよりとした空からは、止むつもりはサラサラないといいたげに、雨が後から後から降ってくる。 街を行く人々の中には、傘を差して、ピンッと背を伸ばしていく人もいるが、多くは、急な雨から逃れるように、鞄や上着で頭を隠し、背を丸めて走っていた。 「まいったなぁ、この鞄新しいのに」 右手に持った黒塗りの書類入れに目を落とし、浩介は一人ため息をつく。天気予報を信じて、カサを持ってくれば良かったと、今更後悔しても遅い。 三十%なんて、曖昧な数字を出すからだ、なんて心の中でぼやいて見ても、状況は変わらない。 そうしている間にも、わずか隠れ家として地下鉄に駆け込む人は後を絶たない。反対に、意を決して駆け出す人もいる。 「ちょっとすいません」 「あ、すいません」 後ろから、一人のサラリーマンふうの男が、浩介に会釈をして外に飛び出していった。鞄を頭に載せ、走る後ろ姿が数分後の自分の姿だと思うと、 その余りの不格好さに泣きたくなる。 「止まないかな」 濡れないように空を見る。いつもは青々としているはずの空が、雲によって覆われているのは、何か一つの力が、他の力によって抑えられているようで、 浩介は嫌いだった。それは、まるで今まで自由だった自分が、会社に入って初めて知った力のよう。暗い、陰鬱な気分になってくる。 「ああ、もう走るしかないのか」 いつまでたっても、雲の力は消えそうにない。降り続く雨一つ一つの音を聞くうちに、益々暗い気分になってくる。 一つ覚悟を決めて、浩介は雨中を走り出した。鞄を頭にのっけて、背を丸めて。先をいくサラリーマンのように不格好に。 カサを持った女性とすれ違う。チラリと自分を見る視線が、哀れみに見えて、浩介は走る足を速めた。背中で、女性が振り返るのを感じる。 じっと自分を見る視線を感じながら、浩介は下を向いて、走り続けた。 信号が、赤から青になるのをじっと待つ時間の長さを、改めて知る。大型トラックが、前をもたついているのに、知らずに悪態をついている。 一つのカサを、二人で刺しているカップルを、チラチラ横目で見ながら走る自分に、嫌悪感を覚える。 雨は降る。 全てのいやな感情を、この地上に降らせているようだと浩介は思った。いつもならたいしたことではない事柄を、ヤケに重要なことに雨はする。 普段なら感じずに入られない日の暖かさを、冷たい感情によって、雨は覆ってしまう。 『こんな事もできないのかね?』 課長の杉田の、ねちねちとしたイヤミの声。 『すいません、すいません』 殴り飛ばしたいのを必死に抑えつけて、ただ謝る自分。そして、それをただ傍観する周りの人間。ほんの短いはずなのに、ひどく長く感じる日々。 雨は、全てを思い出させる。 「わったっぁ」 歩道に設置されたマンホールの上に足をおいた瞬間、浩介は革靴がズルッと予想外な動きをするのを感じた。そのままつんのめりそうになるのを必死に堪える。 しかし、その時には、もう靴は車道に転がっていた。 「あーあ」 思わず自分に呆れる。四月に新入社員となってから、まだ一ヶ月しかたっていない。当然、スーツも、靴も、まだぴかぴかの新品同然だった。 その靴の片方が、今は車道で、横になり、冷たい雨をただ浴びている。 「しょうがねえなまったく」 自嘲的な笑みを浮かべて、浩介は車道に落ちた靴を拾った。幸い、車道を、車はまったく走っていない。少し、細い道の方へ来たからだろうか。 何か、今までいた場所と這うって変わった、田舎臭さを感じる。 この街で、自分は、後何年暮らすのだろうか。ふと浮かんだ疑問に、あわてて首を降る。感傷はいけない。ただ暗くなるだけだ。 それもこれも、みんな雨のせい。そう自分に言い聞かせ、少ししめった感触をするのを我慢して靴を履くと、また走ろうと、前を向いた。 「あ……」 遠くに、空が見えた。 雲に必死に抵抗するように、東の方に、ほんの少し、空が開いていた。瞬きほどの時間で、それは、またすぐ雲に覆われてしまう。 無言で、走るのを止め、浩介は歩道に戻った。頭から、鼻筋を通り、顎から地へと落ちる雨。それを拭いもせずに、ただ一点、空が見えていた雲を凝視する。 雲は、ただ雲のまま雨を落とす。 何かに抵抗するように、空が見えたのは気のせいだろうか。それが、自分に似ていると思ったのはなぜなんだろうか。 空は、やはりただ、澄んでいた気がした。雨だろうと、曇りだろうと、空は、ただ青いままだったような。 目をふと閉じてみる。全身が、雨に濡れるのを感じる。首筋から胸元へと染み込んでいく感触が、ヤケに気持ちいい。 感覚が鈍ってしまったのだろうか。雨は、不思議と冷たくはなかった。片手で、雨を受け止める。小さな弾みが、手首を通って、袖へと入っていく。 「……しょうがねえな」 浩介は呟く。背広は、もうびちゃびちゃになってしまっている。帰って、アイロンがけをしなくては、とてもじゃないが、明日までに乾かないだろう。 鞄は、新聞でも詰めて乾かすか。靴は、どうしよう。スポーツシューズで行ったら、女子社員に受けるかも知れないな。 そう言えば、あの子は可愛い。今度、お茶にでも誘ってみようか。 「しょうがねえなっ」 雨水を蹴る。弾む勢いのままアスファルトを蹴って、浩介は駆けだした。鞄を頭に置いたりはしない。徒競走の選手のように、背筋をピンッとはって走る。 脳裏に、すれ違った女性のことが浮かんできた。 「あの人も可哀相だな」 せっかくの雨なのに、濡れることが出来ないなんて。 風邪には気を付けなくちゃと思いながら、浩介は小さくくしゃみをした。 雨は、ただ降り続ける。 全ての感情を含んで。 あの人は、後一体どれだけの時間、濡れ続けているのだろうか。 夏美は、走りすぎる後ろ姿が消えるまで見送ってから、ふとため息をついた。 かっこいい人だった。自分よりも、一歳か、二歳、年上と言った所だろうか。雨の中を、背中を丸めて走るのには慣れてないようだった。 自分と目をあわせと、逃げるように行ってしまったのはなぜだろう。 目的もなく歩く自分の、前や横をせわしなく走る人々がいる。振り返って駅の方に歩いていこうと思ってから、 ふと思い直して、夏美は男が走っていった方角へと足を向けた。 ピンク色のカサを、雨が弾いていく。雨の中を走っていく人々は、これを持っている限り、夏美には無関係だった。 それでも、夏美は、走る人々を、さっきから目で追っている。 なまじ、カサなど持っているからこんな気持ちになるのかも知れない。そう思ってから、おかしくなる。 「狂っているなんて、思われたらどうしようかな」 子供みたいに、カサを回して苦笑する。雨の中を、傘を放り出して歩きたい。その思いは、先ほどからどんどん強くなっていた。 でも、出来ないでいる。手に持つカサを手放すことは出来なかった。雨の中を、カサが無く濡れて走る人がいる中で、カサを捨て走るなんて、 夏美には、とてもじゃないが、そんな事は出来なかった。それでは、カサがない人に、余りにもイヤミではないか。 だから、夏美はさっきから人を捜していた。誰でもいいというわけではない。心から、自分が傘を差しだして喜んでくれる人、そんな人を。 デパートの入り口の前で、困ったように肩を抱き合う男女がいた。チラリと、目が合うと、一瞬うらやましそうに自分を見、そして、フイッと目を逸らしてしまう。 あんな人はイヤだ。きっと、雨が止んだら、自分のカサを捨ててしまうに違いないから。 パン屋の前で、買い物袋を両手に下げて、ぶすっとした顔で立っているおばさんがいた。目があった途端に、ばつが悪そうに目を逸らす。 夏美は、ただ何も言わずにその前を通り過ぎていった。 商店街を通り抜けて、寂しい通りにはいる。あの男の人は、もう家についたのだろうか。もしかしたら、まだ近くにいるかも知れない。 今まであまり来たことがない道に入っていくのも、夏美には抵抗がなかった。こんな雨の日に、一体何が起きるというのか。 雨は、ただ、優しく、自分のカサを弾くだけ。そして囁く。「私に濡れてごらん」と。それは、とても小さく、しかも甘美な言葉。 「あっ……」 目の前に、あの男の人がいた。ぼぉっと突っ立って空を見ている。近寄ろうとして、夏美は躊躇した。 後ろ姿しか見ていないのに、男が、何か嬉しそうに見えた。そして、途端男は走り出した。元気よく、弾むように。 それは、自分がしたくて、未だ出来ない行為。 「先、越されちゃった」 何か悔しい。今すぐにでも、カサを放り出して歩きたかった。辺りを見渡す。誰か、誰か、自分のカサを必要とする人はいないかと。 そして、夏美はニコリと微笑んだ。 笑いながら、近づいていって、カサを差し出す。 「はい、どうぞ」 銀色に輝く、まだ新しい自転車。その椅子が濡れないように、うまくカサを立てかける。 「よし、と」 夏美は、ふと空を見上げた。雨は、まだ止みそうもない。 背中をピント伸ばして、嬉しそうにその背中が離れていく。ピンク色のカサが、誰かの笑顔に変わることを信じて。 雨は、ただ降り続ける。 全ての願いを水へと変えて。 人が、思う雨は雨だろうか? ただ、降り続ける雨は、 やはり、ただの雨。 でも、人は…… 家へと帰る少女がいる。その手には、しっかりとピンク色のカサが握られて。細い道を通りながら、しっかりと、その目は前を向いている。 やがて見えてきた白い壁の家に、少女は嬉しそうに駆け寄った。 「ただいま」 そう言って、ドアを開ける少女の顔は、とても明るく、少し、朱が指しているようにも見える。 「お帰り、濡れたでしょ、今お風呂わかしたから……」 「ううん、お母さん、あのね……」 少女の楽しげな声が、家中に響きわたっていく。そんな家を、優しく包み、雨は降る。 全てを濡らし、清めるように。 雨は、降る。 天から、何かを地上に落として。
完
この作品はとあるHPに投稿しました。 結構評判は良かった。確かに良かった。 でもね。 五月雨と、皐月雨の違いを 延々と語られる羽目になりました。 いいです。もう。 どうでも良いです。って、 何であの時いえなかったんだろう。 ここまで読んでいただきありがとうございました。 |