背伸びに踵(かかと)が気づくとき


「来る……よな」

 もう何度呟いたか分からぬ自分自身の情けない声に、雄太は溜息をついた。街灯は先ほどから弱々しい点滅と共に雄太を照らしている。薄手のコートに包まれていても、春先の気温は少し寒い。肩からかけた学生カバンが、徐々に重みを増している気がした。
待ち合わせの時間は四時半。腕時計ではなく、改札上の時計を見上げながらまた呟く。「来るよな」誰に言うでもない。時折降りてくる人々の波にチラリと目を送っては、こらえきれない苛立ちを無理矢理押さえつけて背を向ける。制服のネクタイは三十分待った時点で解けていた。コートのボタンもさっきからつけては、はずされている。組んだ手が、時折短めの茶髪を掻く。

「来るよな」

 見上げた空に月は無い。
浮かんだのは小さな思い出。何かを落とした師走の午後。



 初めて入った聡美の部屋で、雄太は部屋中を這うように視線を動かしていた。あぐらをかいた膝をぎゅっと握り締める手の甲は、力が入りすぎていて少し白い。自然に漂う聡美の香り。飾り気の無い鏡台の上に置かれている香りの主は、雄太の小遣いではとても届かない気品を持つ。鏡の中にいる自分がやけに子供っぽく見えて、雄太は背筋を伸ばした。その目が、ベットの上を覗く。綺麗に畳まれたピンク色の寝巻き。余計な部分にまで血が上っていきそうで思わず前へと曲がる。

「……お待たせ」

 いたずらを見つけられた子供のように一瞬びくりと雄太の背は震える。ゆっくりと振り返った彼の先で、聡美はいつものように少し困った笑みを浮かべていた。慌てて雄太は背を伸ばす。

「寒かったでしょ? 電気ストーブならあるんだけど、まだ出すの迷ってて」

 肩までの黒髪の中で時折ピアスが輝く。薄手のシャツはブラジャーの形をうっすらと見せている。家の中にいるという無防備さ。かがみこんだ首筋から漂う部屋と同じ香り。見とれる自分を幼く思われぬよう、精一杯雄太は大人びた笑みを浮かべようとして、ただ口元をゆがめた。

「いや、全然。俺んちなんてフローリングだからもっと寒いって」

 伺うよう小首をかしげる聡美に気づかないまま、何気なさを装って差し出した手が、コップの熱さに一瞬逃げる。

「ごめん。熱かった?」
「ううん。全然」

 手にじんわりと広がっていく熱を押さえ込むように、雄太はコップを手のひらで支えた。そのまま寒くなるとすぐひび割れ出す唇へと運ぶ。鼻腔を突く独特の香りに少し躊躇したあと、なんでもないように熱い液体を喉へと流し込む。瞬間、喉奥へと広がっていく熱さに呼吸が止まった。

「大丈夫?」

 聡美の言葉に頷きながらも言葉を出せない。熱さがじんわりと引いていくのを待つ雄太の目は少し潤んで、コップはテーブルへと申し訳なさそうに運ばれた。
 細めの眉を曇らせて見つめる聡美に、無理矢理な納得顔を浮かべて、

「いい豆使ってるね」

 言いながら頷く。
 ふと、聡美は寂しそうな顔をした。薄紅色の唇が言いにくそうに動く。

「インスタントよ」

 言葉を取り繕えもせず、雄太は泣き笑いのような顔で聡美を見つめる。互いに口は開けないまま空気は徐々に重くなる。立ち上がっていた湯気が徐々に溶けていくように、何かが消えた。



「待ってたんだ」

 脳裏を巡っていた思い出の中の声と重なって、雄太は一瞬それが夢なのか気づかなかった。無意識にポケットの中を探ってセブンスターの箱を取り出す。

「約束しただろう?」

 言葉が喉に絡まっているようにうまく出てこない。ようやくそれだけ呟くと、口にタバコをくわえた。目の前に突然淡いオレンジ色の炎が揺らぐ。目の前に立つOL姿の聡美の手にはピンクのライター。

「ん。ありがと」

 大人ぶった顔で言いながら唇を突き出すようにして軽く吸う。フィルター越しに感じる熱と、一瞬鼻をつく独特のにおい。チリリとオレンジ色に燃えた炎が、ガスの漏れるシュッと言う音と共に消える。
 吸い込むたびに入ってくる煙にはまだ慣れていない。顔をしかめる雄太に、聡美は敏感に気づく。

「いい加減に止めたら。健康に悪いわよ」
「ちぇ、いつもそういうんだから。聡美は」

 名前を呼ぶとき少しだけ雄太は躊躇した。手のひらの上でライターを回しながら微笑む聡美をまともに見れず、改札上の時計を見る。時刻は六時半。

「二時間も待ったぞ」

 まだ少しも吸っていないタバコを苛立たしげにアスファルトに落とす。足で踏み潰しながら、自然と俯いてた。

「……来ようか迷ったのよ」
「なんで?」

 だって。そう開きかけた聡美はそのまま一歩後ろへと下がった。両手を挙げたままの形で雄太は固まる。いつか見たような寂しげな顔を聡美は見せる。

「……もう、終わりといったでしょう?」
「本当に、終わり、なのかよ」

 精一杯強がった瞳で雄太は聡美を睨んだ。見下ろす聡美の顔は街灯の光で影だけを濃くしている。ふと、その目が細くなった。片手に持ったままのライターを雄太の目の前に持ち上げる。

「……これ、いくらだと思う?」
「え?」

 柔らかい聡美の手の感触を感じながら自然にライターを受け取っていた。ピンク色で筒型のそれは、光をきらきらと反射する。中身はまるで夢でも詰まっているかのよう。はかなくて淡い。手の平で慎重に転がしながら、恐る恐る雄太は聡美を見上げた。

「高いのか? これ」

 聡美の顔にゆっくりと寂しげな笑みが浮かぶ。もう何度も見たその表情を消したいのに、焦るほど言葉は口から出てこない。聡美の背がゆっくりと雄太に向く。

「あげる、それ。私、雄太に何もできなかったから」

 言いながら遠ざかっていく、聡美の足。止めることが出来ず、雄太はただ呆然と、その背中と手のひらに残るライターを見た。

「なんだよそれ。どういうことだよ」

 振り絞るように飛び出した声に、聡美は足を止めた。

「ごめんね」

 振り返ることなく、声が風に溶ける。

「私は、私に戻りたいだけ……わがままだよね」

 自分の言葉を自分で否定するかのように、聡美の首は小さく振られた。また、足が一歩雄太から離れる。もう止まることは無い。

「わかんねーよ俺。そんなの、わかんねーよ!」

 握り締めた小さな塊は固く冷たい。手のひらで徐々に温まっていくのを感じながら、俯いた雄太は顔をあげられない。

「……わからねえよ」

 こみ上げる物を抑えもせずに、吐き出す言葉と共に雫は指の間へと染みた。
 響くのは時折駅へと止まる電車の音。発車を知らせるアナウンスがやけにやかましい。町の中を行くいくつもの靴音の中にまぎれて、聡美の足音さえ聞こえない。
ふと、見下ろした雄太の目がライターの底を捕らえた。浮き上がるように100という文字が小さな四角に囲まれている。震えるように指先がその文字に触れ、言葉がこぼれる。

「……百円?」

 同時に聞こえたのは声。

『私は、私に戻りたいだけ』

 足から急に力が抜けるのを感じて、そのまま腰を落とした。両手でつまむように目の高さまで持ち上げたライターは、同じように街灯の光を淡く反射し続ける。

「はっ」

 嗚咽と共に飛び出したのは笑い。自分への嘲笑。

「本当に何にも分かってなかったんじゃねーかよ、俺」

 ライターに触れていた指は、愛おしむように何度もその腹を撫でていく。

「待てなかったんだ、俺は。分かるまでなんて……」

 呟くように言った言葉を聞く者はここにはいない。電車が通り過ぎていく音と共に、人々は改札口を抜け、町へと身体を吸い込ませていく。何十もの足音を聞きながら雄太はその場から動けない。
 雄太の心を映すかのように、今夜の空には月が無い。
 街灯の明りだけが、小さく震え続ける少年を照らし続けた。

あとがき
え〜。昔の話しをちょいと手直しです。
最近、普通に書いている方が暗いお話になることが多いので、
リハビリのつもりで直してみました。

少年の恋は大人びていて、時々その大人びた恋に自分まで大人になった気分になるけれど、やっぱり大人に比べて少年の恋は背伸びをしすぎていて、見ている方が辛くなる時があるのです。

まぁ、
それでも相手がよければ大丈夫なんですけどね〜。

100円ライターが落ちってのも苦しい気がしますが、
最後まで呼んでくれた方、ありがとうございました♪