月の涙

「私、屋上に出てみたいな。……だって、学校を見ている空を間近で見たいから」
                                            ――香奈




 いつのまにか、日は沈みかかっていた。青田町を流れる青海川は、海という名前が入っているにもかかわらずたいした広さではない。
 海に繋がるかと思えばそうではなく、鶴見川なんていう川とぶつかることで、残りの流れを鶴見川だと称されてしまう。なんとも可哀想な川だ。
 そんな川に限ってというべきなのか水はきれいにすんでいて、今も夕日を鏡のように反射させる。水面を見ている俺の目がちりちりと痛んだ。

 俺は、一人でただ川岸にいる。

 肌寒い風が吹いた。ワイシャツのボタンを首までつけても、まだ首筋から冷たさがしみこんでくるような気がした。でも、ネクタイをする気は無い。
 関係ないことばかりが頭に浮かんだ。

 ゴムボート。
 食べかけのまま賞味期限を過ぎた乾パン。
 国道を休みになるとひっきりなしに走っていく暴走族。
 冷蔵庫の中にたぶんまだ眠っているプリン。
 そして、香奈。

 飲みかけのコーヒー。
 ふやけていくノート。
 上谷達也という俺の名前。
 失敗したフレンチトースト。
 そして、香奈。

 夕日が綺麗だからきっと明日は秋晴れだ。
 体育はバスケットが始まる。
 もうすぐ期末テスト。
 そして、香奈。

 連想のつながりすら関係なく、さっきから考えることがすべて香奈で終わってしまう。
 青海川に向かって投げたい石が音を立てて落ちたときも、『わぁ、すごい、五回も跳ねた』砂利を蹴飛ばしたときも、『だめだよぉ、川を泳いでいる人がいたらどうするの』消えない。香奈の声が。

「こんな川、泳いでいる奴いるわけないだろ……もう十一月だぜ」

 知らず呟いた自分の声にギョッとして口に手をやる。まるで話し掛けているように自然だった。横には相変わらず誰もいないというのに。いや、誰もなんていう言葉で誤魔化すのはやめよう。もう、横にいるわけがないんだ香奈は。


『昨日、一年生の星見香奈さんが、亡くなった』


 耳元で鉄が鳴りあうように響く、担任の木田の声。もう、三日も前の話だ。
香奈からのメールが一通も来ないことを不思議に思って登校した、その朝のことだった。木田が話しているとき、俺は全然関係ないことを考えていた。木田の声なんて気にもしていなかった。そんな奴の口から出る女の名前。香奈の姓名。

 香奈は事故死だった。

 新聞の片隅にも乗りはしないほどあっけない事故。そういえば、前の日救急車が走っていたな、なんて後からぼんやり思い出す程度の。
 即死。では無かったらしい。町の噂。けれど、走っていた救急車は『前の車どいてください』やけに切羽詰った声を出していた。
 まるで、生きている人が乗っているように。

 そして香奈は死んだ。

 それから今日まで学校には行っていない。
 ショックだったのだろうか? ただ、忘れられないだけなのかもしれない。香奈という存在と、その日々を。
 思えば変な奴だった、香奈は。そんなことを冷静に考えられるようになったのはもう三日も経ってしまったからだろうか。それとも結局は俺はあいつのことを大して大事に思ってなかっただけだろうか。
いつもあいつがいた。
 帰り道が一緒で、時々話すようになった。ニコニコ笑って一緒についてきて、気持ちの悪い奴だとはじめは思っていた。それでも、いつも一緒にいるうちに、いい奴じゃないかなんて思ったりした。
 でも、もういない。

「香奈、何で……」

 呟きながら石をなげた。丸い石。川を跳ねもせずに沈んでいく。また、石をなげる。跳ねない。手に触った石を確かめもせずに川へ次々となげていく。
 風が耳元をなでるように通り過ぎた。
 一瞬、その風からあいつの匂いがしたような気がして、そんな自分が馬鹿みたいで、俺は笑った。笑いながら、泣いた。泣きながら石を投げた。何回も、何回も。だけど石は跳ねなくて、たった一度も跳ねなくて、そのまま川の中へ沈んでいく。一つ一つ。結局変わらない。何も変えられない。俺には何も出来ない。

「香奈……なんで死んだんだよ」
「なんでだろうねぇ」


 のほほんとした声が聞こえた。

 対岸に植えてある金木犀はもう時期を通り越している。
 雲ひとつ無い空には飛行機も飛びはしない。
 そして今――

「どうしたのタッちゃん。ぼうっとして」

 いつも俺の横を歩いて、いつも笑っていて、いつもふざけた話題しか持っていない、ふざけたあいつの声が。

「…………香奈?」

 たっぷり数秒置いてから、俺はとりあえず、その名前を声に出してみる。

「ピンポーン、大当たり」
「……って、まて!」

 自分でも信じられない速さで振り向いた。座っている俺から見上げるように見れば、当然あいつの、ちょっと丸い顔が見えるはずだった。だけど、振り向いた先で俺が見たのは夕日のまばゆさ。その影になって、あいつの顔はよく見えない。
 慌てて立ち上がった。右手に握った石をなげようか、落とそうか一瞬悩んで、そんな悩み自体がばかばかしくなって香奈を見た。

 香奈がいた。

 肩までの黒い髪。肩のあたりで毛先がやけにバラバラになっている。着ている服は、最後に一緒にいたときの服、制服のまま。太目の眉。だけどそのことを指摘するといつも怒って……次の日にはやけに不恰好な眉になっているから、指摘はしないことにしたのは夏の話だ。一重の下で、愛嬌ある目が嬉しそうに笑っている。アイプチしようとして恐くなって、人にやらせようとしたのをまだ覚えているんだろうか。唇はやけにみずみずしくて、グロスでもまたつけ始めたんじゃないかと一瞬疑うほどだった。そして、頭の上には丸い輪。

 輪?

「……お前、もしかして、それ」
「これ? わっかだよ。それが?」

 いやな予感がした。
 そういえば、俺は小さなときから霊感が強かったなぁだとか、婆ちゃんが死んだ時、最後の挨拶に来たって言って皆を困らせたっけとか、この間死んだピースケって言う五歳の頃から一緒だった猫は、今でも家に遊びに来るなぁ、と。
 つまり、これは。

「いや、だからって、まさかなぁ」
「何がまさかなの?」

 香奈は目の前で笑っている。でも、俺は確かにその眠った顔に線香を手向けたはずだ。湿っぽくなってしまった香奈の自宅で、一度も会ったことがない香奈の両親に頭を下げて、香奈の私品にたぶんまだ手をつけていないだろう彼らは、決して俺が香奈にとって一体どういう相手だったのかも理解しないまま、香奈よりは2歳年上の俺に頭を下げた。それをよく覚えている。告別式にも出向いて、だけど門から中には入れなくて、出棺の様子をずっと遠くから見ていることしか出来なかった。死んでしまった香奈。

そう、香奈は死んだ。

「もしかして、幽霊になって戻ってきたのか?」
「ピンポーン」

 即答だった。

「タッちゃんさぁ、葬式のとき黙って泣いてるんだもん。あたし心配になっちゃって、そんで戻ってきちゃったってわけ」
「戻ってきちゃったってわけ。じゃね―だろ、この馬鹿」

 香奈のあっけらかんとした態度に、安堵や喜びよりも先に怒りが沸いた。こいつはいつだってそうだ。俺が野球部のレギュラーになれなかったときも、監督の家に夜中押しかけていった。『だって、タッちゃん悔しそうだったから』俺が夏の大会で代打に出た挙句三振してしまったときも、試合後相手ピッチャーに掴みかかった『だって、タッちゃん泣いてたから』いつだって、俺の顔を見て、俺が出来ないことをかってにやってしまう。馬鹿な香奈。だけど――

「なによぉ、馬鹿って事はないじゃない」

 ぶすっとした表情になる香奈に、俺はたたみかねる。

「お前なぁ、死んだらそのままあの世に行くって言うのは幽霊としてのルールじゃねえか、そのルール破ってどうするんだよ、成仏できねえぞ。その、俺のことなんて心配してんじゃねえよ」

 正直、そんな嫌なわけではなかった。というよりも、かなり嬉しかった。香奈がまた俺の前に戻ってきたこと。香奈ともう一度話せたこと。でも、それでおしまいにしなくちゃいけない。幽霊は、成仏して、生まれ変わる。それが世間の常識って物だ。

 一人まくし立てた俺に、香奈は始めきょとんとしたいつもの説教を聞くスタイルをとり、その後、心底面白そうに笑い出した。

「な、何が面白いってんだよ」
「面白いよぉ、だって、タッちゃんすごい真剣なんだもん」
「当たり前だろ」

 香奈の目が、すっと細くなる。それは、いつものひょうきんな香奈からは想像もできなくて、だから俺は香奈から瞬間目をそらした。

「でもね、もう遅いんだ」

 真面目な顔で、香奈はボソリとつぶやく。あまりにもそれは小さな言葉で、まるで俺に言ったんじゃなく、ただ独り言をしたように聞こえなくもなかった。……ってちょっと待て。俺はすぐに香奈の言葉の意味に気づいた。

「おい、何だよそのもう遅いってのは」
「あれ? ヤッパリ聞こえた? あははは。なんでもないよぉ」

 ころっと表情をまた変えて、香奈は其のまま俺から目をそらし、遠くを見始めた。
 やばい。警報が、頭の中で鳴り響く。

「香奈! お前がその笑いをするときには、なんかとてつもなくやばいことが起こったときだろ、早く白状しろ」

 香奈の方をぐっとつかもうとして、俺はそのままずっこけかけた。当然だが、幽霊である香奈には感触なんて物は存在してなかったからだ。思いっきり軸足でふんばる俺を面白そうに眺めた後、香奈は、その体をいきなり宙に浮かばせた。一瞬俺はあっけに取られるけど、よく考えてみれば、死んでるんだ、できても当たり前だと思い返す。

「ヤッパリ、タッちゃんにはかなわないなぁ」
「お前がそうやって逃げる準備をしてるって事は、相当俺が聞くとやばいんだな」

 俺はいらいらする気分を何とか押さえつけ、皮肉のつもりでそう言ってやる。でも、香奈は、あれ? といった顔で首をかしげた。……もしかしたら、図星だったのかもしれない。

「あのねぇ、タッちゃん。聞いても後悔しない?」
「するかどうかは俺が決める、早くいえ」
「タッちゃんらしいね」

 すっと、また香奈の目が細くなる。魂はここに存在するというのに、何か、俺の目には見えないものが、香奈から離れている。そんな気がした。やがて、意を決したように、香奈は言う。

「あのね、あたし死にたくなかったんだ」
「それで?」

「だってまだ着たい服も着てないし〜冬服だってせっかく買ったばかりなのにさぁ」
「ほうほう?」

「大体この若さで死ぬほうが変でしょぉ」
「なるほど?」

「だから、死神殴り倒して逃げてきちゃった」
「だから?……っておい」

「タッちゃん、人の話し聞かないの相変わらずだねぇ」

 のほほんと香奈は言う。

「そんな余裕かましてるときじゃないだろ、何てことしてんだよお前」
「だって、あたし、タッちゃんと離れたくなかったんだもん」

 俺の目を香奈は真正面から見つめてくる。なんか、その目が憂いを帯びていて、状況的にはかなり悪くない。

「タッちゃん、タッちゃんは迷惑だった? あたしが戻ってきて、迷惑だった?」

 泣き出しそうな顔で、香奈は言う。
 いつもふざけたことばっかやっている奴だけに、このギャップはなかなかこたえる。どう反応していいか分からず、とりあえず、香奈を捕まえようとして、できない自分に気づく。

「そりゃあ、迷惑だなんていったらうそになるけどさ」
「本当!」

 少し暗かった香奈の顔が、見る間に明るくなる。

「ああ、香奈がいないと、ヤッパリ寂しいしな」
「タッちゃん……やっぱりタッちゃん最高!」
「うわっ」

 香奈がいきなり胸に飛び込んでくる。そのまま通り抜けるんじゃないかと一瞬心配したが、香奈は心得ているらしく、きれいに収まる。

「あたし、タッちゃんとずっと一緒にいたかった。ただ、それだけなんだよ」

 言葉の意味が別に恋人同士ということでもなく、何でも語り合える仲のいい奴らというそれだけであっても、いやむしろそう言った意味で俺は頷いた。

「分かってるよ」

 香奈が微笑んで、俺の胸に顔をうずめる……文字通り埋まりそうになるのを必死に抑えているように見えるのが、どこか可笑しいと感じる自分に飽きれた。 
 川岸に、夕日をバックに抱き合う男女。そう考えるとかなり絵になると思うが、よく考えてみたら、俺は一人で誰かを抱く格好をしている男だ。そのことに気づいても、俺はもうその格好から抜け出すことができなかった。一つの声が聞こえてくるまでは。


「ハイハイ、そこまで。ラブコメは生きてる人間同士でやってねぇ」


 にこっと、微笑んだ顔が、俺のすぐ横にあった。黒いローブに体を包んで、片手に鎌を持っている香奈ぐらいの年の女性。たっぷり十秒間、俺は何も言い出せなかった。

「生きてます?」

 のんびりとした女の声に、俺はあわてて首を縦に振る。

「私は死んでるよぉ」

 女性と同じくらいのんびりに、香奈はいう。さり気なく香奈は俺の後ろに隠れるように移動し、手に捕まるようにしているが、その肌の感触を感じることは当然出来なかった。

「分かってますよぉ、だから来たんですから」
「はぁ」

 思わず間抜けな声が出る。夕日の中で女はひどく浮いた格好をしていた。しかし、ここは青海川。たいした有名所ではない上に、犬たちの散歩コースにすらなっていないこの場所では、女の姿にけちをつけるものなどいないことは確かだろう。いや、それよりもまず、「私の姿は普通の人には見えないはずなんですが」

「え?」

 頭の中で考えていた疑問に対していきなり答えが出たために俺はそのまましばらく自分の思考を働かせられなくなった。のんびりとした声のまま女が言葉を続ける。

「だけど、あなたには見えるみたいねぇ。時たまいるのよ、そういう人」

 言いながら思い出したように女は自分の右頬をさする。よく見れば、その頬はうっすらと赤身が残っていた。青白いともいえそうな透明感ある素肌の女は、その赤みさえなければ美人だといえるかもしれない。香奈に対して魅力を感じる時点で、自分の価値観が一般人と外れているような気がしないでもなかったが。

「って、もしかしてその頬」

 言いながら女を指していた指を、ゆっくりと香奈へとむける。途端むすっとした顔の香奈にぶつかって一瞬指が震えた。が、それも瞬間のことで、俺の指に気づいた瞬間に、香奈の表情は明るくなって笑みを浮かべる。

「てへ」
「てへじゃなぁぁい!」

 いきなり女が叫んだ。もしかしたらこれもすべて幻なのかもしれない。夕日に照らされた香奈と、女の姿には影が出来ない。俺の影だけが俺の後ろに出来ているんだろう。
 夕日はゆっくり沈みながらも赤々と燃え続けている。あんなふうに、俺の精神も燃えてしまったんだろうか。そして、すでに燃え尽きてしまったのだろうか。

「あんたがぁ、いきなりあたしをぶん殴ってしかも逃げ出すからぁ、あたしはわざわざ下界まで降りてこなくちゃならなかったんでしょうがぁ〜」
「仕方ないじゃない! 死にたくなかったんだから。そっちが無理矢理連れて行こうとするから殴られる羽目になるのよ」

 とりあえずこの二人を幻覚と考えるのは難しすぎた。あまりにも知能の低い言い合いに頭が痛くなっていくのを感じながらも、自分が立っていることの馬鹿馬鹿しさに気づいた俺は、腰を下ろして足を伸ばした。途端、香奈は目ざとくそれを見つけて俺の隣にちょこんと腰をおろす。正座をしているつもりらしいが膝の半分は地面の中に沈んで見えた。

「だ〜か〜ら〜、あなたは死んでいるのよぉ。ここにいたらダメなのよぉ」

 女がすごい形相で香奈のまん前に立つ。
 冷静に女の姿を見てみると鎌を持っていることからして、俺の想像の範疇に過ぎないが死神と呼ばれるものなのかもしれない。しかし、その割には香奈に殴られて逃げ出されるあたりがおとボケすぎて、三流コメディ小説でさえ使えないようなバカバカしさがある。とりあえず、いつまでも女としてみているのもなんなので、

「あの、あなたは一体?」
「あたしは死神よぉ」

 女は面白くもなさそうにのたまってくれた。
 夕暮れに染まっていた空はいつしかやみに飲まれ始めている。
 対岸を走っていく車のガラスが陽を反射する。
 町中に響き渡るように鳴くカラスの群れ。
 今日も町の中で生活が終わろうとして――

「タッちゃん? 大丈夫?」
「……あ、いや。大丈夫だ」

 言葉を発した瞬間に、あまりにも予想通りの返事が返ってきて思考が止まってしまった。覗き込んでくる香奈に無理矢理微笑んだ後、女死神の方を向く。

「それで、あなたは香奈を連れ戻しに来たと」
「そうよぉ。強制連行ぉ」
「いや!」

 香奈が首を思いっきり横に振る。いつも自分に嫌なことを言われると香奈は首を振っていた。思わずいつものように手を伸ばして、自分がもう香奈の頭を抑えることが出来ないのに気づいた。香奈もはっとしてばつの悪そうな顔で俯く。女死神は両手を腰に当てて(鎌は浮いているのか、腕に挟まっているのかよく分からない状態になっている)香奈を見下ろした。

「わがままは言わないでくださいよぉ。皆、誰でも死んだらあの世へ行くって決まっているんですからぁ。そのルールを破ることなんて出来ないんですよ、そんなことしたら……」
「嫌だもん! 嫌! 絶対に嫌! ねぇ、タッちゃん。なんか言ってやってよぉ」

 泣きそうな顔で香奈が俺を見る。澄んだ瞳の中に俺を写して。でも香奈の瞳の中の俺はただ当惑げに香奈を見ていた。それ以外、俺は何もできない。あまりにも起こっていることが想像を超えていて、言葉を考えることなんて出来なかった。

 香奈の顔が一瞬で変わった。
 浮かんだ表情はたぶん、絶望。

「もういいよ! 私絶対に死なないから!」

 ギョッとする俺が、声を発する前に、女死神が甲高く叫ぶ。

「もう死んでるんだってばぁ」

 聞く耳をもたないといった表情で香奈は背を向け飛び出した。

「な、香奈!」

 叫ぶ俺を見ようともしない。すごい速さで香奈の姿が町のほうへと消えていった。呆然としたまま香奈がいなくなったほうを見る。
 肌にまとわりつくように風が吹いた。
 香奈が消えた町はいつもどおり静かなまま。
 家々は無表情に鎮座している。
 後ろで女死神が呟く。

「まずいわぁ」
「まずい?」

 振り返った俺の目の前で女死神は自分の爪を噛んでいた。そのあまりにも人間っぽい行動に一瞬唖然としながら、こうなったらなんでもありのような気がして言葉を続ける。

「何がまずいんだよ」
「このままじゃぁあの子、成仏できないでぇ地縛霊になっちゃうわぁ」
「地縛霊?」

 思わず間抜けな言葉が飛び出す俺をキッと(本人はそのつもりだろうが、流し目にしか見えない目つきで)睨むと女死神は腕を組んだ。すでに手から離れた鎌はその横でふわふわ浮いている。

「わざわざぁあなたにも理解しやすい単語を選んであげたのよぉ。よく聞くでしょぉ」

 確かに言葉自体はテレビの特番で何度か聞いたことがある。

「ええっと、つまり、いつまでも成仏できないでとどまり続けてるってことか」
「それって本人にとっても悪いのよぉ。目つきとか、こーんな悪くなっちゃうし」

 言いながら女死神は目尻を左右に引っ張る。小さい子供が「狐の目〜」とかやるのに似ているような顔のままで、「口だってこんなになっちゃうしぃ」と、ひょっとこのような口を作る。

「耳だってぇ」
「いや、もう充分だから」

 女死神が両手で目尻を引っ張りながらどうやって耳の姿を変えるのかには興味があったが、それよりも香奈だ。まさかそんな愉快な顔に香奈がなるとは思いづらいが、もしなってしまったとしたら霊を見れる俺にとってはたちが悪い。

「地縛霊の恐さが痛感できたよ」
「でしょぉ。だったら早くあの子を探さないとぉ」

 女死神はなぜか嬉しそうに胸を張る。その横できらめく鎌を一瞥してから、俺は女死神に向かって両手を合わせた。

「なぁ、あいつを説得するの俺にやらしてくれ。強制連行なんてしないで、ちゃんと成仏させるから」

 さすがにいきなり香奈があの鎌でザッパリとやられるところは見たくない。

「いいわよぉ。別にぃ」

 思ったよりも簡単にOKが出て俺はほっと息をついた。「ただし、今日中」

「ま、マジ!?」
「マジですぅ。じゃないと、間に合わないもの」

 瞬間的に時計を見る。五時五十分。それこそ慌てて香奈が消えた方角を見る。空は急激に暗くなり始めている。あと一時間もすれば完全に真っ暗になってしまうだろう。そうなったら探すのは極端に難しくなる。

「くそっ。世話焼かせやがって」

 誰に言うともなく言って、俺は走り出した。

「頑張ってねぇ」

 後ろから聞こえてくる声は、どう聞いても他人任せのようなやけにのんびりしたものに聞こえた。
 でも、なぜだろう?
 暖かい優しさをその声の中に感じたような気がした。





 街灯があたりに小さな円形の明るい場所を作っていく。ビルのないうちの町では夜になるとしっかりと暗くなってくれる。
 星こそ見えないが、あまりにもひっそりとなりすぎて田舎にでも飛び込んでしまったかのよう。
それでも、住宅の密集する場所ではそれなりに家々は騒がしく、帰ってきたばかりの旦那と奥さんとの間で小競り合いが生まれていたりもする。
 子供がとぼとぼと一人で帰っていくのを通り過ぎ、自転車で新聞を運ぶおばさんとすれ違った。道の角で鳴いているネコに一瞥をくれるまもなく、何個目かの角を曲がる。

(どこだ?)

 夏に一緒に行った青田町民図書館はもう閉まっていた。もし中にいたんだとしたら絶対に見つけることは出来ない。けれど、図書館の周りに香奈の姿がないだけで、ここにはいないと確信できる。香奈は本が苦手だ。

 香奈の行きそうな場所で俺が知っている場所なんてありふれている。
 自宅、近所の公園、通っていた塾、よく言った本屋、映画館……
 頭に思いつく限りの場所へと足を運んでいたら、一日なんてあっという間に終わってしまう。
 自分の馬鹿さ加減を笑いそうになって、ふと、思いついた。

 あそこだ。

 俺と香奈が会った場所。俺たちの放課後が続いていた場所。
 香奈が好きな場所なんて知らない。だけど俺と香奈が好きな場所ならわかる。
 通り過ぎそうになる十字路を慌てて左に曲がった。
 俺たちの場所、新大北高校への道を一心にかけていく。
 きっと、香奈はあそこにいる。

(いなかったら?)

 心の中で生まれる疑問に首を振る。
 ジワリと手の中に汗が生まれた。
 慌てて、ズボンに汗をなすりつける。
 香奈はいる。
 きっと。

「香奈……」



 五分は走り続けたかも知れない。
 高校への道には急な山道こそ無いものの、入り組んだ道が続く。正直、走るには適していない道のつくりをしている。
 一方通行を逆送するたびに、前からの車にクラクションを鳴らされた。
 小さな広場で子供たちがキャッチボールをしている横を走り抜ける。
 自転車置き場の横を通ったときは、思わず鍵の掛かっていない自転車が無いかと横目で探してしまった。

 あたりに目を配りながら走る俺の姿は、まるで財布でも落とした人間のようだ。冷静に自分を観察する自分の心と焦る心がぶつかって、さっきから心臓が痛い。息が荒く口から出る。
 肩が上下に揺れる、腹の下のほうまで痛くなってこらえられるよう強く掴んだ。
 暗い道の中に目を凝らそうと見開けば見開くほどに目は痛みを増す。
 周りの景色へと目を運ぶ時間がどんどん長くなっていく。

 気づいたら空までも見上げている自分がいる。
 電柱、マンホール、ゴミ捨て場、家のドア前、花壇の隅、交番のランプ上、コンビニの駐輪場。

「……っく」

 痛みが思わず口から出た途端に、耐えられなくなった。
 前へ前へと突き出していた足が、力なく一歩二歩と歩く。その途端に体の芯を痛みが突き抜けた。「いや、まじで、やばっいわ」自分の中で大したことないものにしようとしてわざと言った弱音に、逆に崩れそうになる。

「運動不足だなぁ」

 溜息と同時に足が止まった。必死で走ることなんてここのところしていなかったせいで息が上がりっぱなしだ。高校まではまだしばらく距離がある。とりあえず、周りを見渡してみた。
 アスファルトで舗装された道沿いに、家が立ち並んでいる。多くは昔ながらの一軒家だ。同じような建物は一つも無い。壁にボールの跡がついている家が数軒ある。ざらっとしたコンクリートの感触を手に感じながら、近くのブロック塀に寄りかかった。ひんやりと伝わってくる冷たさが心地いい。

「香奈……」

 頭に浮かんだのは背中を向けて逃げ去る姿だった。
 会いに来てくれた。
 どれほど難しいのかなんて分からないその香奈の行為に対して、俺はなぜ無言でいることしか出来なかったんだろうか。香奈の表情を思い出そうとしても、あの絶望を浮かべた顔しか思い出せない。

「いつっ」

 知らないうちに右手を塀に打ちつけていた。ジワリと血がにじむ。赤。
 香奈は事故で死んだ。

 即死ではなかったらしい。

 どれほどの痛みが香奈を襲ったのだろう?
 どれほどの苦しみが香奈の体を蝕んだのだろう?
 どれほどの悲しみが。絶望が。
 そして俺は……

 見上げた空に星は見えなかった。
 雲の無い空には不安定な形の月だけがぽつんと浮かんでいる。孤独な星。そこにあるのが当たり前すぎて、見上げることすら忘れそうになるのに、いつのまにか形を消す球体。
 変わり続けることを信じなかった俺は香奈になにが言えるんだろう?
 香奈のいない日々をまともに過ごせない俺が香奈になにをいえるというのだろう?
 でも、今言えることは一つ。

 香奈に――

 ブロック塀から手を離した。早歩きでアスファルトを踏みながら、段々とスピードを上げていく。すぐにまた腹部が痛み始める。けれどもう立ち止まらない。
 香奈を見つけるまでは。




 
 高校の門はまだ開いていた。部活中の生徒に変な目で見られて自分をよく見直してみたら、制服を着ていないことを思い出した。しかも、肩で息をしている。顔は恐らく真っ赤になっているだろう。やばい人に見られてもおかしくない。
 頭の半分では、ここに香奈がいないことを想像していた。辺りから人の気配が消えても、まだ香奈を見つけられない自分の姿。声に出すことも出来ずに、ただ香奈の姿を探し続ける。すべてが幻だったのではと疑いながら一日が終わらないことをひたすらに願う自分――
 頭を振って嫌な考えを振り払う。校舎へ駆け込んで靴を履き変えた。数日ぶりに履く上履きは冷たすぎて、なんだか自分のものではないような気がした。
 廊下を走るたびに、動悸が早くなっていく。走っているためではなく緊張だ。

 香奈がいる場所は、この学校ならひとつしかないはずだ。
 階段を二段飛ばしに駆け上がる。
 もし香奈がそこにいないのであれば、俺は香奈のことを知らない人間になってしまう。
 男子トイレを通り過ぎた。
 けれど、香奈は。ラストの一直線。俺が思っているほどに香奈は。

「……俺との場所を大切にしていたのか?」
「……あたりまえだよ」

 すねた子供のような声。後ろ姿は少しぼやけて見えた。向こうの景色が透けて見えている。
女子トイレ横の水のみ場には香奈以外の人はいなかった。

「逃げたわけじゃ、無かったんだな」

 香奈の顔に先ほどの絶望を見ることは出来ない。それでも、確かめずに入られない。俺の言葉に、香奈は首を振る。

「逃げたよ。でも、逃げても無駄だから、賭けてみた」
「何に?」
「タッちゃんが来ることに」

 俺の目を見たままで香奈は答える。自信満々なその表情に思わず苦笑してしまう。自分たちの声が響くだけの廊下を見渡しながら、落ち着くように自分に言い聞かせた。走り続けた身体は、ほんのりとした熱気とともに鼓動をいまだ速めている。

「相変わらず、雰囲気ない場所が好きだよな」
「いいじゃん。好きなんだから」

「水のみ場がか?」
「静かで。いい感じの暗さだし。人も来ないし」

「まあ、な」

 安堵とともに、貯めていた息が一気に吐き出された。体から力が一時的に抜けて流し場のステンレスに座る。香奈は立ったまま俺をじっと見ている。

「よく、分かったね」

 そう言った香奈の顔はどこか嬉しそうだった。微笑んだその目から目を離さないまま口を開く。

「香奈との場所だからな」
「そっか」

 俺の言葉に微笑する。重力に支配されることの無くなった香奈の身体は、流し場の上に軽がるように乗った。

「よくここに座って一緒に話したね」
「まぁ、生徒が来ないからな」

 水のみ場は廊下の隅に位置していて、放課後にここまで来る生徒は極端に少なくなる。別に何をするというわけではなかったが、俺と香奈はよくここにいた。

「色々、話したよね」
「ああ」

 授業のこと、先生のこと、クラスメートのこと……二人で過ごした時間がいくつも頭の中に浮かんできた。それは香奈が高校に入って、俺と出会ってから死んでしまうまでという、決して長いとはいえない日々の集まり。けれど、思い返せばいつでも一緒にいたような錯覚さえ覚えてしまう。
 香奈がじっと俺を見ていた。その目が潤んで見えるのは気のせいなのだろうか? 震える口元が無理矢理に笑みを作って言う。

「私にとっては、一目ぼれだったんだよ」
「え?」

 空気が変わった。
 耳が痛くなってくる沈黙の中で、香奈はじっと俺を見つめている。俺は、香奈から眼を話せずにいる。その瞬きから、頬の動きから、口がゆっくりと言葉を作っていくのから。

「……入学式の帰りに、一人で帰っているタッちゃんの背中を見つけて……こんな人が高校にいるんだって……私、高校に一人も友達がいなかったから、高校なんて行きたくなくて。嫌で嫌でしょうがなかった」

 俺を見る香奈の瞳は、今を見てはいなかった。きっと俺と香奈が始めて会ったときに戻っているんだろう。
 香奈の言葉は鋭く俺を刺した。血をこぼさずに、感情を鋭く抉り出す。

『高校に一人も友達がいない』

 だからいつだって香奈はこの人気の無い水のみ場にいたんだろうか。俺を待つまでの間に、孤独を必死に押さえつけて。俺といるときは笑みだけを浮かべるようにしていたのだろうか。

『嫌で嫌でしょうがなかった』

 辛い表情ほど香奈に似合わないものは無かった。悲しそうな香奈なんて一緒にいる間見たことはなかった。いつだって香奈は元気で、何を考えているのか分からないくらい能天気で……

「俺は、結局香奈のことは何も知らなかったんだな」

 香奈は首を振る。まるで、言われることが分かっていたみたいにゆっくりと。

「そんなことないよ。わたしはタッちゃんと会うまでは、なんでもなかったんだから。タッちゃんに会ったおかげで、私になれたの」
「俺に会ったとき……」

「タッちゃん、いつも堂々と歩いてた。誰が歩いていても目をそらしたりしないでまっすぐ歩いていた。私も、そんな人間になりたかった。一体そんな風に堂々と歩いていたら何が見えるのか知りたかった。タッちゃんと、話がしたかった。だから」
「俺たちは、会ったのか」

 自然に口から漏れた言葉はどこか遠くで聞いたような気がした。俺はもう俺の身体にはなく、香奈が見ている場所と同じ所へ飛んだ気がした。
 俺たちが、始めてあった場所へ。


 わざとらしく目の前の少女がハンカチを落とした。それが始まりだった。

『ア、スイマセン』

 妙に硬い挨拶をしながらハンカチを拾った俺に頭を下げた少女。制服がやけに大きくて、少し歩き方がぎこちない少女。

 香奈だ。

 無言で背中を向けた俺に、小走りで追いついて少女は口を開いた。

『ソウイエバ、帰り道イッショデスネ?』

 まるで覚えたてのような棒台詞。

『イッショニ帰ってイイデスカ?』

 ぎこちない笑顔につられるように、俺は香奈と帰り道を一緒に歩いていた。
 それが始まり。
 夕日が俺たちを照らしていた。
 川べりを歩く俺たちが一体どんな風に見えるのかを妙に気にしたのを覚えている。
 そんななんでもない時が俺たちにあったなんて今では信じられないけれど、それでも俺たちは出会い、なんでもないような日々を生きて。そして……


「タッちゃんと一緒だったから、わたし今まで生きて来れたんだと思う」

 すでに命を無くした少女はそう言って微笑む。
 痛みを気づいてやることの無かった俺のすべてを許すように、その笑みは清らかだった。目頭がジワリと熱くなるのを止められなかった。香奈の姿がぼやける。
 俺は香奈が思うほどに上等な人間じゃない。
 そう言いたくて、でも香奈の瞳の前に言葉は違う衣を着る。

「でも、俺は香奈に何も……」

 香奈が首を振ったのが分かった。

「タッちゃんは私に色々くれたよ。毎日がとても楽しかった」

 決して日々は楽しかったという一言だけでは終わらないだろう。香奈を邪険にした日もあったし、会わないように逃げるようにして帰ったときもあった。
 信頼がうっとうしかった。少女から向けられる友愛とは別に自分の中で膨らんでいく欲望が我慢できなかった。俺だって子供なのだから。

「でも、もう私、死んじゃったんだよね」

 寂しそうに手を組むと、香奈は流し場から軽く飛び降りた。当然、音はしなかった。その違和感に一瞬気づくのが遅れて、改めて香奈が死んでいることを思い知らされる。

「……どうにか、ならないのか?」

 思わず口を出た言葉に、香奈の表情が変わる。一瞬驚きで目を見開くようにしたあと、ゆっくりと無理矢理な笑顔を作り出す。

「……無理だよ。わたし、もう埋められちゃっているしさ」
「でも」

「初めに、成仏について怒ったのは、タッちゃんじゃん」

 慰めるよう、おどけた表情をする香奈が痛々しい。自分が言っていることの不可能さにあきれながらも、なおも願わずにいられない。

「もう、死んだんだよ。私は」

 子供に言い聞かすような香奈の声が胸に突き刺さる。
 何ができる?
 何が言える?
 目の前の少女に、与えられるものなど何も無くて俺は黙る。香奈は何も言わない。
 ぎこちない沈黙がゆっくりと時に流される。
 うつむいた視線の先にあるのは汚れたタイル。
 言葉無く見上げた先で、香奈は何かを乞うように俺を見ている。

「……だったらせめて最後は屋上に行こうぜ」

 ぱっと香奈の顔が明るくなった。なぜならそれは香奈の生きていた頃の数少ない願いの一つだから。

「本当に!?」

 嬉しそうな笑顔に、余計胸が苦しくなる。

「ああ。せめて最後くらい俺にカッコつけさせてくれよ」

 手を差し伸べる俺に、一瞬香奈は躊躇して見えた。それでも、恐る恐る俺たちの手は重ねられる。感触の無い二つの手を見ながら、香奈は小さく頷いた。

「うん」





 屋上には思った以上に簡単に出ることが出来た。ドア横にある窓ガラスの立て付けが悪いことは有名だったし、なにより屋上近くに先生の姿は無かった。
 体を無理矢理外へと押し出す俺の後ろから、音も無く香奈はすり抜けてくる。

「うわ、ずるいなそれ」
「へへーん。いいでしょ」

 お互いに無駄な軽口を言って、屋上のコンクリートを一二歩歩く。俺は足に固さを踏みしめて。香奈は宙に浮いたままで。
 空はもうすでに闇で覆われていた。月がぼんやりと出ている。滲んで見えるのは、俺のせいなのかもしれない。星の瞬きはひとつも確認できなかった。ただ視点をずらすたびに、輝きを捉えたような気になるだけ。

「凄いひろい空」

 うっとりした声で香奈は言う。

「校庭から見る空と同じだろ」
「そんなことないよ。すごく、空が近い」

 なにかいいかえそうとしても、上手く言葉が浮かばない。ただ、香奈が見上げている空をじっと見つめる。香奈と同じものが見えるように。

 沈黙が苦にならないといえば嘘だった。

 息遣いさえしない香奈は、ふと気がついたときにはもういなくなってしまっているような危うさがあった。いつのまにか、空ではなく香奈の横顔を見ている俺がいる。不安で早くなる鼓動を抑えられない。

「……タッちゃんに、私が見えてよかった」

 空を見たままで香奈は笑みを浮かべる。

「まぁ、見ようと思って見えるもんじゃないからな」

 頷きを返す俺に、香奈が笑みを向ける。

「もし、タッちゃんに私が見えなかったら、お別れの挨拶もいえなかったもんね」
「香奈……」

 視界が急に悪くなった。頬を伝うもののせいだと分かっても、今更流れるものは止められない。ぼやけた視界の向こうで、香奈は微笑を浮かべている。体の前で腕を組んだその姿勢は、いつも香奈が俺の気を引くときにしていたものだった。分かっているはずなのにへんに意識してしまう悔しさ。思い出した感情は、けれどあまりにも遠く、懐かしい。

「忘れないでなんて言わないから」

 変に澄んだ声。寂しさを押さえつけたせいで、余計に寂しく感じる。

「ばっか、何言ってるんだよ。忘れるわけ」

 慌てて首を振る俺に香奈は手を伸ばす。触れられない手の平に、俺は首を触れずにただ固まる。

「タッちゃんは、これからもずっと生きるんだよ。ずっと。私のことなんて、いつまでもうじうじ悩んでいたら駄目だよ」

 香奈の目はどこまでも優しい。
 俺はどんな顔をしているんだろう?
 泣きはらした瞳で。無茶ばかりを言うこの口で。

「香奈……」

 呟くことしか出来ない。……好きな人を。

「タッちゃん。長生きしてね」

 香奈の体が風に舞う。あまりにも自然に宙に浮く。俺の手の届かないところへふわりとつく。

「もう、行っちまうのか?」

 駆け寄ろうとする俺を、静かに手で制した。

「うん。だって、このままじゃ成仏できなくなるもんね」

 無理に笑おうとしているのを見るのは辛かった。何も言い返せないままの俺の胸元めがけて、香奈は指で作った銃を向けた。

「もし、死んだりしたら殺しに行くからね」
「わけわからないこと言うなよ。ばっか」

 泣き笑い。なおも流れる涙で前は見えなくて。ただ見えているのは香奈の指先。俺の心臓を貫けばいいのに制止したまま。また一歩前へと足を踏み出す俺に、ただ香奈は首を振る。

「もう、お別れ、だよ」

 その時、見た。

 幽霊であるはずの香奈の体が、小さく震えた。
 向こうが透けて見えるぼやけた顔から、その瞳から、溢れ出してきた水滴。
 頬を伝うように流れ落ちて、空気へと溶ける。
 香りさえ漂わすよう霧散した水滴。
 空気の中に揺らいで消える。
 涙。

(そうか)

 静かにただ一筋だけ流した香奈を見て、俺は全身を突き刺された気がした。
 幽霊も泣ける。
 ただ、香奈は泣かなかっただけだ。

「お別れ、か」

 涙を拭った。急にはっきりとする視界で香奈を見た。睨みつけるように見る俺の視線にまっすぐとただ立っている少女。

「うん。バイバイ、だね」

 ニッコリと笑って、香奈は手を振る。

「バイバイ、だな」

 俺も、あわせて手を振る。
 風が吹いていた。
 月の光はおぼろげで、やんわりと俺たちを照らしていた。雲はあくまでのんびりと逃れていて、星は一つも見えなかった。街の喧騒はやけに遠く感じた。瞬くように灯り続ける家々の光はとても儚げで、ホタルのようだった。俺が走ってきた道にも、もう人は見えないだろう。

 一日はすでに終わりを迎えようとしている。
 俺たちの今日を、なんでもない日々の一ページにして、町は眠りの時間へといつもどおりの時間を過ごしている。
 香奈の体がゆっくりと上がっていった。
 追わないままに、俺は香奈をじっと見ていた。
 俺たちは手を振り合う。
 笑顔を浮かべたままで。

「バイバイ」

 香奈が大きく叫んだ。
 俺は応えた。

「またな」

 何でその言葉を言ったのか分からない。
 言った瞬間に、二人して笑っていた。

「またな」

 香奈が俺のまねをして言い返す。
 勢いよく手を振り合う。
 香奈はどんどん上へと上っていく。
 上って。上って。上って……
 やがて、見えなくなった。
 俺は、ただ静かに泣いた。
 香奈を想って。
 俺たちの時を想って。
 これからの、俺を――

「……ありがとうございます」

 後ろで声が聞こえた。
 振り向かないままに、俺はその声が死神のものであることに気づいた。姿を見せないままに、声だけが耳元にそっと流れる。

「おかげで、あの子は成仏できるでしょう」

 口調は初めにあったときよりも、ずっと大人びていた。けれど同じ、声。

「……ずっと、見ていたのか?」
「いいえ」

 なぜだか俺には、死神が嘘をついているような気がした。微笑したままで、俺たちをずっと見ていたような。そんな気配はまったく感じなかったのに。

「もう会わないでしょうね」
「俺が死ぬまでな」

 今度こそ本当に、死神は笑ったみたいだった。

「死んだら、殺されちゃいますよ」

 そのまま声は風へとかき消されていく。

「見てたんじゃんかよ」

 気がついたら涙は止まっていた。
 頬に当てた手が、変に歪んだ顔の形に気づく。
 今鏡を見れば、きっと俺は笑えているんだろう。





 一日、一日がゆっくりと過ぎていく。
 毎日学校への道を行き、授業を聞き、友達とふざけ、放課後には川べりを歩きながらのんびりと帰る。家に着いたら眠るだけ。夜中に時々次の日の宿題をやったりする。

 香奈の家族は引っ越していった。

 この町には思い出が多すぎるんだろう。香奈と俺との関係を、香奈の両親はおそらく未だ何も知らない。いつのまにか引越しのトラックが来て、いつのまにか香奈の家は空っぽになっていた。
 そして、また違う家族がその家には住み着いた。

 俺は日々を生きている。

 ただ、毎日を繰り返して。消耗して、磨耗されていく精神が、いつか磨り減りきるのではないかと時々恐れながら。
 時々、耐えられそうに無いときは香奈の声を思い出す。

『死んだりしたら殺しに行くからね』
「ばっか。誰が死ぬかよ」

 鼻で笑って、愉快になって。徐々に思い出せなくなっていく香奈の表情を浮かべながら。
 きっといつかは香奈を忘れて、日々を生きている。
 きっといつかは毎日の中で何かを見つけてそれに一日を費やしていく。
 でも、今は。

「またな」

 そう言った、自分の心を大切にしたい。

 秋が終われば冬が来る。
 春になればきっと――

あとがき
恋愛ものを書いてみたい。
しかも、純粋なものを。自分の中のピュアさを信じて。

で、書き上がってみたら案の定、
どこか歪んでいたり

この作品は、実は2年かけて書き上げた。
純愛ものに、2年……しかも、この短さ(汗)
やはり、
私に純愛は無理だと思い知らせた作品である。

最後まで読んでくれて、ありがとうございました。