嘘ツキ 作楽静
「ふーん、ふふん♪ふふふん♪」
軽いリズムが、のんびり打つ蹄の音と共に草原に広がる。道々の花は風にゆられ、青い空をゆっくりと雲が行く晴れた昼下がり。
「元気だねぇ、坊主」
馬車の手綱を握り、変わり映えのない景色に退屈していた老人が、その音に並びの悪い歯を開けて振り返った。途端輝く少年の目が気づき、真っ直ぐと見返す。
「元気だよ、じいちゃん、なんせ春だもん」
少年、ことガインは、さもあたり前だと言わんばかりにニカッと笑った。
「そうか、そうか」
自分の孫でも思いだしたのだろう。老人は、ガインの言葉に目を細めて何度も頷いた。
「ん?……どうしました?」
そんなやり取りに、寝転がっていたグラスは眠そうな顔を上げ、瞬間目を見開く。
「ちょ、ちょっと、おじいさん、前、前」
「なに?……おおぉぉ」
馬車の前には、地に反抗するように生えた木が迫っていた。あわてて老人は手綱を打つ。
「ヒヒーーン」
人間にしてみれば、引退してもおかしくない年になる老馬が、悲しそうに一つ嘶き素早く体を右に移動する。
馬車は大きく右に傾きながら、何とか木を回避した。しかし。
「わぁぁぁっ」「おわぁぁっとと」
「なんじゃくそがぁぁ」
体重が急に軽くなるような感覚の後、体が右側に流されていく。傾いた馬車は、右側の車輪のみを使い、何とかバランスを保っているという状態だった。あわてる青年と、少年と反対に、ヤケに老人の目は輝く。
「どうぅぅ」
唾を吐きながら叫ぶ言葉に、馬が体を左に運ぶ。と同時に老人も体を傾け、空中にいったん静止するような短い間の後、馬車はドスンと地面に着地した。
「……死、死ぬかと思った」
「ちょっと酔ったかも知れません」
馬車の端にしがみついて、少年と青年は、息も絶え絶えに呟いた。それを見て、この経験深い年寄りは大笑いする。
「はっはっは、こんの程度のことで驚いてたんじゃぁレダムの船にゃあ乗れねえぞ」
2人は一瞬キョトンとし、顔を見合わせ、そして同時に口を開いた。
「「レダム」」「ですか?」
「ことわざだよ、こ・と・わ・ざ」
年寄りは、わざと区切って言い、さも常識だと言いたげに、指をピンっと立てる。
「お前らが向かうスティムの村生まれの海賊だよ。海軍と戦うなんて無謀なことしたからそんな言葉が生まれたってわけだ」
「へーそうなんだ」
ガインは明らかに愕いた顔をする。一方グラスの方は考えるように顎に手を置いていたのだが、老人はガインの顔に興味を引かれたようだった。
「そうなんだって、お前らあの村にはレダム目当てで行くんじゃないのか?」
それ以外に何の価値もない村だと、その目は言外に告げている。
「いえ、私達は」
グラスは、年寄りの疑問を、やんわりと消そうとした。しかし。
「俺達は、あの村に手紙を届けに行くんだよ」
ガインが先に、手まで挙げて先を続ける。
「ほう、あんたら配達人だったのか」
「ええ、まぁ……」
笑みを見せて老人の言葉に頷きつつ、グラスはそうではないと言いたい衝動に駆られた。その事を、まるで見透かしたようにガインが口をとがらす。
「じいちゃん、俺らただ手紙を届けに行くんじゃないんだよ。一緒に人の心も届けるんだ」
「ガインっ」
グラスが大声を上げるのをよそに、老人は白い歯を覗かせたる。
「そうかそうか、心の配達人というわけか」
「そ、そう言うこと」
ガインの満面の笑みにもう一度笑うと、老人は途端真剣な顔で前を向く。
「それなら……早く村に運んであげんとの」
言葉と同時に強い手綱の音が響きわたる。
「ヒヒーーン」
馬は、進む足にさらなる加速を付けた。舗装の悪い道を、円い車輪が安全に通るのは無理があり、そのため、馬の軽やかな走りとは逆に、馬車はガタガタ揺れながら前に進む。
「あ、ダメ、俺本当よっちゃう」
「私も……ダメかもしれません」
馬車の隅に体を押しつけ、グラスとガインは必死に飛ばされないようにしながら呟いた。
「だから、村にすぐ行けば良かったのに」
「降りた場所に、誰かいたら困るでしょう」
愚痴るガインに、グラスは苦笑する。
「ああ、何か言ったかよぉ」
「何でもありませんから前向いてて下さいっ」
振り返った年寄りに、再びグラスは大声で前を向かせた。
「レダムの船には乗れない、か」
風が、後ろに流されていく。
ガインの呟きは強い風に吸い込まれ、遠い遙か彼方へと運ばれていく。
……馬車は、確かに二人があらかじめ尋ねていた時間よりも早く着いた。しかし、二人が動けるようになるには、しばらく時間は必要だった。
「うう、気持ち、悪っ」
「本当ですね。揺れない馬車が出来るのは、いったいいつの頃ですかねぇ」
『スティム村』そう小さく書かれた看板の前から、互いに手を差し伸べあって、村の中へと足を伸ばす。
「さっさと仕事を終わらしてしまいましょう」
質素な村。グラスは、馬車での老人の言葉を思い出した。『レダム目当て……』そう言った彼の言外に含まれていた意味は、このことか。と、一人納得する。
旅人を招くという言葉を知らない薄汚れた村入り口のアーチ。その目の前にある広場ででは、年寄り達がただ座ってぼうっとしている。奥に見える家々も、不思議なほど静かだ。薄暗い夜の空を背景に置くと、その村はまるで死んだように静かで、そして寂しかった。
(これではこちらまで……)
グラスは少し足早にそこを通り抜けようとした。と、足を踏み出して三歩も行かないうちに、その袖をガインの腕が掴む。
「ガイン?」
「俺、ダメ。今日、もう、動けない、わ」
表情は青ざめ、足取りはまるでへたくそなダンスを踊っているように頼りない。
グラスは、そんなガインを心配そうに見、ふと両手を組んで考えるような仕草をした。
「……怒るでしょうが」
「俺を休ましといて、勝手に仕事終わらすなんてダメだよっ」
「……でしょうね」
キッと自分を睨む瞳にいつもより力がないことを知りながら、ため息と共に提案を引っ込める。ガインは、そんなグラスに力の無い笑みを見せる。
「大丈夫、時間がたてば治るから」
「……ひとまず今夜泊まる宿を探しましょう」
もう日は暮れかかっている。一日ぐらいこの村で体を休めてもいいだろう。どうせ、当初はそういう計画だったのだ。
グラスはそう自分に言い聞かせると、ガインの腕をひょいっと自分の肩に回した。グラスの方が背が高いので、どうしてもガインは背伸びした格好になる。
「ちょ、ちょっとグラスっ」
「歩きにくいでしょ?肩ぐらい貸しますよ」
「ちぇ、子供扱いすんなよ」
「してたらおぶってますよ」
頬を膨らますガインに、グラスはフフフと笑いかけた。途端プイッとその顔が横を向く。
「ふん、勝手にしろよ」
「はいはい」
グラスの方は、ヤケに嬉しそうに笑う。その言葉に、ガインはもう一度「ちぇ」と舌打ちをすると、グラスを少しでも煩わせないようにと、少し大股で歩き始める。
「あ、もう少し、ゆっくり歩きましょうか?」
足幅の違いに気づき、あわててグラスは歩を落とした。しかしガインの方はそんなグラスの言葉に、首を強く左右に振る。それは大人に近づきたいと思う少年の、わずかな抵抗。
(なぜ口で言わないんだろう?)
しかしグラスは気づかず、しかたなくそのままの速さで歩く。おかげで二人はそろって、ぎこちなく村を進む羽目になるのだった。
「……もう大丈夫」
そう言ってガインが肩を貸されることを断ったのは、村の中腹に来た頃だった。
「そうですか」
まだ顔色の悪いのを心配しながら、ガインの腕を肩からはずす。
「普通に歩いた方が、よっぽどいいって分かったよ」
少しよろけながらも前へ一、二歩歩いてから、ガインはおどけた顔で振り返ってみせる。
「そう言えば、そうですね」
思わずグラスは苦笑した。
「でしょ」
少し照れながらガインは前を向く。そして口から漏れたのは驚きの声。
「あっ」
「何ですか?」
驚いてグラスがガインに向くと、ガインは細い路地に向かって指を差した。
「あっ……」
そこには、両腕で自分の体を抱いている少女が一人立っていた。寂しそうで、そして辛そうに。必死に泣きそうになるのを堪えているようにも見える。
(迷子?)
グラスは一瞬そう思ってから、自分の考えがやけにおかしいことに気づいた。少女の年は、七歳か八歳ぐらい。可愛らしい青のワンピースで身を包んでいる。確かにまだ幼いと言えそうだが、こんな小さな村で迷子になる年だろうか?
「ねえ、どうしたの?」
グラスが考えているうちに、ガインの方は心配げな顔で少女に近寄っていた。腰を落とし、しゃがんだ格好で優しく少女を見つめる。
少女は、声をかけられるまで二人の存在に気づかなかったのか、ビクリと体を震わせた。瞬時に、その顔に怯えが浮かぶ。
「大丈夫。何もしませんから……ただ、どうしてこんな所にいるのかと」
ガインの後ろから、グラスが口を開く。
「そうそう。こんな所にいたら夜寒いだろ?家に帰らないの?」
じっとガインが心配そうな顔で少女を見る。その顔をじっと見つめ返し、少女は少し緊張が解けた顔で呟いた。
「だって、家に帰っても誰もいないんだもん」
「え?」
ガインの顔が驚きに染まる。グラスの方は、冷静な表情でその言葉を受け止めた。
(孤児ですか……それで)
「お父さんと、お母さんはどうしたの?」
「……死んじゃった」
「………そう」
ガインは、何を言っていいのか分からなかった。考えるように、頭を右左に動かし、そして困った顔でグラスに振り返る。
「……お嬢さん。住む場所もないんですか?」
グラスはガインに変わって少女の前にしゃがみ、その顔を見つめた。
「……あるけど」
「じゃあそこに帰らなくちゃいけませんね」
「だって、一人じゃ寂しいんだもん」
「私達も一緒に行ってあげますよ。とにかく、こんな場所に一人でいてはいけません」
ぎゅっと少女は自分を抱きしめる手に力を込めた。その腕にグラスはそっと触れる。
「……私達を信用して下さい。」
威圧感をあげないよう、グラスは下から少女を見上げるようにして微笑む。うんうんと、その言葉にガインは大きく頷いた。
「…………」
一瞬少女はほくそ笑むような表情を見せた。
(え?)
まるで、自分のいたずらに引っかかった人を笑うような明るい笑み。
「分かった。来て」
しかし、それはすぐに消え、寂しげな表情で二人に背を向ける。
(見間違いに違いない)
そうグラスは思うことにした。
「グラス、行っちゃうよあの子」
「あ、ああ、はいはい。行きましょう」
ガインの言葉に、あわてて立ち上がると、少女の後を追いかける。と言っても、幼い子だけに歩幅も小さく、歩いているせいもあって簡単に追いつけた。それよりも少女に歩幅を合わせる方が大変とわかる。
「ねえ、グラス」
「何ですか?」
グイッとガインが袖を引っ張る。振り返った目に映ったのは、納得できていない顔。
「あの子、孤児、なのかな?」
「親がいないって言うんだから、そうだと思いますけど」
なるべく足を止めないようにしながら、でも、とガインは先を続ける。
「俺は……迷子だと思ったんだけどな」
「それは………私も思いましたけど」
「いや、そうじゃなくて……」
違うと言いたげに頭をかく。一秒、二秒。その顔はやがて、言いたいことを言葉に出来ないもどかしさに歪み、両手で何かを作るように動かし、思いを必死に形にしようとする。
「なんですか?」
「いや、だから……うまく言えないんだけど」
「ああそれなら大丈夫ですよ、浮かんだ言葉をそのまま言ってください」
不安げなガインに、グラスは笑みを浮かべた。まるで相手のことなど、全て分かっていると言いたげな、安心感を与える笑顔。
「そ、そう?」
ガインは、明らかに安心した表情になる。
「ん、とさ、あの子、迷子なんじゃないかな?」
「………?」
表情に出てしまった疑問符に、ガインは明らかに落胆めいた顔になった。あわててグラスは自分の胸を片手で指して頭を下げた。
「すいません偉そうなこと言ったのに」
「ううん、俺の説明が悪かったんだよ。グラスのせいじゃないよ」
言いながら、ガインは顔を俯かせる。何を言っていいのか分からず、グラスはただおろおろした。その手が、そっとガインの肩に触れようとし、躊躇する。
「あの、ガイン……」
言いたいことが見つからない同士、互いに気まずくなる。二人は目の端に捕らえた少女の後を、ただただぎこちなく追い歩き続けた。
カチャカチャと食器のふれあう音が、家々の中から聞こえ始める。静かな通りはもうすでに終わり、一日の終わりを迎える家の食事の匂いが、辺りに広がる。家族と呼ばれる個々の集団の、騒がしく、そして暖かい声に、定着し始めていたイメージが変わっていく。
町の入り口の寂しさに比べて、辺りの家々は、明るい家庭の色が見えていた。思わずホッとしたような安心感が広がる。しかし、とグラスは目の前をただ黙々と歩き続ける少女を見た。弱々しく幼い背中は、ぬくもりという言葉を知らないように見えた。
「……………」
ピタリと、少女が足を止める。
「着いたんですか?」
グラスが声をかけた。その声に、俯いたままだったガインがはっと顔を上げる。と同時に、少女はこくりと頷いた。
「ここですか……」
平凡な一軒家。ドアの近くには手入れの行き届いた花壇が設けられ、外装は、粗末だが汚れ一つついていない。古くなった部分は補強がされ、漆が塗られている。生活感が溢れる家。そんな気がした。……そして窓。
「あ、グラス」
ガインの言葉に、すでに気づいていたグラスは頷きを返す。少女以外誰もいないはずの窓からは、暖かい光が漏れ、中では誰かがせわしなく動き回っていた。
「明かり……それに人が……どうして?」
ガインの呟きに、少女はただ顔を傾ける。その手はもうすでにノブに伸びていた。はっとしてグラスがその手を押さえる。
「ダメです。中に人が……」
「大丈夫」
絶対の自信を持った表情で、少女は笑った。あどけない、純粋とも呼べる笑みに、何か自分がいけないことをしているような気分になる。自然とその手が少女の腕から放れた。そして、少女はノブに手をかける。
「ただいま」
静かな音一つたてドアが開く音。そして、柔らかいランプの明かりが、少女と二人に注がれる。その時、二人は確かに呆気にとられた顔をしていた。二人の目に映ったのは、笑みを浮かべる一人の女性。
「お母さん」
その胸に、少女は何の躊躇もなく飛び込む。
「あらあらこの子は、まったく遅いから心配してたのよ」
「ごめんなさい」
さっきまでの寂しそうな顔は露と消えて、少女の顔に明るさだけが残る。
「え?」「なんで?」
二人は、訳が分からないまま同時に互いを見、もう一度、目の前に立つ女性を見た。その二人に、初めて彼女が気づき、少しあわてたように少女を胸から下ろす。
「どちら様ですか?」
不安と、ほんの少しの警戒がこもった声。
「え、いえ、私達は」
状況についていけないグラスは、それだけを言うのが精一杯だった。しかし、その後を少女が元気に繋ぐ。
「あのね、この人達村に用があったんだけど、もう夜だからって、どこかで休もうとしたらしいの。でも、この村って宿屋無いでしょ?それに、泊めてくれる親切な家もないだろうから、家に来たらって連れて来ちゃったの」
「そう」
別段嫌な顔もせず、彼女は言うと、体を動かして、今だ抱きついたままの少女をやんわりと離し、半開きだった扉をそっと開いた。
「そんな所にいたら寒いでしょう?たいした物はありませんけど、どうぞ中には入って下さいな」
「え、あ、は、はい」
「どうも」
思わず頭を下げる。しかし二人とも動いていいのか分からずに、再び互いを見交わした。目の前にあるのは、小さいながらもキレイに片づけられた食卓。その上には食器が三つ、そして作った人が、相手のことを思いやっていることが十分に分かる美味しそうな食事が並べられている。そこは、家族のみが許された聖域に思えた。
「ほら、寒いですから、ねっ」
女性の手が、何のためらいもなくグラスの腕に伸びる。
「あっ」
そのまま、引かれるままに、グラスは家の中に足を踏み入れた。あわてて、ガインもその後を追うように家の中に入ってくる。
「さ、どうぞ」
キレイに片づけられた食卓の周りを動くと、彼女は食器の場所を移動させ始めた。部屋の隅に立てかけてある折り畳みの椅子を二脚引っ張ってきて、二人の場所を作ってしまう。
「あ、あの、本当にいいんですか?」
「ええ。食事は人数が多い方が楽しいですし。もし、ご迷惑ではなかったらですけど」
断るのは悪い気がした。事実お腹はすいている。それに、先ほどの少女の話では、この村には宿がないらしい。
「……すいません。お言葉に甘えさせていただきます」
悩んだ末に、グラスは女性に頭を一つ下げた。それを見て、あわててガインもそれに続く。フフフと、辺りをパァっと明るくしてしまうような笑いが彼女の口から漏れる。
「はい、たいしたもてなしは出来ませんけど」
言いながら、椅子を引き、二人に座るよううながす。
「どうぞ」
「は、はい」
「すいません」
ぎこちなさの消えないまま、二人は椅子に座り、途端しゃちこばった。その様子にまた少し笑うと、彼女は自分の服にしっかりとしがみつく少女に笑みを向けた。
「そろそろお食事にしましょうね。ミネア、ほらそんなところを掴んでないで、おばあちゃんを呼んできてちょうだい」
「え……」
甘えるようにしがみついていた少女に、サッと暗い影が差す。
「さ、早く行ってらっしゃい」
「……うん、わかった」
少し俯いて少女が頷く。パッと母親から手を離すと、その後ろ姿が、パタパタという音と共に部屋の奥へと消えていった。
「すいません、家の母が来るまで、もう少し待っていてくださいね」
「え、あ、うん」
「は、はい」
二人とも気まずい思いをしてるのを察したのか、彼女は絶えず微笑を浮かべながら、二人の前に食器を出し、暖かいスープを注いだ。目の前で湯気を出すスープに、ガインはすっかり興味を奪われたようだった。横目でそんな彼の表情を見て、グラスは小さく笑った。なぜか妙に嬉しい。しかし、すぐにハッと気がついたように顔を上げる。
「あの、失礼ですけど、あなたはあの子の」
「母親です」
笑顔のまま、当然のことのように彼女は答える。途端に、グラスの中で萎みかけていた疑問が膨らみ始めた。それはガインも同じらしく、考え込む素振りを見せたグラスに変わって疑問を口にする。
「あの、さっき俺達あの子に、自分の両親は、もう死んで一人なんだって聞いたんだけど」
不躾とも言えるガインの言葉に、彼女は初めて困った表情を見せた。
「うそ、なんです」
「うそ?」
「ええ、確かにあの子の父親。つまり私の夫は何年か前に死にましたけど……私もいますし、母もいますから」
「どうして、お嬢さんはそんな嘘を?」
「あの子、なぜかつい嘘をついてしまうんですきっと。でも、悪気はないんですよ。ただ、……いたずらの好きな年頃ですから」
「はぁ、そうなんですか」
「だまされたってこと?」
グラスの納得できない顔を横目に、グラスはトホホな顔になる。
「すいません」
「いえ、そのおかげで、こうやって温かい食事をとれることになったわけですから」
「そ、そうだよ。逆に感謝したいぐらい何だよ」
二人の言葉に、彼女はほっとした表情で顔を上げた。
「そうですか」
その時になって、部屋の奥から声が聞こえてきた。そして可愛らしい足音が響く。
「おばあちゃん、大丈夫?手を貸そうか?」
相手を労る優しい少女の声。しかし、それをしゃがれた声がはねつける。
「余計なことをするんじゃないよ!」
「ご、ごめんなさい」
少女と共に姿を現した老婆は、とても疲れた顔をしていた。なぜか目だけは鋭くこちらを見ている。まるで存在する者全てを憎むような眼孔。その横で、少女は初めて会った時のように、両手で体を抱いている。
「あ、お母さんこの人達は……」
「ふんどうせ、また嘘つき娘が連れてきた浮浪者達じゃろう」
がたんと椅子を大きく鳴らし、老婆は不快を露わに座ると食器に手を伸ばした。
「いただくよ、まったくスープが冷めちまう」
あたりに気まずい空気が広がるのもかまわずに、ただ一人食事を口にし始める。
「あ、じゃ、じゃあいただきましょうか……ほらミネア席について」
「はい」
暗い雰囲気を一人笑顔を浮かべることで消し去ろうと、母親だけは元気よく椅子に腰をおろす。しかし、少女は俯いたまま席に着くと、無言でスープを口に運んだ。
「あ、お客さん達も、どうぞ召し上がれ」
「あ、はい」
グラスもガインも、自分達が場違いな気がしてしょうがなかった。家々の中に見えた暖かい家庭とは、明らかに違う食事がそこにあった。食器の動く音。それだけが食事が確かに行われていることを教えてくれる。
「あ、そう言えば」
この雰囲気を打破すべく、ガインが少し陽気に口を開いた。途端老婆はギロリと睨み、すぐまた食事に目を落とす。少女も何の反応も示さない。ただ一人、「まあなんですか?」と、母親だけが興味深そうにガインを見る。
「え、い、いやあ、あの、その」
暗い雰囲気で何かを言うことに、ガインはなれていなかった。何か言いたそうに頭をかきながら、チラチラとその目がグラスを見る。
器用にスープを口に運んでいたグラスは、その視線に気づき、瞬時に意味を理解する。
「そう言えばここに来る時に、ずいぶん乱暴な運転をする馬車に乗ったんですが」
そうそうとガインが頷く。グラスはいかにもおかしいことのように言ったのだが相変わらず老婆と少女は反応を示さない。
「乱暴な運転ですか?」
唯一母親だけが、この会話をとぎらせないようにすることを義務と感じているのか先をうながした。
「ええ、もういい年なのに、ずいぶん乱暴な運転で……まあおかげで早く着くことが出来たのは確かなんですが、もう乗り物酔いをしてしまって、しばらく動けませんでした」
「まあ、それはおかわいそう」
他愛のない相づち。それでも、その場を何とか明るくしようと気を使っているのは確かだ。母親の言葉をうけて、今度はガインが口を開く。
「そうそう、途中までは良かったんだよねぇのんびりしてて。でも、俺達のしごとのこと話したら、急に張り切っちゃって」
「この村には仕事で来られたんですか?」
明らかに、ガインの顔に「しまった」と焦りが浮かぶ。
「ええ、実は私達、手紙を届ける仕事をしているんです」
グラスが、助け船を出すよう早口で行った。
「そうなんですか」
頷く母親に、ガインはほっとしながら、あわてて話題を変える。
「その運転手さんさ、いきなり後ろ向いて運転したりすごい危ない人で、俺達が驚いてるとさぁ、笑うんだよね『そんなんじゃレダムの船には乗れんぞ』とか言っ」
バンっ!
「て……?」
強くテーブルを撃つ音に、ガインはビクッと体を震わし、思わず口をつぐんだ。グラスも驚いたように音をたてた人物を見る。
「……わしゃ疲れたからね、寝るよ」
凄まじい形相で老婆はそれだけを言うと、何事もなかったように、さっさと席を立ってしまう。
「お母さん」
心配そうな母親の声。しかし、老婆はただフンッと鼻を鳴らす。
「お前のことだから、そいつらを今夜家に泊める気なんだろう?」
「え、ええ」
「私の部屋に入れるんじゃないよ」
強い声で一瞥を与えると、老婆はそのまま背を向け、部屋の奥へと消えていく。
「………はぁ」
母親はため息をついて、肩を落とした。
「あ、あの、俺なんか悪いこと」
「いえ、そんなこと無いんです」
すまなそうに顔を俯かすガインに、母親はあわてたように左右に首を振った。
「……レダムの船には……辺りで機嫌を悪くなされたようですが」
グラスの言葉に、母親ははっと顔を上げた。そして、浮かんだのは戸惑い。胸に支えた物語を、誰かに話してしまい欲求と、それを押さえつける抑制の衝突。
「……ミネアそろそろ寝ないの?」
話題を逸らすように、母親がミネアを見る。それは、話そうとすることが、幼い娘に聞かせたくないことだと言外に言っているような物だった。無言で少女が首を振る。困ったように、母親は少女と、二人を交互に見た。
「実は……」
「あたしが嘘つきだからいけないの」
愕いた顔で母親が娘を見る。ガインとグラスも、驚いて目の前の少女を見た。じっと我慢するように座っていた少女の口から出た言葉。それを、彼女はもう一度繰り返す。
「あたしが嘘つきだからいけないの。おばあちゃんは、あたしのこと嫌いなの」
一言一言、まるで絞り出すように言う少女の目から、一滴、水がテーブルに落ちた。瞬間小さくはねて、細かく別れる。
誰も、何も言い出せない。
「おじいちゃんのこと嘘ついたからおばあちゃんあたしのこと嫌いに、でもあたし嘘ついてないのに、でも嘘つきにならなくちゃだっておじいちゃんは嘘つきじゃないんだから!」
言葉が支離滅裂に並び立てられる。
「ミネア、そう、そうだったの……」
母親は、全てを理解して、少女に腕をさし伸ばした。
「ゴメンね、分かってあげられなくて」
「お、お母さぁん」
わっと少女はその胸で泣き出してしまった。母親がやさしくその頭を撫でる。
静かな、少女が泣くにしては大人びた泣き声だった。辺りの食器が、振動にかたかたと細かく揺れる。まるで、少女と一緒に泣いているように、それはとても悲しげで、そして寂しかった。やがて、母親は娘の頭を撫でながら小さく呟いた。
「………お話を、私達の話を聞いていただけますか?」
「は、はい」
「俺達で良かったら」
突然の展開に、二人はどう言っていいのか分からずただ頷いた。全て分かっている上で母親は言っている。そんな気がした。
娘の頭を撫でながら、母親は小さく呟く。
「………レダムは、『引き知らずの海賊』と呼ばれたレダムは、私の父です」
「なっ」
「そ、それは」
驚きの連続に、二人は疲れることなく、顔を見合わす。その様子に、母親は疲れたように笑い、先を続ける。
「父は、とても強い人でした。そして、優しかった………」
褐色した肌。どこの父親よりも、強かった父親。それを彼女は誇りにしていた。そして、その横にピタリと寄りそうにいた母親。海賊と言っても、いつも狙うのはあくどい取引をしている金持ちの船で、それも決して人は殺さなかった。どんな強い船からも決して引きはしない。父は、海の男であり、戦士だった。
少女であった自分は、海賊の娘であるという差別をうけることはなかった。村の人全てが父を、そして母を好きだったおかげで、そのため、少女であった彼女の脳裏には、嫌な思い出一つ無い。そう、少女であった頃には。
「私は、人並みに結婚し、こうして、可愛い子を授かりました……」
好きになった人は、やはり父のような海賊だった。力強い男で、父の片腕として働いていた。誰からも祝福され、結婚し、そしてネリアが生まれた。しかし。
「本当、こんな事ってあるのかしら……そう思ってしまうくらい運命的なことだったのかも知れません。でも、いつかは訪れるべき事だったんです」
海の向こうから、黒塗りの軍艦がやってきたのは、娘が六歳になったばかりの頃。
『海軍』
大国の軍が、近辺の海を支配するために、海賊を次々と潰している。そんな噂が出たのは、一年も前の話だった。そんなこと無いと、何遍も自分に言い聞かせていた事が、今日明日の事実として、着々と近づいていた。
「『絶対帰ってくる』私の夫は、そう言ってくれました。今でも覚えています。あの時、夫の背にしがみついてでも生かすベキじゃなかったことはよく判っているのに、それでも私は、笑顔で言ったんです。」
『嘘つき』
そう言われた愛する人は数秒驚いたように止まり、そして頭をかいた。まるで、これから遠足に行くような気楽さで、『そうだな』と呟いた後、そのまま背を向けて自分の船へと歩いていった。
本当に悲しいときには涙が出ないことを知ったのは、その時だった。人間の心なんて、なんて嘘つきなのかと自分を笑い、泣けぬ自分を誇りに思った。
「私は、仕方ないと思ってました。好きだからこそ、死んでほしくないという気持ちはあります。でも、そのせいであの人が男であることをヤメさせることは出来ません。もし私の言葉で、あの人が行くのを止めるなら、あの人は私が好きになったあの人であるわけがない……そう思うことで、どんなに救われたか。……それでも、母は父を止めようとしました。船長である父が船を出さなければ、誰も死ぬことはないと言って。……父は、母の言葉にただ黙って家を出ていきました。母は、ショックを受けて……そして、そして」
今更流れ出した涙を、彼女は拭わないでいた。ぎゅっと少女が母を抱く手に力を込める。
「この子が言ったんです……」
『おじいちゃん、「こうさんする」って言ってたよ』
可愛らしい少女の言葉に、母親と、祖母が心を動かされたのは事実だった。
『あしたになったらね、白いおハタをあげるんだって。たいこくの人にあやまってゆるしてもらうんだって。もしかしたら、何年か待たせるかもしれないけど、ゆるしてくれって』
『本当に、おじいちゃんがそう言ったの?』
祖母が訝しげに聞く言葉に、少女はただ頷いた。こんな小さな子が、降参という言葉を作り話の中に入れるだろうか。もしかしたらという思いは、そうであってほしいという希望となり、母と、祖母の胸をときめかせた。
そして、まんじりとしたまま夜が明け、二人は、息が白くなる朝方の寒さにかまわず、村の一番高い丘に登った。遠くで、ドンという高い音と、水しぶきが上がるのが聞こえた。恐る恐る、二人は船の帆を見た。
「……船には、赤い帆が風を受けてなびいていました。それは、わざと赤いペンキで塗られたようで、真っ赤に、まるで血のように染められ、私達は、最後まで戦おうとする、父と、夫の気持ちを知ったような気がしました。……そして、それから母は笑わなくなりました。娘のことを嘘つきと呼び、心を閉ざしてしまったように……」
堪えきれない思いが、彼女の頬をつたい、触れた手を濡らしていく。
「あたしは、ヒック、嘘なんて言ってないもん。ヒック、でも、おばあちゃん、うそつきだっ、て、言うから。嘘つき、にならなくちゃって。あたし、ちゃんと、聞いたもん。おじいちゃ、んに、聞いたもん」
「そうね、聞いたよね。ごんめね」
(二人とも、辛かったんですね)
グラスは、目の前で涙を流す親子に、漠然とではあるがそう感じた。
母親は、娘を信じたかったのだろう。しかし、もし、本当に嘘をついていたらと思うと、それを確かめることが出来なかった。そして、少女は、自分の真実が、嘘になったことにショックを受け、どうしていいのか分からなくなってしまった。
(ああそうか)
『迷子みたいだ……』
ガインの言葉が脳裏によみがえり、グラスはやっとその意味を理解した。少女は、家に帰る道が分からない迷子だったのではない。自分が、一体どうしたらいいのか分からず、迷い続ける迷子だったのだ。
「よかったなぁ。何か、よく判らないけど」
しみじみととした言葉に苦笑しながら、横目でガインを見て、グラスはギョッとした。いつの間にか片手に握ったハンカチで、ガインは自分の目頭を押さえつけている。どうやら、二人を見ていて、溢れてくる物があったらしい。
本当に、この同僚は人の心を考えることが出来る。嬉しさと共に、誇らしさで胸がいっぱいになる。
グラスは、少女を見た。まだ少し不安そうだが、母親との会話で、少し安心を覚えたようだ。母親の方は、娘の真実に触れたおかげで、ずっと楽な表情になっている。
(後は……)
その目が、じっと部屋の奥を見、そして次の瞬間微笑みを浮かべる。
カサッ。
右手に突如触れた感触に何ら疑問を持たないまま、それを目の前にかざす。それは、四角い封筒。
(大丈夫、全てうまく行く)
「あの、今日は……」
母親がその言葉の意味に気づき、あわてて口を開いた。
「はい、是非泊まっていって下さい」
「ありがとうございます」
思った通りの言葉にグラスはニコリと笑いガインを見てウインクをする。
一瞬戸惑いを見せたが、ガインはすぐに元気よく頷いた。笑みを浮かべながら、二人して親子に向き、仲良く二人でウインクする。
「え?」
「あれ?」
驚いたように母と子は小さく声を上げた。驚きが顔に広がっていく、それはやがて……。
「だれだい」
ドアが開く音に、枕元のランプで読書をしていた老婆は、機嫌悪そうに顔を上げた。
「……手紙を、届けにまいりました」
老婆が何も言わない内に、二人の若者は部屋の中に入ってくる。
「あんたら、あの子の……いったい何なんだい、人の部屋に勝手に入って。手紙だって?今のあたしは機嫌が悪いんだ、さっさと出ていきな」
「そうは行かないんだおばあちゃん。なんせこれが僕らの仕事だからさ」
「仕事?」
「誰かから誰かへ。心から心へ手紙を届ける。それが私達の仕事です。おばあさんにお手紙ですよ。この村から、少し離れた場所から」
訝しげな表情を浮かべる老婆に、気にせずグラスは一通の手紙を差し出した。
「何だって言うんだ。こんなのあたしはいらないよ」
「嘘だと思っていた物を、一生嘘だと思い続けるんですか?」
「何?」
老婆が方眉を上げる。片手を胸に置き、もう片手で手紙を差し出した格好のまま、グラスは言葉を続ける。
「真実は一つしかありません。しかし、それの解釈は無限にある。嘘とは、真実でない物を、真実だというように相手に思いこませること。……でも、真実にしたかったのに、嘘になってしまうときもあるんです」
「何のことを、言ってるんだい?」
「白い旗が無かったのかも知れない。船長は降参したかったけど、周りが反対したのかも知れない。赤と白を間違えたのかも」
「な、あ、あんたら、娘に話を聞いたんだね」
ガインが肩をすくめる。グラスは困ったように少し笑って、老婆の手に手紙を乗せた。
「読んでください。何が嘘なのか……あんな幼く可愛らしいお孫さんを、嘘つき呼ばわりするのは良くありませんよ」
「…………」
グラスの両の瞳に押され、老婆は手紙を受け取った。不満が残る顔のママ、仕方なさそうに封を開ける。
「なっ」
瞬間、溢れたのは光の洪水。それは辺りを包み込むように明るくし、老婆の体を包み込む。老婆は宙に浮くような感覚をうけ、思わず恐怖に目を瞑った。
「降参しようと思ったんだ……」
ツンとした塩の匂いにビクリと体が震える。耳に届くのは、何年もの間待ち望んで止まなかった声。決して間違えることのない人の。
「あ……」
そっと目を開け、絶句する。
「ミネア……俺達の孫に言ったときは、もう降参する気だった。海賊の名を捨ててでも、お前と一緒にいたいと思った。だけど、だけど、仲間の前に出ちまったら。……あいつらは、俺のために今まで危ない橋も一緒に渡ってくれた。そいつらを、俺は自分のためだけに納得させることは不可能だった。いや、したくなかったんだ……許してくれ」
目の前には、若く逞しい男が立っていた。所々太い腕には傷が付いている。しゃがれた太い声なのは、海の風にやられたのだと言っていた。見たままで、あの日別れたままの姿で、男は目の前に立っていた。
「………………」
視界が涙で揺れる。もう全て出し尽くしたと思っていたのにと、老婆は苦笑した。そして気づく。自分はいったいいつから笑ってないのか、と。ぐっと、流れる涙を拭い、老婆は皺の増えた顔のまま笑みを作った。
「まったく、嘘つきだねあんたは」
とても、晴れ晴れとした、それは優しい笑顔だった。
「………手紙、受け取っていただけましたか?」
遠い場所から響く声に、老婆は気づき生き生きとした顔で頷く。
「ああ」
「……返事、書く?」
同じように響く声。そう言えば、食事の時にろくろく見なかったけど、二人とも結構いい男だったねぇ。なんて、思い出して、老婆はまた笑顔を浮かべた。そして思う。全て勘違いだったのだと。おかしいような、馬鹿馬鹿しいような、不思議な感覚のまま、老婆は返事を待ってるだろう二人に言った。
「あったりまえじゃないかい」
「……フゥ」
ため息と共に、パイプの煙が空に浮かぶ。今日もいい天気だ。退屈とも呼べるような景色に、馬車に寄りかかったまま、老人は思い出し笑いをした。
「そういや、昨日は元気なガキを乗せたっけ」
暇で暇でしょうがなかった自分に屈託のない笑顔を浮かべた男と、その保護者らしき二人連れ。どこかで、一度あったような気がしたのだけれど、最後まで思い出せなかった。それが、この退屈な陽気の中でふと閃く。
「はは、そうかそうか」
分かった途端、老人はおかしそうに笑う。
「そうだ、夢ん中だ。たく、ああいうのを正夢って言うのかねぇ」
ポンッと、陽気に自分の頭を叩く。と、その目に、元気に走り寄ってくる姿が映った。
「おじいさんっ」
「お早うございます」
「なんだガキ共、ずいぶん速いじゃねえか」
もう会うこともないと思っていた。まさか考えている途中に現れるなんて計算外だった。だいたい、自分が運んだ村から、この停留所までは、どんなに急いでも半日はかかる。
「一体お前等、どうやってここまで来た?」
「へっへぇ。秘密」
そう言って笑う少年、ガインの横で、片手で花束を抱いたグラスが近寄り手を差し出す。
「……な、なんだ?」
「手紙。返事を受け取ってきました」
「なっ」
その手に現れたのは四角い封筒。彼は、その手紙に見覚えがあった。
「あ、あれは夢の中での出来事じゃあ」
「夢?さて?私達はあなたに手紙を出すよう言われたはずですけど」
「い、いや、確かに言ったが」
「ならいいじゃん。夢なら、そんなこと無いだろ」
当たり前と言いたげにガインは言う。し二人とも、いたずらっ子のような表情を顔に浮かべていた。何か納得できない顔のまま手紙を受け取る。
「……手紙というと。渡したのか?」
「ええ、喜んでいましたよ」
グラスの声に、封筒を開けかけていた手が一瞬躊躇する。恨みの言葉かも知れない。もしかしたら罵倒が詰まっているかも知れない。
(……それでもいいか)
自分は生き延びてしまったのだ。あの戦いで、自分だけが、船長である自分だけが生き残り、捕らえられ……そして、長い牢獄生活の後釈放された。帰れるとは思っていない。
ピリリ。
小さな音一つさせ、封が切られる。中には入っていたのは、小さな紙切れ。
「…………」
その紙に書かれた字をじっと見て、年寄りは静かにおえつを漏らした。
「…………へ、お、俺よりも短いじゃねえか」
笑うように言った言葉は、強がりにしか聞こえなかった。もう、字を追うことも不可能なほど、その目は潤んでいる。
「これを、どうし……」
ふと浮かんだ疑問に、年寄りは顔を上げた。
「………なっ坊主!」
しかし、そこに二人の姿はない。変わりにあるのは小さいながらも可愛らしい花束が一つ。思わず、手の中の手紙と花束を見比べる。
「…………夢、なわけないな」
フッと小さく笑みを漏らすと、年寄りは立ち上がり、花束を拾い上げると、馬車の中に放り投げた。そして、さも大事そうに手紙を後ろポッケにねじり込むと、よいしょと運転席に腰をおろす。
「はっ」
「ヒヒーン」
空を切る鞭の音に、老馬が一つ鳴いて走り出す。……目的地は、たった一つ。
「……終わったねぇやっと」
「二日がかりの仕事でしたねぇ」
しみじみとガインとグラスは、下を眺めていた。真っ直ぐと村へと続く道を、一頭の馬車が進んでいく。パタパタと、ガインのはねが動き、飛び上がった。
「さて、父さんに報告に行こう」
「ええ」
日に向かって飛んで行くガインの後を、グラスもあわてて追いかけていく。
「そういえばさ」
後ろを振り向いて、ガインは少し惜しそうな声を上げた。
「何ですか?」
「あの子がくれた花束、あのおじいちゃんにあげて良かったのかなぁ」
「……いいんですよ」
『おばあちゃんがね、「ミネア」って呼んでくれたんだ』
それが、自分達のおかげだとは思わなかったにしても、少女はとても嬉しそうな顔で、二人に花束をくれた。
『今日はね、何かいっぱい良い事がありそうな気がするの。だからそのお祝い』
そう言って笑う顔は、もう迷子ではない。ただ、自分達がいつの間にか布団で寝ていたことについては、少し不思議そうだったが。
「だいたい、私達は花束を持っていけませんからね、上まで」
「ま、そうだよねぇ」
クスクス二人して笑うと、天に向かって飛んでいく。人はきっとそれを、天使と呼ぶのだろうと知りながら。
完
昔、この作品を書いた後推敲無しで投稿してしまい、 しかも人物の名前を間違えていて大恥をかきました。 そんな素敵な思い出が物語には必ず一つはついているものですよね。 いえ、信じませんよ「んなのお前だけだろ」ってのは(汗) 嘘。それが正しいと呼ばれる事があるのか、実際わかりません。 でも、正しさなんて判らないから。 皆が幸せに思えるのならいいのかも知れない。 なんてちょっと悩みながら生まれた作品。 手法自体はありがちですよね(苦笑 |