理由(わけ)

 小野寺雪子が死んでから三日経った。
 けれどまだ、
 気づいた人はいない。

 母親に呼ばれたような気がして小野寺純は目を覚ました。身体を起こそうとした途端に、筋という筋に亀裂が入ったような痛みを覚える。疲れだろうか。顔をしかませながら無理矢理にベットから半身を起こす。
 貧血の前触れのような軽い頭痛。頭を振りながら、一瞬自分がどこにいるのかわからなくて純は辺りを見渡した。

 カーテン越しの薄暗い光の中で、天井に張られた風景画の写真はどれも色褪せて見えた。ドアから絨毯がベッドや本棚の下を這うように広がっている。色は赤。ベッドの中で未だに起きない姉を動かさないように気をつけながら、純はベッドから降りて鏡の前に立つ。

 姉である小野寺雪子は死んでいる。純が殺した。

 双子である姉を殺してしまった理由に、純は適当な答えをまだ見つけられていない。鏡の中に写る顔は、男か女かを区別しかねる中世的な顔立ちをしている。頬の筋肉に少し力を入れて笑みを作れば、いつもの姉の微笑が鏡に映される。姉とほとんど同じ長さのショートは、染めてもいないのに少し赤黒かった。気になって触った指に塊がくっついては剥がれていく。

 これは血だ。

 布団から出たばかりのときには感じなかった寒さに、身体がビクリと反応した。丁度立っている位置はクーラーの風の通り道らしい。姉の身体をいつまでもそのままに留めるために、部屋の温度は最低の温度で保たれている。

「ご飯よ」

 母親が呼ぶ声が、驚くほど近くで聞こえた。部屋の中を見渡して、母親は部屋の中に入ってくるはずがないことに気づく。もう、純の部屋にも声をかけたのだろうか。いつもなら軽く聞こえるノック音が、この二三日は聞こえてこない。

 笑みの消えた無表情な顔が雪子の机の上を眺め回す。机の左側に置かれた雪子の写真。高校に入ったばかりの時に撮られたものだ。その中で雪子が作り出した微笑みを、純はどうしても作ることが出来なかった。苛立って叩いたせいで、写真立てにはヒビが入っている。チラリと一瞥してから、少し乱暴に写真を倒した。

 ベットに寝たままの姉を見る。もう、起きることはない。わき腹に差し込まれたままのナイフは、シーツに血を吸わすだけ吸わせて、なおも沈黙している。

 無言のまま純は壁に掛けられた姉の制服に手を伸ばした。


 姉の部屋を出ればシンとした廊下が階段へと続いている。小さくきしむ音をさせながら階段を下りる。時々右手が触れそうになる手すりは、父親が日曜大工で制作したもの。油断して掴んでしまうと、階段のきしみよりも酷い音を鳴らす。階段の音に顔をしかめさせながらも、スカートを器用に揺らして純は階段を下りていく。手すりを頼りそうになる右手を左手で押さえつけて。

 居間のテーブルには、もう料理が並べられていた。サラダに、炒め物、そしてご飯のシンプルな食事が四人分。純は一番ドア側にある席に着く。本来ならばその席は雪子のものだった。しかし、純の真向かいに座る父親は、何も言わずに新聞で顔を隠したまま。目の前の料理にも手をつける気配はない。

 母親の姿は居間にはない。けれど疑問を抱くことなく純は目の前の食事を静かに食べ始めた。手元を見ることがなかったせいか、気がつくと右手の甲に軽いやけどの跡を発見した。じっと数秒、料理を食べることを忘れて純は傷を見て首を傾げた。

 居間の時計が鳴る。八時。

 純の顔が無表情に時計を見る。そして目の前の食事を。雪子の通う学校に行くためには八時十分のバスに乗らなければいけない。食事は、後十五分は食べ終わりそうにない。迷うまでもなく箸を置く。
 椅子から降りたとき、音を立ててしまった。がさりと、父親の新聞が動いた。思わず謝っていた。

「ごめんなさい父さん」

 しかし、純の口から出た声は、純のものではない。高く響きながらどこかにざらつきを持った声。雪子の声。
 父親は何も言わなかった。
 純は何事もなかったかのように姉のカバンを持ち、姉がいつもするように軽くスカートから埃を叩き落とした。静かに階段を上る。そして、

「ねぇ、純。一緒に学校行こう?」

 姉の向かい側にある部屋へと声をかける。ドアの向こうには、三日前までぬいぐるみに囲まれた布団で眠る純がいた。カーテンを閉め切った部屋の中で。名前を付けたいくつものぬいぐるみに喋らせて孤独を紛らわす純が。
 部屋からの答えはない。これも、いつもと同じ。

「そう。じゃあ、私行くね?」

 姉は――純は寂しそうに微笑むと、親には挨拶することなく家を出た。
 もうすでに外は秋めいていながら、陽射しだけは眩しく瞳を刺してくる。
 そして思う。
 かわいそうな弟。家を出ることが怖くて、閉じこもったままの。ひとりぼっちで寂しがっている。私の弟。

「お姉ちゃん、心配だわ」

 口から出た言葉とは正反対に、口元はどうしようもなく、ゆがむ。笑いをかみ殺すように奥歯に力を込めた。
 湿気を帯びた風にスカートを気にするふうを装いながら、膨らんでくる自身を片手で押さえつける。
 興奮している自分を認めることは難しかった。自分自身への説明をあきらめて、純は姉となって歩き出す。

 また同じ日が始まる。
 三日間、変わることのない一日が。


 バス停では視線を合わすことのない人々が全く別々の目的を持ちながら同じバスを待っている。何人か、雪子の学校の制服も見かけることができる。そして純の通っていた学校の制服も。
 もと同級生の姿を見つけたが、向こうは純には気づいていないようだった。片手に持った単語帳のページを、もう片方の手で繰りながらぶつぶつと何か呟いている青年。彼の眼鏡が嫌味に見えて、純は嫌いだった。この三日間、会う度に露骨に不快感を顔に出してきたが、相手は全く気づく気配がない。それは、まるで、

 まるで自分などいないかのように?

 わき上がった疑問に、血の気が引いていくのが分かった。思わず手を髪にやる。まだ少しざらつく髪を引っ張れば、顔をきしませるほどの痛みが襲う。

 大丈夫。いる。

 挑むように、純は自分を見ない男を睨みつけた。男はまだ単語帳を繰っている。勉強のみに集中する顔は、端から見ると滑稽で、純は睨んだ自分が可笑しくなって少し笑った。
 バスが止まる。
 ドアの開く音に、元同級生は体をこわばらせた。前の人間が歩き出すのに慌てて、単語帳をポケットにしまう。定期券を取り出すその目が、一瞬宙に浮いたように純には思えた。

 そして、彼は見た。純を。

 一瞬、二人の視線が交錯した。純はまだ髪の毛を手で掴んだままだった。心臓の鼓動が跳ね上がったように、大きく耳に響く。
 けれどそれも一瞬。

 単語帳の代わりに定期を取り出した彼は、あわただしく前の人についてバスに乗り込んでいく。後ろの人から押されるままに、純は姉の定期を出してバスへと乗った。奥へと歩きながら、また単語帳を広げている彼の姿を見かける。目を合わせられずに、彼の後ろの席へと着く。理由の分からない痛みを心臓のあたりに覚えながら、そういえば今日もシャワーを浴びずに出たことをぼんやりと思い出した。

 姉の学校へ着く数駅前で、純の学校へ通う生徒達はバスを降りていく。単語帳とにらめっこをしたまま席を立つ彼は、一度も純を見ることなく、降りる生徒に続いてバスから消えていった。空いた席には、姉の学校と同じ制服の生徒がうれしそうに腰を下ろす。女子校の生徒らしくおとなしい雰囲気の彼女はしかし、後ろの席の純には気づく気配がない。他学年なのだろうと、いくら言い聞かせても、鼓動は収まらない。

 気がついたら、片手は髪を掴んだままだった。


 姉――小野寺雪子の通う学校へは、『高島女子大学前』という駅で降りてから、人の波に乗っていれば自然とつくことができる。この駅で降りる人に男はいない。生徒も、教職員も女性ばかりである高島女子大学付属高校では、バス停からすでに女性だけの聖域が始まる。
 おしゃべりをしながら登校する高校生や、ちょっと大人びた雰囲気で歩く大学生を後目に、純は弱々しい歩幅でゆっくりと学校を目指す。

 バスでの出来事が、まだ心の中に引っかかっていた。自分が学校に行けなくなった嫌な思い出が、心の表面に今にも浮き上がってきそうな気がして、必死に抑えようとしているのに、上手く抑えられてくれない。

『誰?』

 面と向かって言われた言葉。同じクラスになってから、もう半年以上も経つというのに当惑した顔。耳に届いた言葉よりも、その表情が記憶に焼き付いて剥がれない。
 痛い。体にできた痣よりも。ずっと。

『ばっか、同じクラスのオノダだろう?』

 野球部の矢沢が肩をたたきながら、なあ?と当たり前の事を聞くように顔を向ける。その脳天気な顔に拳をぶつけることができたらと、頭の中がくしゃくしゃ音を立てる。

 オノダじゃなくてオノデラだ。

 口に出して言えなくて背を向けた。
 途端突き刺さったのは言葉。

『まぁ、でも、別に話さないからいいだろ。覚えて無くても』
『お前、それ隣の席になった奴に言う言葉かよ』

 哄笑。嘲笑。笑いはきっとそんな種類のものではなく、ただ自分たちを仲間だと確認しあう程度のものだったのだろう。けれど、純はその笑いの一つ一つが背中に小さい刃となって突き刺さるのを感じた。表に見える傷跡は残らないけれど、体の内側がぼろぼろと崩れ去っていく。
その後から出てきたのは、何もない自分。

 そして、逃げた。
 チャイム音が響く。
 途端駆け足になる生徒達。
 走って逃げろ。逃げろ。逃げろ。

 気がつくと、のんびり校舎へと歩いているのは純一人だけだった。生徒達の後ろ姿をぼんやりと見つめながら。なぜ自分はここにいるのだろうという疑問が頭をもたげる。逃げ出したはずの学校に、舞い戻るわけでもなく、それでも学校へと、行く。

「ねぇ、純。一緒に学校に行こう?」

 声が、咽から出たようには思わなかった。姉に話しかけられて、あるはずのないドアを開ける。一歩、学校の門をくぐる。すぐ後ろを、駆け抜けていく少女を見送りながら純はうなずく。
 分かっているよ姉さん。

 だから、来た。


 教室に入った途端、女性ばかりの空間に圧倒されそうになった。
もうこれで三日目だというのに、慣れることは難しい。迷うことなく、姉が使っていた席へと腰を下ろす。窓側の前から二番目の席。

『日当たりは良いんだけど、眠くなるんだよね』

 ドアの向こうで雪子が話したとおり、日当たりもよく、窓を開ければ涼しげな風が頬をくすぐる。揺れる前髪が少しうっとうしい。窓から眺めれば、三階にある二年生の教室からは、校門がよく見えた。
 窓を細く開けて、風の音に目を閉じる。耳へと流れ込んでくる低い叫びと一緒に、教室のざわめきが波のうねりとなって脳で合わさる。何を言っているのかまでは聞き取れないのに、確かにそこにある声達。

 初めて教室に来たときにはその中に自分の名前が出てくるような気がして仕方がなかった。二日目にはもうばれているのにも関わらず誰もが知らないフリをしている気がしていた。三日目の今日は、落ち着いた気分で声を聞くことができる。誰も、今の日常が変わることなど信じていない。昨日のドラマについて語り合っている彼女たちの中には、クラスメートが入れ替わると言う考えなど、ドラマ以上にあり得ない話に違いない。

 どうしようもなくおかしくなって、けれど寂しさに純は俯いた。
 この三日間。誰も話しかけてくる人はいなかった。
 席について、先生の話をただ聞き、昼の時間を一人で過ごし、そして帰る。昨日も、一昨日も、毎回少しずつ進む授業とは別に、純が過ごす日々は同じだった。

 一人だ。

 強烈に感じる孤独感を埋めるものは何もない。
 姉も、一人だ。
 教室のドアが開き、教師が入ってくる。ヒールを床に響かせ、威圧感ある歩き方で生徒のおしゃべりを切り裂いていく。
 目をつぶったままで純は、姉のことを想った。
 一体彼女がこの席でどう時を過ごし、何を想っていたのか。

『ねぇ、純。一緒に学校に行こう?』

 耳を打つ風をうるさく感じながら、ドア越しに聞いた姉の声を思い出す。その声の中にあった感情は、どうしても掬えなかった。


 三時間目が終わるまでのほとんどの時間を、純はただ黒板を眺めて過ごした。何人かの教師が黒板に書く字を眺め、それが消され、また新たな字が加えられるのをただ見ていた。時にはその字が英語になり、数字になり、図形になり、グラフになった。純が全く感慨を覚えぬままに時間を過ごしていても、教師は何一つ文句を言いはしなかった。指されもしなかった。

 次第に、自分の周りの空気が薄くなっていくような感覚を覚えても、どうすることもできないまま、ただ純は髪の毛を幾度と無く引っ張った。頭皮に感じる痛みが、そのまま自分の存在の証だと言うように。机の上に何本か抜け落ちた髪がそれぞれの方向を向いて散らばる。けれど純は机を見ない。

 脳裏に浮かんだのは、雪子の話。

『今日、学校でね――』

 学校から帰ってくると、雪子はいつも純の部屋の前に立ってその日の学校の話をした。

『これって、クラスで今一番人気のある先生の話なんだけど……』

 授業の話。先生の面白い口癖。友人の話。どじな友達がお弁当を忘れて、みんなからわけでもらったと言うエピソード。

『こんな事もあったんだ……』

 哀しい話よりもむしろ面白い話が多かった。純を笑わせようとしてのだろう。ドアに鍵をかけたまま出てこない弟へ、雪子は懸命に外のおもしろさを伝えようとしていた。

『知子がね。お昼に出前頼んじゃって、先生に怒られていたのよ』

 クラスには佐藤知子という女子がいたけれど、ショートヘアの彼女は、いつも内気そうな友達とペットの話ばかりをしていた。純の方を向いたことは、この三日間、ない。

『部活の先輩がね、こないだ智美に告白したんだって』

 雪子が入っていると言っていたテニス部では、誰もが純を初めてみる人間のように見た。いたたまれなくなって、帰ったその日、そういえば姉の部屋にはテニスのラケットも、練習着もないことに気づいた。

『あ、ごめん。ちょっと友達から電話かかってきたから、出てくるね』

 雪子の言う「友達」から、電話はかかってきたことがない。雪子の持っていた携帯のメモリーには、家族の名前と親戚の電話番号しか記録されていなかった。

『大変だけど、やっぱり学校って楽しいよ。だから――』

 その後に雪子の口から出る言葉はいつも同じ。熱がこもった声で、願えばいつか叶うと信じるような気持ちを込めて。

『だから、純も一緒に学校行こう?』

 嘘。嘘ばかりで作られた日常。扉を挟んだ向こう側じゃ見えなかったけれど、もしかしたら雪子はいつも泣きそうな顔で純の部屋のドアを見ていたのかもしれない。

「嘘ばっかし」

 ぽつりと呟いた言葉に重なるように、チャイムが鳴った。
 その時出た声は、雪子の声にしてはどこか低くとがっていた。
 

 授業終了のチャイムが流れると、ホットしたような雰囲気が中りに広がる。ぼんやりと黒板が綺麗になっていくのを横目に、純はまだ姉の事を考えていた。

「オノデラサン」

 だからかけられた言葉が自分のことを呼んでいるのだと、数秒気づかずにいた。

「オノデラサン?」

 キンっと頭の中でグラスをたたいたような甲高い声。神経質そうな声のふるえは、若さからの余裕のなさにも思える。はっと、自分が今まで漂っていた空間から切り離されて、純は声の方を向く。

「小野寺さん。いい加減にして欲しいんだけど」

 声をかけながら片方の手が眼鏡を直す。純に向いてとがった唇はやけに乾燥していた。後ろで三つ編みにされた髪を、わざとらしく制服の前側にかけている。髪型はお世辞にも似合っているとは言えない。全体的にきつそうなイメージを受けた。

「な、なにが?」

 とまどいを覚えながらも、姉の声が自然と口から出る。もう自分の声よりも声が出るまでの流れは楽だった。脳の隅でチカリと(自分の声を覚えているのか?)思考が浮き上がったのを、無意識に抑えつける。

 笑顔を浮かばせることも、案外簡単だった。張り付けられた笑みを見せれば、声を発した少女は不機嫌そうに腕を組む。

「なにが、じゃないわよ。何でそうやって座っているのよ。これで三日じゃない。何かあったんなら、言いなさいよ。心配でしょ」

 威圧高に言う声が、心配という言葉とは別に、不快感を持って純の頭に響いた。言われた言葉の半分も理解できないでいるうちに、少女はまた口をとがらせる。

「だいたい、何があったか知らないけど、私たちを無視するなんて酷いじゃない。そりゃあ、小野寺さんは優秀だから、私たちと話をしたくないのかもしれないけど。でも、私たちは友達だったんじゃないのぉ?」

 わざと語尾をのばしても全然声にかわいげがなかった。『私たち』と言う言葉に彼女の後ろを見てみれば、似たような格好の少女が二人、純の方をにらみつけていた。二人とも、腕を組んで顔にめがねをかけている。

 純には三人が一体誰なのかすら分からなかった。クラスの人間だったかも確かではない。当惑が自然に浮かび上がってくるのを抑えて、当たり障りのない言葉を選ぶ。

「ごめんなさい。ちょっと、考え事をしていたものだから」
「へぇ。三日間も。ずいぶん悩んでいるのね」

 椅子に座った純を見下すように見下ろしたまま少女が言う。何がおかしいのか、後ろの二人が互いに笑みを交わしあった。

「べつに、私は良いのよ。小野寺さんが一人で過ごしたいんだって言うんだったら、一人で過ごしてくれても」

 露骨に少女の顔には優越感が浮かんでいる。おもわず、まじまじと純は少女の顔を見ていた。やけに狭いおでこの下で、手入れの行き届いていない眉毛が左右バランス悪く八の字に曲がっている。後ろの二人はこの少女の腰巾着なのだろうと頭の隅で理解する。少女の笑みはどこかいやらしく、不潔に見えた。

 姉はこんな人と本当に友人だったんだろうか?
 頭に浮かんだ疑問に、心の中に浮かんだ姉は答えない。それよりも、徐々に膨らんでいく不快感の方が純には問題だった。
 これ以上話をしていたくない。
 わざとらしいほどの柔らかい笑みを浮かべて、純は言った。

「ありがとう。だったらそうしてくれる?」

 名も知らない少女は明らかに驚いたようだった。その後ろで、同じ格好の少女二人が、同じ表情で純を見ている。何か心地よさを覚えて純は、その光景を見ることをやめにした。耳だけを少女らに向けて、窓の外を見る。開いたままの窓から顔へと吹いてくる風へ、髪を流させたまま目を閉じる。

「小野寺さん? 本当に、いいの? 私たちがいなくても」

 耳に届いた少女の声はどこか狼狽しているように聞こえた。少女達に見えないように、純は小さくほくそ笑む。口からは優しささえこもった姉の声が流れ出る。

「ええ。いいわ」
「そ、そう。じゃあ私たちいくわね」

 精一杯自分を優位に立たせようとしているのだろう。少女の声は最後まで高圧的なものだった。しかし、それも今の純にとってはどうでもいいことだった。ただ風の流れを感じていればいい。自分は孤独に落とされたんじゃなく、孤独を選択した。その事実が純の体中を巡って、自然に笑みを浮かばせる。
 残りの授業を受けている間中ずっと、純は今までにないほどの気分の良さを感じていた。

 
 六時間目の授業が終わると同時に、学校の雰囲気は放課後と言う言葉に染まる。帰りのホームルームを始める先生の言葉を聞かずにおしゃべりを始める生徒達。これからの待ち合わせをしているのか、携帯電話をいじることに余念のない少女もいる。それとなく教室中を見渡して、純は、先ほどの少女達が姉のクラスではなかったことに気づいた。安心したようなちょっとがっかりしたような気分になる。自分は結局他のクラスの人間との交流関係を断ち切っただけで、このクラスからは切り離されているにすぎないのだと思い知らされる。

 背中を少し丸め、教室の女子から逃げるように廊下へと出た。廊下を歩く生徒や走り回る生徒達に肩を時々ぶつけながら、純は昇降口へと降りていった。

 今日も一日が終わる。

 ぼんやりと靴を履き替えながらふと思う。今日も一日、自分は小野寺雪子だった。誰も怪しまなかった。それ以前に、誰かが不思議に思わなければいけない場面すら訪れなかった。体育でもあれば、困ることになっていたのかもしれない。けれど、未だ中性的な体格を保ち続ける純の一部は、姉が使っていたパンティの中に綺麗に収まっている。そして姉もまた、中性的な一面を保ったままだったのか、胸の成長は遅かった。体格で気づかれるような心配はない。

 いや、それよりも前に、誰が気にするというのだろう?

 校門を出ながら、ぼんやりと一日を思い浮かべてみた。今日話しかけてきた人間は、結局眼鏡をかけたあの少女だけだった。クラスの中に純に――姉に興味を持っている人は一人もいない。雪子という存在だけを置いて、クラスはそれなりのまとまりを維持している。

『私たちは友達だったんじゃないのぉ?』

 体中から優越感を発しながら少女が言った言葉がよみがえる。と同時に、あの時感じた疑問も。
 姉はあんな人とでしか友達になれなかったんだろうか?
 今考えるならそれはイエス。毎日のように学校へ行くように話していた姉は、まったく友達がいない少女だった。

『ねぇ、純。一緒に学校行こう?』

 本当は、雪子は学校に行きたくなかったのかもしれない。自分よりもよっぽど。
 そんなことを考えても、結局純は雪子が何を考えていたかなど、自分には分からないことに気づいた。同じ格好をしていても、同じ髪型でも、同じ声でも、同じ思考を持つことはできない。一卵性の双子ならば、互いの思考が分かることがあるらしい、と何かの書物で純は読んだことがある。

 けれど、純と雪子は二卵性。雪が降る日に生まれたせいで、両親は何ら考えることなく、女の子のほうを『雪子』と名付け、純白の雪からあやかって男の子の方を『純』と名付けた。名前すら言われなければ関連が分からない二人は、お互いの意志など分かるはずがないのだろうか。

 気がついたらバス停に着いていた。ちょうどやってくるバスに、押し込まれるように乗りながら、純は雪子の日記があるのならば読んでみようと考えていた。

 一戸建ての家はどこかそれ自体が牢獄であるかのように閑散としていた。天気は晴れだというのに、洗濯物すら干されていない。ドアを開けた途端、鼻に覚えた臭いに、思わず純は顔をしかめる。

「お帰りなさい」

 すぐ近くから母の声が聞こえた。ちょうど居間に入ったのだろうか。その姿は見えなかった。けれど、

「ただいま」

 雪子の声で答えながら、純はまっすぐに二階を目指す。
 途中居間のドアを通りすぎた。視界の端に、今朝の朝食がまだそのままになって置いているのが写った。
 姉の部屋に入る前に、いつものように純は純の部屋の前に立つ。ドアを軽くノックしてから、

「今、ちょっといいかな?」

 姉の声が遠慮深げに声をかける。
 ドアの中から声は帰ってこない。当たり前のことだと思いながらも、純は心臓の鼓動が早まるのを感じた。耳の裏から圧するように鼓動の音がシンとした廊下に響いて届く。階段を上るときに電気をつけなかったから、廊下は薄暗い。ドアの前に突っ立ったままの自分は、その性別すらもあやふやで、ドアに淡く写る影では、男だとは誰にも分からない。

 自分は本当は、雪子なのかもしれない。
 純になっていると、思いこんで。

 鼓動が早まる。抑えつけようと動く手が、真実を知ることを拒むように固まる。
 雪子だったのだろうか。自分は。

 純自身は、まだ部屋の中に。
 汗が沸いた。流れ落ちもせずに、額に。汗があるという感覚だけを残す。

 純は、部屋にいるのだ。

 ぬいぐるみばかりの、中でうずくまって。

 姉が、ノックした、ドアを、見てる。

 動かぬ手で。濁った目で。

 だって、


 死んでいるから。


 右手がドアノブに触れそうになって、はっとして引っ込めた。

 激しく鳴る心臓を抑えるように胸に手を置いて、一二度深呼吸をする。平らな胸を手のひらで感じて、 自分が純であることを改めて言い聞かせる。

「今日ね、学校で面白いことがあったの」

 口から流れた雪子の声は、少しも動揺をしているようには聞こえない。早まったままの鼓動を確認しながら、純の口は雪子の声を、部屋へと送る。

 誰もいやしない。

 汗を拭いながら、自分自身に言い聞かせる。

「――佐知子って、すごいんだよ。いっつも誰か違う男の人とつきあっているの」

 口から流れている雪子の声は、教室の中で聞いたおしゃべりが元になった嘘を並べ立てる。きっと、一人教室で過ごしていた姉も、同じように誰かが話していた内容を、自分が聞いたことのように話していたのだろうと、純は考えていた。

「――本当に、大変なこともあるけど、学校ってやっぱり楽しいよ。だから……」

 続く言葉を言おうとして、純は息を吸った。雪子が一体どんな気持ちで言ったのか分からないままに言葉を紡ぐ。

「純も、一緒に学校行こう?」

 部屋の中からは沈黙だけが帰ってくる。ほっとして、純は自分の部屋に背を向けた。未だ早いままの鼓動を抑えるよう、手は胸へと置いたまま。ゆっくりと雪子の部屋へと入っていく。
 布団では、まだ雪子が寝ていた。

「ただいま」

 雪子の声で、雪子へと話しかける。真っ赤だったシーツは、カーテン越しの光の中でやけに赤黒く見えた。
 雪子は何も語らない。
 どんな声で雪子に話しかければいいのか、純は一瞬悩んだ。けれど、次の瞬間にはもう、声が口から出ていた。

「ちょっと日記見るよ」

 低く、それでいながら優しい声。純に話しかけるときはいつも膝の上に乗せてくれた。父の声。
 父親ならば、姉の日記を見ることがあっても良いはず。そんな言い訳を頭の中で反復させて、純は父親の目で雪子の机を見た。

 机の上は少しも散らかっていない。ただ、机の端に置かれている写真立てが倒されているのが、父親にとっては不満な気がした。写真立てを起こして、雪子の笑顔に思わず微笑む。その顔に浮かんだのは、まだあどけなさは残るが、どこか達観した表情。

 机の引き出しを上から順番に開けていく。上から二番目を開けたときに、目的のものは見つかった。

『日記二〇〇一〜』

 そうシンプルな題名だけがつけられた大学ノート。普通の女の子が日記を付けるときに買うようなかわいらしいものではなく、何冊かセットで買ったうちの余ったノートを使ったような素っ気なさ。思わず、純は姉の性格を思って苦笑した。

 そして気づく。日記を読むのであれば、父親である必要はないことに。

「そういえば、もう三日も日記つけてないんだ」

 雪子の声で言いながら、思考の中に父親を封じ込めた。ページを繰りながら、さりげなく、日々の記録に目を通していく。

六月十七日(晴れ)
 今日も、純は部屋から出てこない。学校に一人で行く。バスの中で恭子に話しかけたら無視された。憂鬱――

 予想していたとおりとはいえ、やはり純は、ショックを受けた。
簡潔で、だからこそ力がこもる『無視』と言う言葉。
 思わずノートを繰るスピードが速くなった。無視という言葉が、一番始めに出始めた頃を探して、ページを前へ前へと戻っていく。

 六月……五月……四月……
 嘘を語り続けた雪子の、日常がそこにあった。憂鬱と漢字で書けるほどに頭のいい少女が、無視という罠にからめ取られていく日々が、日記の中には淡々と、それでいて正確に書かれていた。
 二〇〇一年も始まりの方へと行き過ぎた頃に、それは見つかった。

 一月十二日(晴れ)
 今日も、純は部屋から出てこない。学校に、また一人で行く。今日はバスの中で清美にあったけれど、話しかけても、何も答えてくれなかった。クラスで、一度も話したことがない深山佐知子にいきなり言われた。「今日から小野寺さんのことみんなで無視するから」理由を聞いたら、弟が原因らしい。

「な、んで……」

 思わず口から出た声は純自身のものだった。けれど、自分の声を久しぶりに聞いたことすら、気づかなかった。
手先が震えるのを抑えられなくて、ノートを開いたまま机の上に置く。雪子の几帳面な字が、冷静に純の疑問に答える。

 弟が学校に来なくなったせいで、深山佐知子の彼氏はストレスをためているらしい。それで二人はこのごろ仲が悪い。だからだと言われた。

(あれはヤッパリいじめだったのか……) 
毎日痣を作っていた日々を思い出した。存在を認められているのは、暴力に流されている間だけという日常。一瞬くらい考えそうになる純を、日記の一文が消し飛ばす。

 くだらない。

 だったら私は無視されてもいいと言った。
 純は悪くない


 最後の文は、力強く書き殴られていた。途中で鉛筆が折れたのか、『は』の字がやけにゆがんでいる。

「姉さん……」

 ノートの上に、水滴が落ちた。ポト、ポトと落ちるたびに、雪子の字がにじむ。慌ててノートを閉じながら、純はベッドに横たわる雪子を見た。
 静かに雪子は眠っている。息すらせずに。真っ赤に染まった場所で。
 理不尽に始まった無視の日々に、雪子はただ嘘の日常を純に語って耐えていた。だんだんと負けそうになりながら。「憂鬱」に押しつぶされそうになりながら。
 それでも雪子は落とされたのではなく、選択した。無視される日々を。

『一緒に学校行こう?』

 その一言を一体どんな気持ちで言ったのか。無言のまま答えない弟に、どんな気持ちで嘘の日常を並べたのか。

「分からない、よ」

 つぶやきに、雪子は答えない。
 強い姉。強すぎるからこそ、苦しまなくてはならなかった少女。
 けれど、そんな彼女に自分がしたことは……

「分からなかったんだ」

 首を振りながら、純は後ずさった。三日前、音もなく開いたドアに背中をぶつけた。響いた音をやけにでかく感じて、純の心臓がぎゅっとしぼむ。あわてて、右手がドアノブを探す。その間も、目は雪子のいる場所から離れはしない。

 一瞬だった。

 ゆっくりと自室のドアを開けて、音もなくドアを開ければよかった。純に背中を向けたままで、姉は椅子に座り、勉強をしていた。

『姉さん』

 呼びかけた声に、姉は驚いた顔で振り向いた。その驚きが、すぐに喜びへと代わり、立ち上がった。

『純! とうとう、部屋から出たのね』

 笑顔のまま自身の胸に抱こうとするよう、両手を広げて姉は純へと近づいた。怪しむ気配すら見せず。

 父や、母のように。

 ドアノブに右手が触れた。大急ぎで回すと、背中の重みで外へと転げ出る。

「純、どうして?」

 姉の声に純は顔をゆがめて部屋を振り返った。自分が出した声だと分かっても、なぜ自分がそんな声を発したのか分からなかった。姉の、最後の言葉。父の、そして母の――

「違う!」

 叫びながら階段を転げ降りる。
 居間で新聞を読んでいた父へと近づいたときも、台所で料理の支度をしていた母に近づいたときも、階段は静かに降りていた。

「違う!」

 右手が手すりに触れる。この三日、夜になると静かに一人で家事をこなしていたせいか、やけに体は重い。体重をかけた途端に、手すりは嫌な悲鳴を上げた。
 ゆっくりとナイフが姉の脇腹に刺さっていくのが分かった。父を刺したように。母を刺したように。ただ、そこが最後の場所だと分かっているかのように、ナイフは気持ちよさそうに雪子の脇腹を上下する。

「純。どうして?」

 声が重なる。二重に、三重に。

「違う!」

 別に理由があったわけじゃない。今でも正確な答えなどない。すべてが嫌になっただけ、だとか、変わらない毎日にうんざりした、なんて理由があるわけでもない。ただ、殺した。

「違う!」

 スカートのまま転げ落ちるように階段を下りて、居間へと転がり込む。父親はまだ新聞を読んでいた。その足下が真っ赤になっている。新聞を取れば、驚いた表情のまま固まっている顔を見ることができるだろう。けれど、それをしないで純は台所へと、体を傾ける。すぐに、台所から居間へと通じる場所に、白い足が横になって見えている事に気づく。

「僕は……」

 理由があったわけじゃない。日々生きている理由すらもないのだから。暴力を受けた理由も。人に忘れられるようになった理由も。学校へ行かなくなった理由も。父を、母を……姉を殺した理由も。姉の格好をして学校へ行った理由も。

 雪子のように強い願いと理由など、初めからありはしなかった。

 涙が頬を伝って落ちた。

「僕は、いなければよかったの?」

 両手で頭を抱えながら、純はその場にうずくまった。父親の体を流れ出た血が、雪子のスカートを染めていく。太股に感じる冷たさはどこか遠い存在のよう。
 すぐに、声は聞こえた。

「そんなこと無いわよ」

 母の声だった。

「そうだよ。いなくて良い理由なんて無いだろう?」

 父が、すぐにその声に同調した。いつも、何か純が質問をすると母が答え、父は母の答えに賛成するよう追従した。

「そうかな?」

 自信なげに呟いた声に、すぐさま陽気な声が被さる。

「当たり前じゃない。純がいなかったら、あたし困るわよ」
「……ありがとう。姉さん」
「なによ、急に。変な純」

 流れ落ちていく涙を止めもせず、純は喋り続けた。姉の声で。父の声で。母の声で。
たった一人で。
 静まり返った屋敷の中、やけに陽気な声ばかりが、床に、壁にと跳ね返って血だまりへ沈んでいった。

 付近住民が小野寺家の様子がおかしいことに気づき、警察に連絡したのは、それから三日も経ってからの出来事だった。
 警察が様子を見に訪れたとき、小野寺純はまだ膝を抱えたまま、楽しげな家族の会話を繰り返していた。
 そして、その会話は何時までも終わることはなかった。
 会話を止める理由など純にはないのだから。

あとがき
日常ホラーと言う奴なのでしょうか。
普通に過ごす日常の中にある、ほんの切れ目。
その切れ目を広げてしまった人間の非日常。
そんなものを書いてみました。

そして、もう一つ。

僕らは、「理由」に縛られている。
けれど、「理由」が無くなったら僕らはどうなるのだろう?
「何で生きているの?」
と子供から問われたときに、
あなたはなんと応えますか?
「生きている理由なんて無いんだよ」とでも?

でもそれは、
「死ぬ理由もない」と言うことなんですよ?

「理由」に縛られた僕らは、
理由付けを嫌われながら、結局理由を求めている。

なんて、
久々に真面目な気持ちで書いてみました。