雪ノ恋


 恋愛とは雪だ。
 そう思うのはきっと俺が横浜市なんていう太平洋に隣り合わせな場所にもう二年も住んでいるからだろうか。恋愛は雪だ。期待していないときに限ってひょっこり降り出したりして、ものめずらしさからなんか嬉しくなって、つい降り積もるのを眺めてみたりする。雪に覆われた地表は美しい。けれど、やがて雪は解ける。解けることなく残り続ける雪は白さを失って汚れ、雪ではない何かに変わってしまう。その醜さを分かっているのに、見るたびに雪なんてと思うのに。また、雪が降るのを待ち望む。雪が降る景色に嬉しくなる。

 恋愛は雪なのだと思う。俺がこのことを口にしたのは義人だけだった。
 薄暗いバーの中で互いの顔すらよく分かりもしないというのに、義人はその時泣きそうな顔で俺に言った。

「もし、そうなら俺は雪の中に埋もれた日々を過ごしているというわけだ。早く逃げ出さないと凍死しちゃうな」

 言いながら苦そうに義人が飲んだカクテルはTRUELOVE。グラスに刺さったままのレモンの切れ端を、後で義人は皮ごと口に放り込んだ。

「誠司、それ、あってると思うよ。俺も」

 レモンの酸っぱさに目に涙を浮かべて義人は言った。涙の理由はレモンだけじゃないような気がしたけれど、俺は何も言えなかった。70年代を思わせるジャズが店内に流れていた。
 その年横浜には雪は降らないで、俺が義人に一年遅れて就職を果たしたときも雪は降っていなかった。
 けれど義人はそのときも雪の中にいた。


 義人から携帯にメールが入った時、丁度俺は冬を思わせるものを部屋の中からいくつか片付けたところだった。里から送られた電気カーペットは丸めて押入れの上に放り混んだ。便利だったドテラはクリーニングに出すことに決めた。唯一悩んだのはコタツ布団で、何度かは今日こそはと考えながら、結局最後には来週の日曜日まではそのままにしておくことに決めた。
 借家のマンション暮らしも二年目ともなると、生活していく上での大体のやり方は分かってくる。季節の移り変わりなどは毎年ほんの少しの変化はあるものの大体は繰り返しだ。去年は三月中旬にはまだコタツ布団があった。だから今年もそれまではコタツ布団を置いておこう。それですべてがうまくいく。毎年のように温暖化が叫ばれたとしても対して状況は変わらない。習慣を始めに作ってしまえばいいだけだ。
 義人のメールは簡潔だった。

『相談したいことがある。久しぶりに会おう。部屋に行く』

 『部屋に行ってもいいか?』でも『部屋に行きたいのだが』でもないストレートさと簡潔さに相変わらずだなと少しあきれながらも、嫌な気持ちはしなかった。義人とはもう九年来の付き合いになる。同じ高校で大学は違う場所に進んだものの、何かにつけて一緒に飲むことが多い数少ない親友の一人だ。別に断る理由もなく返信ボタンを押し、『了解』とだけを書いて送信した。

 義人は時間を指定していなかったがたぶん八時頃だろうと俺は予想していた。義人は晩飯時の時間帯がなぜか好きだ。高校時代一緒に帰っていたときがそうだった。部活で遅くなると、わざと義人は住宅地の中を練るように帰っていく。窓に明りがともって時折笑い声や怒鳴り声が聞こえてくるちいさな空間を覗き見るように歩く義人の顔にはいつも笑顔が浮かんでいた。不安定な青年らしいかげりのある笑み。そんな笑みを浮かべた義人に俺は何も喋れなくなってしまって、いつもただ後ろからとぼとぼと歩いていた。

『団欒の時間って面白いよな』

 振り返ることなく義人はよく言った。けれど、その声にはまるでまったく面白いと思っていないかのように硬く、とげがあるように聞こえた。
(怒っていたんだアレは)
 今となってはあやふやでしかないが、それでも思えることがある。義人は晩飯時の時間帯が好きだった。けれどその中には常に怒りがあったのではないか。そして、それは今も同じなのではないだろうか。

 ぼんやりと過去に思いをはせていると時間はあっという間に流れていった。テレビもつけずに、部屋の電気もつけずに、俺は暗闇の中で座って義人を待っていた。時計の針が動く音は慰めるように静かだった。俺は、自分が義人のことを思い出すときに、義人以外の人も同時に思い出していることをなんとなく気づいていた。

 ゆっちゃん。日焼けしやすくて、白い肌とは無縁の少女。いつも明るく元気で、けれどどこか壊れやすいところがある。まるで降り積もった雪のように――

 ドアチャイムと共にドアを叩く音が聞こえて俺は思わず背筋を伸ばしていた。誰が来たのかはもう分かっているのにどこかぎくりとさせられる。そんな自分がやけに可笑しくて思わず笑う。
 義人はジーンズにセーターを着て立っていた。こげ茶と薄茶で縞になったセーターは、首元までぴっちりと仕上がっていて少しも伸びていない。冬の間着ていた服にはとても見えなかった。まるで今日、俺と会うために下ろしたような。そう思うのはあまりにも考えすぎだろうか。

「なんかそれ年寄り臭いぞ」

 冗談目かしていった俺に義人はニヤリと口の端を持ち上げて両手を組んだ。

「そういうお前こそ、いい加減その膝の破れたズボン捨てないと彼女も出来ないぞ」

 言われて思わず膝を見る。擦り切れて親指大ほどの穴が見える茶色のズボンは高校の時からずっと穿いている。自分のウエストが変わらないことの証明にもなるし、何より服に金をかけるのはあまり好きじゃない。
 義人の攻撃がほとんど着たきりの上着に及ぶ前に、素早く俺は両手をあげて降参の印を見せた。

「確かに人のことはいえなかったよ」
「当たり前だ」

 細かく笑いながら義人は遠慮なく靴を脱いで部屋の中に入ってくる。2DKのマンションでは少し歩けばすぐに居間だ。壁に張り付くようにして義人の背中を見送った後、俺は部屋には戻らずに台所、といえば聞こえはいいが、単なる玄関脇のスペースへと向かう。

「お前まだコタツ片付けてないのか」

 呆れ返った声が聞こえて思わず振り返った。見ると珍しいものを見るような顔で義人がこっちを見ている。思わず浮かんだ笑みに義人は肩をすくめて見せた。

「まったく。よく暑くないねぇ」

 言いながらちゃっかりコタツ布団の中に足を突っ込んでくつろいでしまう。変わりのない姿に、安心と一緒にこみ上げてきた可笑しさを抑えるのに苦労した。

「あ、別に気にしなくていいから」

 今になって俺が台所に向かった理由が分かったのか、気遣わしげな声が届く。義人の声は相変わらず良く澄んだ高い声をしていた。俺も義人も二人ともタバコはやらない。あの煙が喉への悪影響になることを高校のとき俺達は何度も真剣に話し合った。少しもざらついた響きのない声に、再び安堵を覚える。しかし。

(だとすれば一体相談は何なんだ)

 あまりにも義人はいつもの義人のままで、まるで悩みがあるようには見えない。これでもし悩みがあるというのなら俺の方がよっぽど大きな悩みを抱えているような気さえする。

「おい、別に豪勢な料理を期待しているわけじゃないんだぜ」

 義人の声に慌ててそこまでの考えを振り払った。曖昧な返事で答えながら冷蔵庫を開ける。ビールがまだ二本残っていたことに正直ほっとした。250mlの缶であることはこの際問題ではない。つまみとなる物は冷蔵庫の隣の棚から取り出した柿ピー。なぜかこれだけは常に客を想定して余分に置いてある。ピーナッツが嫌いだという奴はたまにいるが、柿の種を嫌いな奴はほとんどいないのが理由だ。別に考えることなくつまみとして出すことが出来るし、相手がどちらかが苦手なら、こっちはその相手が苦手とする方を食べればいい。
 幸い義人に好き嫌いはない。少なくても俺が知っている限りの料理に関してはだが。

「昨日にでも連絡くれればもっといろいろなもん用意できたんだけどさ。今はこんなもんしかないよ」

 両手に缶を持ちひじで柿ピーの袋を挟むようにして俺は義人の斜め横に座り込んだ。テーブルの上に缶を置けば素早く義人の手が一つを攫っていく。

「モルツか。まぁ、急に押しかけた俺が悪いんだし、この際我慢するさ」

 いっそ小気味よいほどの態度のでかさに思わず俺は吹き出していた。「なんだよ」と睨みつけてくる義人に理由を話せば、義人も可笑しそうに笑いながらプルタブを開ける。

「まぁ、俺の性格は昔からこうだからな。今更変えようとしても変えられないさ」
「にしても、ビールくらい買っていってやろうとか思わなかったのか?」
「いや、まったく。全然。あんまり飲むほうじゃないしな」

 悪びれのないその顔は聞かれたことを不思議がっているようにも見えた。もはや何を言っても無駄なのだということを改めて気づかされる。仕方なく同じようにプルタブをあけ、ビールを軽く上げる。

「んじゃ、とりあえず乾杯しようか」
「おいおい、コップに注いだりしないのかよ」

 からかうようにひらひらとビール缶を揺らすそのしぐさに、さすがにむっときた。

「グラスが無いの分かってるだろ?」

 というよりも基本的にガラスの入れ物は家には置いていない。理由は簡単でガラス物は割れやすく、破片も飛び散るからだ。そのことは何度も来ている義人は当然知っている。知っているくせに毎回乾杯のときになってこうやって茶化してくる。

 そのまま嫌味の一つや二つ言いそうになる俺に、義人は不思議と真面目な顔を見せた。揺らしていた缶を一度テーブルにおいて、「いや、悪かった」と軽く頭を下げる。いつもと違うその態度に心臓の裏側を紙やすりでなぜられたような不快感を覚えた。今日は何かが起こる。そんな予感が体中を波立たせる。

「んじゃ、とりあえず飲もう」

 表情を繕って言う俺に、義人が頷く。けれど、いつもなら乾杯の音頭をとるはずのお調子者めいた言葉はなぜかその口から流れ出ない。一度頷いたまま、じっと義人の目はビールに注がれている。まるでビールを飲むことが試練であるかのように、表情は硬い。

「なんに乾杯しようか?」

 思わず俺の方がおどけていた。引きつりそうになる笑いを浮かべたまま、義人の顔を覗き込む。まるで無防備に、義人ははっと俺を見る。
(義人はここにいなかったんだ)
 豆電球が急についたように小さく考えが煌く。けれどその光と共に見えた不安な色の正体はまるでわからない。当惑する俺に、義人は一つ咳払いをした。その顔がいつもの砕けた笑みになる。どこか作っているように目の辺りが緊張していること以外はまるで同じ笑み。

「んじゃ、九年もの間続いた長い友情に」

 口調は軽かったがその言葉は噛み締めるように一言一言やけにはっきりとしていた。声と共に上げられた缶に思わず一緒になって缶を上げる。

「乾杯」

 言葉と共に軽く打ち合わせれば、アルミ缶特有の空しさが広がる。

「なんか苦いな、これ」

 一口飲んだ義人がいった。ビールが苦いなんてことを最後に言ったのはいつのことだったろう。頭に浮かべようとしてもそれは楽しかったいくつもの思い出に飲み込まれてしまって輪郭さえもぼやけて見えない。

「そうか? 普通だけど」

 半分は嘘だった。もうビールの味など感じられない。まるでまずい水を飲まされているみたいだった。目の前に両足をコタツに突っ込みまずそうにビールを飲む男が、本当は誰なのか。ビールよりもそのことのほうが重要だ。けれど口を開く前に、ポツリと義人がいった。

「俺、雪子と別れようと思うんだ」

 小さくはじいたような音を立てて義人は缶をテーブルに置いた。その音は俺の頭を貫いた気がした。耳の奥で反響する言葉を必死に繋ぎとめて、俺はまず言葉の意味を知ろうとした。
雪子という名前を思い出せないことに焦った。目の前の義人はレモンをかじったような顔をしている。今にも、目から何かが落ちてきそうだ。そして義人はその辛さを俺に共有させようとしている。それなのに俺は雪子が誰なのか分からない。

(ばかだな。雪子といったら、渡辺雪子に決まっているだろう?)

 本当にそうだろうか? 頭の中の半分はYESだといい、残りの半分は力いっぱいにNOを叫んでいた。黙ったままの俺に、俯いていた義人の目がチラリと上がる。自嘲気みの笑みが浮かんだのを、俺は見逃さなかった。

「お前には『ゆっちゃん』の方が分かるかな」

 頭の中で音が響いた。木製バットで殴られたような気持ちになる。疑問という雲があっという間に霧散する。俺は笑っているゆっちゃんの顔を浮かべることが出来た。何か信じられない言葉を聞いたような気がして思わず俺は言っていた。

「そっか。お前らまだ付き合ってたんだ」

 渡辺雪子という名前では浮かばなかった表情がありありと脳裏に蘇ってきた。夕暮れの教室。真っ赤に染まった机と一緒に頬まで赤く染めた彼女がゆっくりと首を横に降る姿。
『好きな人がいるの』
 哀しそうに、泣きそうな顔で言ったゆっちゃんの顔をなんとか微笑ましたくて、『んじゃ友達で。いや、姫をお守りする騎士になります』なんて畏まって言った秋の夕暮れ。弱々しく微笑んだ彼女。あの時二人は高校生を半ば過ぎた頃だった。

「ああ。そうだよ」

 ビリリリと不機嫌に空間が切られた気がした。見ると義人が柿ピーの袋を開けていた。岩でも噛み砕くように、歯はピーナッツを飲み込んでいく。ゆっちゃんだったらそんな食べ方には猛然と大反対をしただろう。彼女は柿ピーは両方一編に食べるのが好きだと言っていたはずだ。

「そうだよって。お前そんなこと一言も言わなかったじゃんかよ」

 つい口調が非難がましくなっていた。義人の顔が歪む。言葉に出さなくても、言えるわけが無いだろう? とその顔は語っていた。言えるわけがない。本当にそうだろうか。友人にも言えないほどに、二人の中は神聖で厳かなものだったのだろうか。
(確かにそうかもしれない)
 明るいところもあるゆっちゃんはけれどどこか陰のある子だった。夕焼けの似合う子だった。ゆっちゃんを笑わせようと、どれほど努力したか、俺はありありと思い出すことが出来た。笑い話なら大抵笑ってくれるのに、少しでも下ネタに入ると、途端不機嫌になってしまう。繊細で、気分屋のところもあった。

「どのくらいなんだっけ?」

 聞きながらも指はもう二人の年月を指折り数えていた。と、同時に当時のことが蘇る。
高校を卒業するときに住所を交換した。俺はその年の大学には全部落ちてしまって、浪人生をなんとなくやることになっていた。あの時大学に入っていれば、もしかしたらゆっちゃんとは普通に話せていたのかもしれない。けれど、浪人生だからと遠慮しているうちに、コルクボードに張ったままのゆっちゃんの住所と電話番号はどんどん色あせていった。

 大学の合格が決まったとき震える指でダイヤルを押して電話した。それは今でもはっきりと思い出せる。けれど、その時ゆっちゃんは一体なんと言ってくれたんだろうか。「おめでとう」とか、「よかったね」だとか、そんなありきたりの言葉じゃなかった気がする。だから俺は勇気を振り絞ってもう一度彼女に気持ちを伝えようとしたはずだ。
『ゆっちゃん今楽しい?』
 何気ない前振りに、ゆっちゃんは数秒確かに沈黙した。息も聞こえてこない電話は何か怪物めいていて、何でこんなモノで会話が出来るのだろうと思うほどに見知らぬ存在だった。小さな呼吸を一つ、やけにゆっくりとした後でゆっちゃんの声は聞こえた。
『……うん。楽しいよ』
『あのさ、俺』
『今ね』
 先を続けようと勢い込んだ俺の言葉を、ゆっちゃんの声が寂しげにさえぎった。その声は初めて告白したときの夕焼けの教室みたいに沈んでいた。
『つき合っている人がいるんだ』
 先に続けようとした言葉がすべて萎んでいって、くしゃくしゃになって、そのままくずかごの中に転がっていった。俺も一緒になって転がっていきそうになるのを必死に抑えて、できる限り元気な声で言った。
『まじで! すごいなぁ。俺も早く彼女欲しいよ』

 ゆっちゃんとはそれからも何度か電話で話をした。ゆっちゃんが就職してからは忙しいせいでほとんど電話は出来なくなった。
今は会うことは無い。

「信じられないよなぁ。まだお前ら二人が付き合ってるなんて」

 ゆっちゃんの口からは、義人のことなど一言も出なかった。高校時代、俺と義人はいつも一緒にいた。俺はよくゆっちゃんとも話をした。だから俺たちが三人でいるのは、とても自然な風景のようだった。
 なのに義人の話がゆっちゃんの口から語られることはなかった。それは義人にしても同じだ。大学に入ってからも、義人はゆっちゃんの近くの大学に通っているはずなのに、ゆっちゃんの話は出なかった。まるでその存在を忘れてしまったかのように、一切。義人とゆっちゃんにとって、お互いは幾重にも茨で巻かれたモノであるかのように。触れたら血だけでなく、毒が身体に回ってしまうかのように慎重に話はそらされた。

 だからこそ、俺は二人がつき合っているのだと分かった。なんとなく気づいたのは大学の二年生だった。ギリギリまで延ばされた答えを掴んだような気分だった。

「でもさ、お前はつき合っているなんて一言も言わなかったんだよなぁ」

 義人はビールの缶を見つめている。モルツの品質表示に何か重大な見落としがあるかのように何度も目を走らせている。黙ったままの義人に俺は言葉を続けた。

「つき合っているんじゃないかって分かったときもさ、問いただした俺にお前言ったろう?『そうだよ』って。アレはないよなぁ。散々隠していたのにさぁ。あっという間に話しちゃうんだもん」

 暗いバーで義人はカクテルを飲みながらなんでもないように言った。つき合っているという言葉がまるで通過儀礼であるようにひどくめんどくさそうに。その時胸の中に溢れてきたものを俺は一生忘れないと思う。体の内側、内側の一番暗闇を意識させる場所から下水道が詰まったような居心地の悪い音と共に、何かが競りあがってくるイメージ。頭の中にいくつもの虫が急に陣取って這い回っているような錯覚。

 もし、頭の頂上に噴火口があったのなら、どす黒いマグマと、一呼吸で何百人もの人間を殺すガスが出る気がした。

 俺は義人を見た。義人は俺を見ようとはしなかった。しゃれたカクテルのグラスをじっと見つめて、今もモルツの缶を見つめているように、グラスに刺さったレモンのシワをじっと見ていた。怒鳴りつけそうになって俺は体中の力を一編に押さえ込んだ。手の中でカクテルのグラスが割れた。青白いカクテルの中に赤が溢れる。ギョッとして義人が初めて俺を見た。その顔に浮かんでいた表情も、俺は覚えている。

 それは後悔だ。深い闇の廊下をただ一歩進んでしまったために、終わりにたどり着くまで歩かなければならないことを知った時のような。弱く何か見えないものにでも頼りたくなるような表情。

 血だらけになった手から冷静にグラスの破片を除くと、俺はハンカチで手の平を抑えた。マスターが気を利かせて持ってきてくれた布巾に途中で持ち替えて、血だらけになったハンカチは店のゴミ箱に捨てさせてもらった。
 それだけだった。俺の怒りは恐いくらいに消えていた。そして、俺は義人に話したのだ。雪の話を。

「あのときの話を覚えているか?」

 しかしそのことを口に出したのは俺が先ではなかった。ビールの缶を握り締めた義人がいつのまにか品質表示からは目を上げて俺の顔を睨むように見ている。

「あの時の雪の話を覚えているか?」

 俺は頷いた。義人も一つ頷いた。
 あの時、義人は雪の中にいるのだと言ってレモンを噛んだ。その目からこぼれそうになったものは、レモンの酸っぱさのせいではなかった。俺はもう、二人は終わってしまったのだということを知った。ゆっちゃんと義人。二人の間に降っていた雪は、柔らかい粉雪の時を過ぎて、二人の足元で冷たく固まり始めていたのだろう。なおも降り続ける雪の中で、雪の名をもつ少女の横で、義人は震えていたのだ。それはとても冷たい想像だった。
 俺は思わずコタツの中に足を入れた。伸ばしていた義人の足にぶつかる。義人が膝を折ると、狭いコタツの中は温まるのに丁度いいスペースになった。

「あれからもう二人は別れたんだと思っていたよ」

 俺の言葉に、義人は力なく首をふった。俯いたままポツリと義人の口から言葉が漏れる。

「別れられなかった。俺たち、雪の中に巻き込まれたまんまで。二人でいるから冷たいのに、離れられなくなっていたんだ」

 二人でいるから苦しいのに、離れられない。それはどれほどの苦しみなのだろう。俺は想像することすら出来なかった。何か冷たい鎖がジャラジャラと音をたてて周りを囲んではキリキリと絞まっていくようなイメージが一瞬頭の隅に浮かんだ。
 ではそんな苦しい時を二人はずっと過ごしてきたというのだろうか。あの時からすでに三年が過ぎている。その間に俺は何度も二人と話をした。まるで気づかなかった。変化にも、冷たさにも。雪の存在にも。

「なんでだよ。お前ら、平気そうだったじゃんか。俺の前では、悩んでいるなんて全然見えなかったじゃんか」

 愚鈍とののしる声が耳の裏側から脳へと突き刺さる。義人は弱々しく笑みを浮かべてまた、ビールを口に運んだ。

「知られたくなかったんだ。俺たち二人とも。お前にだけは」
「なんでだよっ」

 思わず語気が荒くなった。押さえ切れなくて俺はテーブルを叩いていた。飲みかけのビールが少し浮き上がる。耳ではずっとさげすむ言葉が投げられ続ける。俺は今日までの二人の姿を出来るだけ良く思い出そうとしてみた。ゆっちゃんは声しか聞いていない。けれど、その声の中につらそうな様子は一つも

(本当か?)

 見えなかった。

(けれど、本当にそうだったのか?)

 あの夕日の中で寂しそうに笑ったとき、哀しそうに首を振ったとき、あの時のゆっちゃんの心の痛みならすぐに分かる。それなのに、電話の向こうからのゆっちゃん声からは痛みを掬えない。辛さを思い出せない。義人もそうだ。会っているとき、少しも変なところは無かった。不自然さなど少しでもあれば気づいたはずだ。今日ほどに違う雰囲気を見せていたのならすぐにでも。けれど。

「なんで、言ってくれなかったんだよ」

 言ってくれれば分かったはずだ。知ればもっと何か出来た。

「言ってどうなるんだよ」

 俺の心の中を見透かしたように、義人の言葉は冷たかった。

「言って、何か出来たのかよ」

 義人の声に怒りは無かった。突き刺すように冷たい目とは逆に言葉は不思議なほど穏やかだった。余計に背中を刃物で撫でられたような気持ちになる。少しでも視線をそらしたらすぐに視界は真っ赤に染まるような気がした。じっと、次の言葉を待つ。義人の顔が歪んだ。アルミ缶がへしゃげる音がして、見ればビールの缶は義人の手の中で形を変えていた。

 義人が一つ息を吸った。俺を見つめていた冷たい瞳がふっと和む。


「雪子はお前が好きだったんだ」


 その口が動くのと言葉を聞くのを、俺は別々にしているような気がした。義人の口がゆっくり動くたびに脳が勝手に言葉を作っていくのだ。俺に都合のいい言葉を。そして俺は脳が作った言葉に騙され混乱する。
 しかし、実際は義人の口がどう動くのかも、その口が何を語るのかも、同時に俺は理解していた。理解が精神に追いつくまでに数秒、そして俺が反応できるまでに数秒かかった。

「え?」

 口をバカみたいに開けて俺は義人を見た。義人は飲み終わったビールを潰しに掛かっている。クシャンと小さな一つさせて、ビール缶は小さくなった。同時に俺の存在まで小さくなってしまったような気がして、結局俺は混乱した。

「どういうことだよそれ? だって俺、ゆっちゃんに告白して、でも振られて」
「俺、雪子とは高一のときからつき合ってた」

 机を乗り出しそうになっていた俺の体の力が簡単に抜けていくのが分かった。放り出されたビール缶のように、頭と足がくっついてしまったような錯覚を覚えた。実際はただ、コタツ布団に顎をのめりこませただけだった。

「じゃ、じゃあ」

 十年近い間二人は付き合っていたことになる。俺という存在がゆっちゃんの前に現れるまでの一年間だけが、二人にとって最も幸せな日々だったのかもしれない。高校一年の自分を思い出そうとしたけれど、俺にはとてもじゃないが無理だった。二十代の終わりに差し掛かった自分が、まだ二十代にはならないと信じていた自分を思い出すことなんて不可能に近い。

「おまえは、とんだ邪魔者だったってわけだな。俺にとっては」

 そう言って義人は笑う。その口に柿の種が放り込まれるのを俺はぼんやりと見送った。義人がわからない。ここまで義人が分からないと思ったのはたぶん初めてた。

「何でそんなふうに笑えるんだよ」

 俺は、二人がつき合っているのを知ったときに黒くなった。暗闇に飲まれそうになって鮮血と義人の表情で自分を取り戻した。しかし義人は。恋人が違う人間を好きになったという苦しみにどうやって耐えたのだろう。俺には出来るとは思えない。

「簡単さ。すべては俺が悪いんだからな」

 義人の言葉の意味がつかめないでいる俺に、義人はこともなげに続けた。

「だってそうだろう? 雪子がお前のことを好きだって分かったときに、俺たちは別れるべきだったんだ。だけど、俺はそうしたくなかった。だって、お前が次に雪子と付き合うことになるんだもんな。俺が付き合っていた女と、俺の友達が付き合うことになるなんて、俺は耐えられなかった。耐えられるとおもうか? 自分が好きになった女と、自分の友人が仲良さ気に歩いている様子なんて」

 弱々しい笑みを浮かべていた顔が、瞬間怒りの形相に変わったのを俺は見た。それは変身と言ってもいいほどの変化だった。義人の顔が取り替えられてしまったのではないかと見間違うほどの。そんな怒りの形相のままで、義人は笑った。バカみたいな高笑いで。

「だから、別れないでいてやったんだ」

 傲慢なその声に吐き気がした。俺がずっと友人だと思っていた男はこんなにも醜い人間だったのだろうか? それともこれは皆、雪の冷たさがもたらしたものなのだろうか。そうだとするならその原因は俺にあるんだろうか。それに。

「でも、そうしたらゆっちゃんは」

 ゆっちゃんの気持ちはどうなる? 先を続けようとした俺の言葉を義人との笑いが遮る。笑い声は次第にザラつきを持ったものへと変わっていく。

「ああ。雪子はお前が好きだったさ。でも、俺のことも好きだったんだよ。付き合うほどじゃないとしてもな。だから俺は、その気持ちを利用して雪子とつき合っていた。雪子は強かったよ。強かった。俺なんかよりもずっと強かった。……俺は、もうだめだ」

 お終いの言葉は涙と一緒になって、もうなにを言っているのか分からなかった。義人は泣いていた。コタツ布団に顔を押し付けてむせび泣く姿は、とても社会人には見えない。まるで幼い子供が叱られたときのよう。

「もう別れるよ、雪子とは。あいつの辛い顔を見るのは、もう俺には耐えられない」

 泣きながら繰り返すように言う義人の言葉に、俺は安堵を覚えながらも、体が寒々と冷えていくのを感じていた。吹雪に飲まれた二人。男のエゴで繋ぎとめられた鎖。見えない感情に気づかなかった俺は、コタツを片付けるかどうかを悩むだけで、冬がまだすぐ近くにあることを知りもしなかった。
 すべての原因は俺だ。夕日の刺さる教室で、ゆっちゃんを守る騎士になると誓った俺は、いつの間にか研ぎ澄ました剣の先でか弱い恋人たちを刺し続けていた。自分でも刺しているのがわからないほどゆっくりに、けれど確実に。

「なぁ、雪子を幸せにしてやってくれよ、お前のことを、まだ雪子は好きなんだよ」

 泣き咽ぶ義人の声はくぐもっていて良く聞き取れない。それでもその言葉が何を意味しているのかはわかった。隣の部屋に自然と顔が向く。机や本棚が置かれた壁に、高校のときから使っているコルクボードが掛かっている。その端っこに、いまだ色あせたまま残っている一枚の紙切れ。『ゆっちゃん』と名前のかかれた下に綺麗な丸文字でかかれた電話番号は自宅のものだが、その下に赤のボールペンで電話番号が付け足されている。あれは彼女が就職する際に買った携帯電話の番号だ。実際あの番号を見なくても、俺のポケットの携帯には彼女の電話番号が二つとも登録されている。

「俺に出来るかな」

 何も気づかなかった俺に。気づこうとすらしなかった俺に。

「そんなこと、分かるかよ」

 義人の言葉は冷たかった。けれど、その後で義人は皮肉な笑みを浮かべた。まるで、自分にはもう何もかもわかっているんだという笑み。まるで人生の先輩のような知ったかぶった目。けれど、義人は本当に分かっているのではないか。そんな気がした。


「お前はどうなんだよ」


 答えを待たずに義人はごろりと横になった。俺の位置からでは顔が見えないようにわざとらしく俺に背を向ける。丸まった義人の背中は寂しさよりも、どこかすっきりしているような気がした。それは俺のエゴだろうか。でも。
 答えを出すとしたら今しかない。その背中はそう言っている気がした。
 俺は携帯をポケットから取り出すとコタツから出た。義人には聞かせられない気がして、隣の部屋に行きながらアドレスを探す。その時俺は、なぜ自分が渡辺雪子という名前で覚えが無かったのかをなんとなく気づいた。

 メモリーには『ゆっちゃん』で登録されている。

 なぜ義人はゆっちゃんと呼ばなかったのだろう。ふと頭の中に浮かんだ疑問はいずれは解決するだろう。耳の中に響くコール音を聞きながら、まずゆっちゃんには、降り続けていた雪が止んだことを伝えようと思った。
 新しい雪を彼女は拒むかもしれない。けれど雪は必ず降るのだから。

 必ず。

あとがき
2006年始めの小説は、実はずいぶん昔に書かれたものです。
その当時物語りの登場人物二人の友情はひどくこっけいでした。
今、書き直してみると、こういう救いのない自分勝手な男たちも、
これはこれで悲しい存在なんじゃないかななんて思ったりします。
そして、この物語から
台本置き場にある「雪振るまえの恋言葉」は生まれました。
登場人物の名前は変わっています。
二人の関係もだいぶ変わっています。
それは、ほんの少しでも、
この二人の悲しい男たちを好かれる存在にしたかったからでした。
それが成功なのか失敗に終わったのか。それは読者にお任せします。

友人の恋人を好きになる。
友人が自分の恋人を好きなことを気づいてしまう。
それは悲しいくらい滑稽でコメディな悲劇です。
こんなことはドラマの中だけであればいいなぁと、
願わずにはいられない楽静でした。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。